【幕末から学ぶ現在(いま)】(102)
東大教授・山内昌之 徳川昭武
◆幕臣感嘆させた肥沃
「エジプトはナイルの賜物(たまもの)」と述べたのは、古代ギリシャの歴史家ヘロドトスであった。エジプトには定期的に氾濫するナイル川の増水をたくみにコントロールする堤防や水路を使い、水利区画や水門を巧みに工夫して沃土(よくど)を堆積してきた伝統が現在まで伝わっている。
農業国家エジプトの豊かさは、幕末に欧州に派遣された幕臣などを驚かせたものだ。今回のカイロのタハリール広場の市民反乱だけを見ていると、どうしてもエジプトの豊かな農村風景を忘れがちになる。しかし、カイロやアレクサンドリアを通過した日本人たちは、整備された溜池式の灌漑(かんがい)体系の見事さに驚嘆し、増水期と渇水期を問わぬ豊穣(ほうじょう)な大地の有様に感心したのだった。2頭立ての役畜(えきちく)に引かせた大型犂(からすき)は、米や桑・繭や小麦・大麦やタバコに加えて、日本人には珍しいエジプト・クローバー、アヘン、綿花、インディゴ、サトウキビの生産に貢献したのである。
◆氾濫も精緻に記録
慶応3(1867)年に将軍徳川慶喜(よしのぶ)の名代(みょうだい)として、パリの万国博覧会に参加する途中の水戸家の実弟、徳川昭武とその一行は、エジプトの肥沃な自然風景について記録を忘れなかった。昭武の首席随員格ともいうべき渋沢栄一は、「尼児(ナイル)河」から地中海に向かう土地が“広々として肥えた良地”であり、支流分派する地もみな「塗泥(とでい)の良田(水が満々とした良質の水田)」だと褒めちぎっていた。彼の著した『航西日記』には次のような記述もある。
「毎歳一次潮水盛(さかん)に至り漲溢(ちょういつ)する。凡(およそ)深三十尺広二十里にいたり田土を培養する。農夫の灌漑糞畜するにひとしく、其(その)潮水の至ざる所は荒砂に属せるより其潮の干満をもて年の豊歉(ほうけん)を兆すという」
--ナイル川の水が毎年氾濫すると、深さ9メートル、広さ80キロほどの範囲に土砂を堆積する。これは農民が灌漑し肥料を撒布する仕事にも等しい。氾濫した水がゆきわたらないところでは土地が荒れ果ててしまうので、氾濫した水の多寡がその年が豊作になるか凶作になるかを占うしるしにもなる--。
これは随分と見事なエジプト農村の描写にほかならない。しかも、ナイル・デルタの豊かな活気を想像させる文章となっている。今度のエジプト政変で倒されたムバラク前大統領も、1981年にイスラム原理主義急進派に暗殺されたサダト元大統領もこのデルタの農村で生まれ育った人間であり、ムバラクに代わって全権を掌握した軍最高評議会のタンタウィ議長もデルタの農村の出身なのである。
しかし、農村の豊かさとは決して農民の暮らしが高いことを意味しない。年貢の収入は王族や不在地主に吸い上げられ、農民は時に逃散して都市のスラムに身を沈めることもあった。数えでわずか15歳だった徳川昭武はこのあたりもしっかり記録に残している。アレクサンドリアにおける貧富の差、上下の所得格差に正しく注目する眼差しはやがて水戸藩最後の藩主となる貴種の素直さというべきだろうか。
◆貧富格差見逃さず
「此地、上海・香港以来の繁華なり。驢馬(ろば)多し。田舎の貧民は、土を高さ壱間(いちけん)余りたたみ上げ、入り口一、二ケ所付け、其内に居住す。遠方より是を見れば蟻也。土蜂(どばち)の穴居するが如し」(須見裕『徳川昭武』)
貧しい農民の悲惨な生活を「蟻」や「土蜂」になぞらえるあたりの感性は、エジプト人貧民の恵まれない生活ぶりを的確に素描してはいないだろうか。そして、ムバラク体制のもとで開発と繁栄の闇の部分に取り残された現代エジプトの民衆の姿に、豊かな農村を耕しながら富の恩恵に与(あずか)らない農民を描いた昭武の筆致が重なる思いもするのだ。(やまうち まさゆき)
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【プロフィル】徳川昭武
とくがわ・あきたけ 最後の水戸藩主。嘉永6(1853)年、徳川斉昭(なりあき)の十八男として生まれる。第15代将軍慶喜(よしのぶ)は兄。慶応3(1867)年、将軍慶喜の名代としてパリ万国博覧会に参加、そのままフランスに留学する。明治元(1868)年に帰国、水戸藩主となる。4年、廃藩置県により藩知事免官。9年、仏に再留学、14年の帰国後は長く明治天皇に奉仕する。43(1910)年、死去。
将軍慶喜の名代としてパリ万国博覧会に派遣された徳川昭武=国立国会図書館蔵