【正論】弁護士、衆院議員・稲田朋美
≪「熟議」首相の官僚メモ読み≫
政治家になってまず驚いたのが本来最高の言論の府であるべき国会に議論がないということだ。
与党だった当時の自民党の国会議員にとり、最大の戦場は午前8時の党本部での部会だった。総務会(最高意思決定機関)を通らなければ法案は出せなかったので、前段の部会では対立のある問題については、それこそ真剣そのものの議論がなされ、いかに説得力ある議論、場合によっては破壊力ある議論を展開できるかが勝負だった。人権擁護法案のような悪法は部会の激論の末、潰してきた。
だが、残念なことに、総務会の了承を経た後の政府提出法案は、形ばかりの質疑の後に多数決で成立し、国会での議論はほとんど形骸化していた。民主党政権になってからは、党内での議論すらあるようにはみえなくなり、永田町のどこにも議論がないという、民主主義の末期症状を呈している。
だから、「熟議の国会を」(施政方針演説)との菅直人首相の発言自体は正しい。
だが、熟議にするには、答弁者が質疑に真摯(しんし)に答えなければならない。現在、審議中の予算委員会で痛感するのは、閣僚たちの答弁がほとんど質問に関係なく、質問時間を浪費させていることであり、委員長も熟議に関心がないのか、適切な議事進行を行わないから議論がまるでかみ合わない点だ。答弁者が自分の言葉で答えるのではなく、官僚の手になるメモを読むだけだから、常にピントはずれの答弁になっているのだ。
≪全審議中継と事前通告廃止を≫
質問が演説になったり、要領を得なかったりする野党議員にも反省すべき点はある。しかし、熟議を求めた首相自身が、官僚作成の答弁書を繰り返し読み上げ、答えにくい質問は冗長な答えではぐらかし、質問時間を故意に空費させている。由々しき事態である。
そこで、私なりに、国会の本会議や委員会に熟議を取り戻すにはどうすればよいか考えてみた。
第一に、委員会質疑を含む国会審議を原則、NHKで生中継することである。「すべてオープンにし」(首相の好きなフレーズ)、国民の目にさらせば、閣僚が質問にちゃんと答えているかどうかがガラス張りになり、それにより国会に緊張感が生まれてこよう。
前日の夕方までに質問事項を告げる事前通告の慣例も、それなしでは準備できない場合を除き不要である。国会を、熟議の場ではなく台本のある学芸会に貶(おとし)めかねないからだ。事前通告がないというだけの理由で、本来なすべき答弁を拒否することは許されない。
≪委員会の場で自由討論を≫
次に、質疑だけでなく、かつて国会法第78条にあった本会議での「自由討議」を復活させることも一考に値するが、委員会審議で質疑と採決の間に閣僚と議員との自由な討論の場を設けることなら、法改正なしですぐに実行できる。質問者以外の議員が聞くだけでなく討論に参加できるのだ。そうなれば、テレビの討論番組やニュース・バラエティーでの“場外戦”などから国会中心の政治に回帰するのではないか。
国会に議論がないから、政治家は、いかにテレビ映りがよくなるかとか、短いフレーズを連発してどれだけテレビに取り上げてもらえるかとかに汲々とし、論理に裏打ちされた説得や討論を軽視しがちになる。体育館に人を集めてテレビカメラの前で行う、事業仕分けなる民主党の政治ショー、野党を締め出して与党と政務三役の意味不明の合議体で行う、時間と税金の無駄遣いはやめてほしい。
自民党の部会でみられるような真剣で生き生きとした論戦を、国会の場で行う必要がある。
菅首相は先日の谷垣禎一総裁との党首討論で、「税と社会保障の一体改革」についてなぜ協議に応じないのかと繰り返し質問していたが、無意味である。四の五の言わずに政府案をまとめて国会に提出し審議すればよいだけの話だ。与野党協議の正式な舞台は国会であるはずだからだ。国会に質疑だけでなく委員会での自由討論を導入することで議論が深まる。
さらに、国会で討論が行われれば、議論が深まる半面で、必然的に審議はその分長時間に及ぶことになるだろう。私はこの点については、会期制に特段の合理的な理由はないから、それをやめて、通年制に変えるべきだと思っている。先進国の議会の中で日本の国会の審議時間の短さは突出しているというではないか。会期延長と臨時国会を合わせれば、法改正なしでもほぼ通年にできるだろう。要はやる気の問題だ。通年で真剣に議論し、それを国民にオープンにしてこそ、国会は真剣勝負の場に生まれ変わり、国会が真の熟議の場になってこそ、日本の民主主義は再生して、二大政党体制も意味あるものになるのだ。
最後に、熟議のためには、議論する当事者が嘘をつかないことが必要である。もちろん、考えが変わることはある。その場合には、なぜ変わったのか、そのことについての説明責任を果たさなければ議論への参加はできない。
(いなだ ともみ)