【土・日曜日に書く】特別記者・千野境子
◆様変わりした内外環境
高度成長最中の1967(昭和42)年に発足、70、80、90年代を通じて日米関係の基盤作りに貢献した民間政策対話「下田会議」が17年ぶりに復活、新・下田会議として先頃東京で開催された。
下田はいうまでもなく、ペリー提督が日本を開国させて最初に踏んだ地、いまの静岡県下田市だ。米国初の総領事館もここに開かれた。いわば日米関係の原点であり、会議名もそこに由来する。
第1回下田会議では後の駐日大使、マンスフィールド上院院内総務が基調講演し、米側からは後の国防長官、ラムズフェルド下院議員ら議員8人が、日本側も若手政治家として売り出し中の中曽根康弘氏ら4人が参加し注目を集めた。以後、“下田会議”は日米民間交流の代名詞になるまでに発展したが、94(平成6)年の第9回会議を最後に休眠状態へ。この間、大きく様変わりしたのが日本をめぐる国際環境だ。中でも中国の台頭と北朝鮮の核開発は、東アジアの構造変化と脅威の増大をもたらしたのだった。
一方、国内も経済の低迷、高齢化の進行、そして短命政権による政治の漂流は民主党の鳩山由紀夫前政権に至って普天間飛行場移設合意が事実上反古(ほご)となり、同盟関係に不信と亀裂を生んだ。
皮肉にも、だからこそ日米関係の重要性がいまや党派を超え国民的レベルで再認識され、下田会議の再開を促したとも言える。
◆日本の価値を再認識?
再開第1回会議には政財学界、ジャーナリストなど日米から約70人が参加した。国会開会中のため日本側議員は何度か中座したものの11人。米側は6人とその約半分だが、主催の日本国際交流センター(JCIE)によれば、米議員が2人以上団体で来日するのは何と15年ぶりというから驚く。
「日本は初めて。素晴らしい」と語るニューヨーク州選出のベテラン女性下院議員もいて、ジャパン・パッシング(日本無視)をまざまざと見る思いだった。
会議は1日のみ。ただし「激動する国際社会と日米戦略的パートナーシップの再構築」を主題に、「今日までの日米関係の再検討」「アジアにおける日米関係」「地球的課題での日米協力」「今後の課題」とセッションは4つあり、日米関係の過去・現在・未来を凝縮して語ろうとの狙いだ。
双方が期せずして強調したのは、会議再開の意義と価値を共有する日米の絆の重要性だ。また米側からは日本の文化や歴史、技術力、勤勉さなどへの称賛とともに自己PRに控えめすぎる歯がゆさを率直に語る場面も見られた。
米国ではこのところ中国の軍事大国化や尊大さに警戒心が高まっている。「気がつけば案外魅力的だし強引でない」日本の価値再発見といった趣もありそうだ。
また過去の日米協力では、93年の首脳会談で決まった日米コモン・アジェンダ(地球的展望に立った協力のための共通課題)が「野心的だが抽象的で予算が少ないのに数が多すぎた」との反省も上がった。今後の協力で関心が高かったのは環境、感染症、災害、海賊問題など人間の安全保障分野。さらに賢人会議の設置や教育、次世代交流など提案も多かった。
◆真に深刻な安全保障
それだけに軍事、防衛というハードな安全保障問題の議論がやや少なかったのが気になった。それは物足りなさとともに、現在の日米関係の危機的状況を象徴しているようにも感じられた。
例えば民主党の長島昭久議員は(1)日米同盟の深化にいまもっとも大事なのは日本の意志。現状の枠組みでは不十分だ(2)日米はアジア太平洋の秩序をどう作るか。中国ではなく日米がルールを作るべきだ-など明快な問題提起を行ったが、セッションでそれ以上の深まりはなかった。逆説的にいえば、安保問題はいまあまりに本質的かつ深刻なゆえに、あえて踏み込まなかったと見ることもできる。
普天間ひとつとっても、そもそも民主党政権のガバナンス自体が問われている。とはいえ、有形無形で政権に影響を与えてきたのが下田会議の歴史であってみれば、これはちょっと寂しい。
山本正JCIE理事長は会議の概要を討議ペーパーなどとともに報告書にまとめ、次は米国でワークショップを開きたいという。
下田に泊まり込み議論をし、徹夜で日米共同声明まで作り上げた往時の下田会議と比べ、万事控えめな会議だったかもしれない。しかし日米関係の興隆期と成熟期に入りつつある今日とでは、同列に語ることはできまい。
アジェンダの多様性、若い学者や起業家の積極的参加など日米関係に明るい材料もあった。一過性でなくどこまで続けられるかも、復活会議の真価を決めるだろう。(ちの けいこ)