「西村眞悟の時事通信」 より。
本日は、早朝に家を出て夕方に事務所に入るまで移動続きだった。その間、奇妙なことに、頭から離れない思いがあった。
それは、本日早朝に新聞で見た、「暴言警官『暴行陵虐疑い』」という見出しの記事であった。
これは、先の時事通信に「角を矯めて牛を殺すな」で書いた事件の続報であった。その記事を早朝の出発前にあわただしく読んだが、「しつこい報道だなー、気の毒に」と思ったのだ。そして、いま再び読んで、やはり再び言っておこうと思う。
この事件に関して、二十一日に裁判所に向かう警部補の態度をテレビニュースで観た。同時に、彼の録音されていた「暴言」を聴いた。
そして、二十二日の「時事通信」に、「彼の『暴言』は許容される。それを『脅迫』として排除するならば、刑事司法は機能不全となり治安の維持は困難となる」と書いた。
しかし、そこに書かなかったことを付け加えておきたい。
「彼(警部補)の裁判所に向かう姿は、実に堂々として立派だった」、その姿から私は「彼は正しい」と直感した、と。
つまり、私は、彼の態度を「自ら顧みて直くんば、・・・我、行かん」という姿と観たのだ。
しかるに、今朝の報道では、彼に対する付審判請求に対して、裁判所が請求自体は却下するも、その決定の中で「脅迫の域を超え、特別公務員暴行陵虐罪の疑いが認められる」と指摘したという。そして、付審判請求をした弁護士の、裁判所の指摘を「評価する」旨のコメントが報道されている。
そして、日中移動している間に、この裁判所のコメントは、むちゃくちゃだという思いがだんだんと膨らんできた。二十一日のニュースで聴いた警部補の発言で、裁判所がここまで言うとは無茶苦茶だ。
そもそも、特別公務員暴行陵虐罪とは、公務員が被疑者を殴る蹴るという暴行の域を超えて陵虐する、つまり例えば裸にして吊して鞭打つ、さらに強姦する、という極めて重い罪である。あの発言だけで、この暴行陵虐の疑いがあるとは、無茶だ。
正直言って、裁判官たるもの、よくもここまで、頭から警部補を敵視できるものだと思う。警部補(特別公務員)であれば、裁判所は、彼の人権にも名誉にも、無頓着で配慮なく「糾弾」だけできるのか。
ひょっとすると、この裁判官は、警察は人民の敵だと思いこんでいる社民共産系の左翼ではないか。先日亡くなった連合赤軍の永田洋子に近い思想の持ち主なのか。
それとも、そもそも実社会が分かっていないだけなのか。
以前、ある裁判所に、刑事事件における量刑が非常に軽い裁判官がいた。ところが、ある日を境に、反対に非常に量刑が重くなった。例えば、以前は窃盗で懲役六月、執行猶予三年を言い渡していたが、突然同種事件で懲役三年の実刑を言い渡すようになったと思っていただきたい。
諸兄姉、この裁判官が量刑を重くするようになった原因は何だと思われますか。
深く考える必要はない。
ある日、この裁判官の家に泥棒が入った。これが原因だ。それ以来、彼の判決では、量刑が非常に重くなった。要するに、彼は泥棒被害の実態を知らなかったが、自分が被害にあってやっと分かったのだ。
また、裁判所とは、実社会とはちょっと遊離したところかも知れない。
私の司法修習同期に、再任を拒否されて裁判官から弁護士になった愛すべき人がいる。
(裁判官の任期は十年で、十年ごとに再任されて裁判官を続けることになる)
裁判所が彼の再任を拒否した理由の一つに、ある法廷での彼の発言を弁護士が取り上げて糾弾した事例がある。それは次のような事件だった。
彼の法廷に起訴されてきた者に、警察官の家に泥棒に入って捕まった被告人がいた。この泥棒は、法廷でくどくど弁解したらしい。そこで裁判官である彼は、不可解な弁解を繰り返す被告人に対して「おまえは、アホか」と言った。
その裁判官の「おまえはアホか」という発言を弁護士が「暴言、暴言」と騒いだ。
それで、彼は裁判所から裁判官の再任を拒否された。
この話を彼から聞いたとき、私は、警官の家に泥棒に入って捕まった奴はアホや、君の言う通りや、と言った。
諸兄姉も、同感と思う。しかし、裁判所というところは、これで首になるところだ。
話は、どんどん横に逸れてきたが、要するに、こういう裁判所には、実社会から遊離したけったいな思考回路の持ち主がいることもあるということを理解していただきたかった。
本日報道されていた付審判請求の棄却に際して不可解なことを書いた裁判官もその部類なのだろう。
話を本筋に戻して、再度言っておきたい。
高橋和也警部補の本件発言は、犯罪の捜査という領域において許容される範囲内にある。むしろ、その発言がふさわしい状況があるのが捜査の場であると言ってもよい。
彼に、小沢一郎氏やその秘書を取り調べてほしかった。
彼ならつべこべ言わせんだろう。そうすれば、この国家の大切な時期に、この問題で半年以上の馬鹿らしい政治的ゴタゴタを国民は見ずにすんだのだ。
また、彼に、大阪地検特捜部の証拠捏造検事(複数)を取り調べてほしかった。検察を検察が取り調べるのは妥当ではない。私は、当初から、大阪地検特捜部は大阪府警が捜査すべしと言っていた。
左翼が国家公安委員長になったり、死刑には反対だが死刑執行で人が死ぬところだけは見ておきたいという残酷な馬鹿者・サディストが法務大臣になったり、捜査の可視化つまり捜査が映像の「収録の場」になるのが理想の捜査に近づく方策だと叫ばれたり、
この度の警部補の発言が「特別公務員暴行陵虐罪」として付審判請求されたりする昨今だが、
これらはあくまで左翼政権による国家解体の流れの一環である。 我々は、あくまで、治安を維持し法秩序を護り、悪を懲らしめ法と正義を守る、即ち我が国家を守るという観点から、刑事司法のあり方を点検していかなければならない。
角を矯めて牛を殺してはならない。
くどいようだが、さらに付け加えておきたい。
ひき逃げがよく報道される。車で人を跳ねて怪我をさせたにも関わらず逃げてしまうひき逃げだ。
何故、普通の人がひき逃げをするのか。それは、事故を起こしてしまったときに、動転して「怖くなり逃げた」というのが通例である。
我々の存在は、このようなものなのだ。いざとなったとき、怖い、逃げたい、誤魔化したい、となるのが普通なのだ。
その時、この度の警部補の付審判請求された「暴言」のように、
その逃げたい誤魔化したいという思いに、一喝を与える発言が刑事司法の場には必要なのだ。
また、芸能界の有名人の葬儀の際に、役者の悲しそうなインタビューが必ず放映される。まことに真に迫って悲しそうだ。私は、その場面を見る度に、その悲しそうな仕草が、真実悲しいから為されたのか、それとも演技なのか分からず、彼の誠が分からず、役者とは因果な仕事だなー、と思うことがある。
捜査の可視化もこれと同じだ。
可視化で、真実が現れると思ってはいけない。むしろ真実はわからなくなる。真実は隠される。つまり、演技が上手い奴が上手く逃れ社会正義が実現できなくなる。
仮に、捜査の可視化があまねく行われるようになれば、かつて暴力団専門の顧問弁護士がいたように、それ専門の演技学校が密かに繁盛するようになるのではないか。
我々は、こんな偽善に満ちた社会はまっぴらだ。