【決断の日本史】(72)
1300年前の東国開発物語る
7世紀から8世紀にかけて、律令国家の形成には百済や高句麗など朝鮮半島の国々から渡来した人々が大きな役割を担った。とりわけ東国の開発に果たした功績は見逃せない。
群馬県高崎市はいま、「多胡郡(たごぐん)建郡1300年記念事業」を展開している。平城遷都翌年の和銅4(711)年3月9日、上野国(こうずけのくに)に新たな行政組織、多胡郡が設けられたのを祝う行事である。
郡は現在でいえば、市のイメージだろう。この時期、全国で約30の郡が新しくできている。中でもなぜ多胡郡かというと、建郡記念の石碑が立てられ、今に伝わっているからだ。同市吉井町にある多胡碑(国特別史跡)は、付近で採れた高さ1.5メートルの砂岩に次のような80文字が刻まれている。
《朝廷から命令があった。上野国片岡郡、緑野(みどの)郡、甘良(かんら)郡から三百戸(約2000人)を割いて新たな郡をつくり、羊(ひつじ)(人名)に支配を任せる。多胡郡と名づけなさい》
「多胡」とは「多くの胡人(こじん)」、つまりたくさんの外国人の意味である。渡来人たちはこの地に移り住んで土木や建築、窯業、養蚕など新しい技術を伝えた。建郡は人口も増えたことを機に、行われたのであろう。
碑文には和銅4年3月9日の日付や、当時の朝廷の中枢にあった石上(いそのかみの)麻呂、藤原不比等(ふひと)とわかる人名も記されている。現地支配を任された「羊」が何者かは未解明だが、上野国宛ての公文書を基に刻まれたとみられる。
「全国でたったひとつの建郡記念碑です。新しい地域社会が誕生した喜びにあふれているでしょう」
多胡碑記念館学芸員、大工原(だいくはら)美智子さんは胸を張る。記念館では13日まで特別展が開催中で、6日には群馬音楽センター(高崎市)で記念のシンポジウムも開かれる。(渡部裕明)