永田町所払い申し渡す。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 







【from Editor】



梅が咲く北の丸公園から、清水門を抜けて内堀通りに出る。ここにはかつて、火付盗賊改方(あらためかた)長官を務めた“鬼平”こと長谷川平蔵宣以(のぶため)の役宅があったとされる。

 江戸時代は天明期。異常気象や浅間山の噴火で全国的な不作となり、飢餓を避けて大量の窮民が江戸に流入した。コメを中心に物価は高騰、放火や強盗が頻発した。老中、田沼意次(おきつぐ)は飢饉(ききん)対策や財政再建に取り組んだが、幕府内の反対勢力の前にアイデア倒れが続いた。そんな時代だ。

 平成の経済力は強く、為政者が権力闘争に没頭してもさほどのことは起きないが、天明期の経済力では政治の無策は貧困層の生き死にに直結した。江戸市中でも餓死者が見られるようになり、ついには天明の江戸打ちこわしと呼ばれる暴動につながった。

 程なくして老中田沼が失脚。松平定信の寛政の改革が始まるが、そこで重宝されたのが鬼平だ。火盗(かとう)改方長官としての活躍は「鬼平犯科帳」でおなじみだが、行政官としてもやり手だったようだ。

 代表例が石川島の人足寄場(よせば)だ。ここでは、犯罪者になりやすい無宿者や軽犯罪者を収容し、基本3年をかけて職業訓練を施し、自立の道を与えた。犯罪の芽を摘みとろうというわけだ。大工、左官、草履やたばこ作り、裁縫、機織りなど多種多様な職業訓練を行い、報酬も支払われた。しかも、一定割合を貯金させて更生資金として持たせる思慮深さは、人気取りのばらまき政策と雲泥の差だ。

さらに、人足寄場の建設と運営は財政逼迫(ひっぱく)下で行われたため、解体家屋の建材を利用したり、銭相場で得た利益や、土地の賃料を運用経費に充てたりと工夫を重ねている。

 定信や平蔵がどれほどの効果を期待して手をつけたのかは定かではないが、人足寄場は明治維新まで120年余り続き、現代の刑務所の礎となったといわれる程の息の長い施策となった。

 話を現代に戻そう。春の訪れにふさわしく、大手企業を中心に業績回復が進み、地方経済にも薄日が差し始めている。ところが、こともあろうに永田町がその回復の足を引っ張っている。

 日本経団連の米倉弘昌会長は「税金を払っている国民のために何もしていない。給与泥棒のようなものだ」と国会議員を批判したが、確かに一理ある。鬼平であれば、どのような裁きを下しただろうか。遠島(えんとう)だろうか。それとも“永田町”所払いだろうか。(経済本部長 谷口正晃)