【土・日曜日に書く】論説副委員長・渡部裕明
手元に一冊の新聞縮刷版がある。『産経新聞が伝えた阪神大震災3カ月』(ブレーンセンター)。平成7(1995)年1月17日早朝に起きた阪神・淡路大震災の発生から3カ月間の産経新聞(大阪本社版)の主要記事を掲載したものだ。
改めて読み返すと、あのころの神戸の街の雑踏や土ぼこりのにおいなどがよみがえってくる。
阪神大震災は、大阪府高槻市の自宅で経験した。激震地(震度7)に比べると揺れははるかに穏やかだったものの、幼い子供を抱えて不安が募った。
◆「阪神」の惨状ふたたび
17日午後、神戸に向けて大阪本社を出発したが、渋滞で車がほとんど進まない。兵庫県西宮市で朝刊用の取材をし、仮眠のあと徒歩で神戸に向かった。3年前まで、総局デスクとして見慣れた街の惨状に目を覆うしかなかった。
震源は明石海峡の海底で、マグニチュード(M)は7・3。いわゆる直下型地震である。淡路島から京都にかけての「有馬・高槻断層帯」が大きく裂けた。
当時、東海地震や首都圏直下型の脅威は言われていたが、関西の地震を警告する人はいなかった。慶長元(1596)年閏(うるう)7月に発生した「慶長伏見地震」の400年後の再来と聞かされ、この国では地震はいつ、どこで起きても不思議でないと思い知った。
それでも心のどこかでは、自分がふたたび、こんな悲惨な光景を目にすることはあるまいと信じていた。それだけに、3月11日の衝撃には言葉もない。
遺跡から地震の痕跡を読みとる「地震考古学」を確立した寒川(さんがわ)旭・産業技術総合研究所招聘(しょうへい)研究員の『地震の日本史』(中公新書)には、縄文時代から平成19年の新潟県中越沖地震まで、日本で起きた大地震がさまざまなエピソードをまじえて紹介されている。
◆1100年前の貞観大地震
その中には、東日本大震災との類似が指摘された平安初期の「貞観(じょうがん)地震」の記述もある。
貞観11(869)年5月26日、三陸沖で発生した巨大地震による大津波は、陸奥国(むつのくに)(東北地方)の国府が置かれた多賀城の城下まで押し寄せた。千人もの人が流され、亡くなったと正史の『日本三代実録』は記している。
マグニチュードは8・3と推定されている。今回の津波も、宮城県多賀城市にある多賀城跡(国特別史跡)近くまで及んでいるから、似た規模だったのだろう。
「貞観」という年号には皮肉な意味合いがある。わずか9歳の幼帝・清和天皇の即位に伴い西暦859年に改元されたのだが、元々は唐の太宗(たいそう)皇帝の治世(627~649年)の年号であった。
太宗は唐王朝の基礎を固める善政を敷いた中国史上最高の名君の一人で、その治世は「貞観の治(ち)」とたたえられた。太宗と家臣の政治問答は『貞観政要』として、いまも政治学の古典として読み継がれている。
こうして幕が開いた日本の貞観時代だったが、現実は困難な事象が相次いだ。大きな要因は、自然の猛威である。貞観6(864)年には富士山が噴火し、13年には山形県の鳥海山も火を噴いた。
貞観地震の直前には肥後国(熊本県)で大きな地震があり、前年の貞観10年には播磨国(兵庫県南部)で役所や寺院、住宅がみな倒れる大地震があった。まさに、大地動乱の時代だった。
貞観の世は18年間続いたが、混迷しか生み出せなかった。朝廷は災厄に遭った国々の税を免じ、救援物資を送り、伊勢神宮にひたすら祈るしかなかった。
◆道真は記録にとどめた
この時代に苦悩したのが、文人政治家の菅原道真(845~903年)である。道真は貞観12(870)年3月、最難関の国家試験「方略試(ほうりゃくし)」を受験し合格したが、問題の一つが「地震(ないふる)を弁ぜよ(論じよ)」だった。前年に起きた貞観地震への対応が国家的課題となっていたからであろう。
そうした経験があったから、道真は地震に関心をもち記憶と記録にとどめた。彼が編纂(へんさん)した『類聚(るいじゅう)国史』には、日本書紀以来の六国史(りっこくし)に記された地震を集めた日本初の“地震カタログ”も収録されている。
道真から1100年以上を経た現代に生きる私たちはやはり、覚悟を固めるしかない。それは、巨大地震に身をさらすことを前提とした「減災」への決意である。
国や行政は、しっかりと計画を立てて地震や津波に強い町につくり変える。個人もいつ、地震が起きても対応できる準備を自分たちで整える。
莫大(ばくだい)な費用と、年月がかかるだろう。しかし、阪神や今回の震災の多くの犠牲者の霊に報いる道は、それしかあるまい。(わたなべ ひろあき)