【歴史に消えた参謀】吉田茂と辰巳栄一(49) | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 






米国を活用して近代的な軍を創設




「辰巳機関」が動き始める


 昭和26(1951)年9月、サンフランシスコ講和会議の会場になったオペラハウスで、日本全権である首相、吉田茂の受諾演説が終わりかけていた。

 舞台に並ぶ各国の国旗のポールの中に、日章旗がするすると上っていった。会場にいた吉田の娘、麻生和子は胸の高ぶりを抑えることができなかった(麻生和子『父吉田茂』)。

 最終日の8日は、欠席したソ連など共産3カ国を除く49カ国が対日講和条約に調印した。同日の午後5時からは、サンフランシスコの米第6兵団駐屯地で日米安保条約の調印式がひっそりと行われた。条約に署名したのは吉田ただ1人である。調印は米国側4人と合わせて、わずか15分で終わった。

 翌年4月28日に条約が発効し、6年8カ月にわたる占領時代が終わる。占領軍はその日から駐留軍に変わった。

 首相軍事顧問、辰巳栄一の日記にはただ一言、会議を意味する「conference」とだけ書かれている。吉田は敗戦の心理的な打撃から立ち直るため、経済の復興をすべて優先してきた。著書『回想十年』にも、「カネのかかる再軍備」など、「考えること自体が愚の骨頂であり、世界の情勢を知らざる痴人の夢であるといいたい」と書いた。

 日米安保条約第1条は、外国からの干渉による「大規模の内乱及び騒擾(そうじょう)を鎮圧する」ため、米軍の力を借りることを規定している。日本が独立してもなお、外国軍に依存するいびつな条項であった。「許与」する基地をどこに置くかの事前協議さえ、盛り込まれない。

それでも吉田は、「いずれの国も独力をもって独立を全うせんとするは不可能である」「集団防衛もしくは集団安全保障を国防の根本方針」といってのけ、「いわゆる井底の蛙、天下の大なるを知らぬ輩と評する外はない」と言い切っている(吉田茂『回想十年』)。

 ◆「民主的軍隊」の始動

 吉田は25年半ばから、国務長官のダレスに約束した「民主的軍隊」の構築を、辰巳の助言を受けながら進めていた。

 警察予備隊の組織づくりはいまだ難航していた。なんとか中佐級まではそろえても、軍に優秀な幹部のいない部隊は烏合(うごう)の衆にすぎない。辰巳は政府要人をはじめGHQの首脳部をも回って、粘り強く説いて歩いた。

 「一匹の狼に指揮された羊の群れは、一匹の羊に指揮された狼の群れに勝る」

 特に経験の豊かな大佐級は、前線では連隊長であり、参謀本部では課長クラスであった。しかも、海外に留学している人材が多く、視野も広い。

 吉田と予備隊本部長官の増原恵吉に人選を任されていた辰巳は、慎重にことを運んだ。政府部内は旧軍復活を恐れていたし、米軍内部には将来の合同作戦を考えて予備隊の訓練は米軍方式の採用を期待した。

 とはいえ、旧陸軍主流派だった服部機関の存在をないがしろにはできない。辰巳は26年春ごろ、東京・荻窪の私邸「荻外荘(てきがいそう)」に吉田を訪ね、彼らを「排することなかるべし」と説得している(「辰巳日記」)。

実際に、軍人として優秀な人材がいたし、無視すれば危険な報復も考えなければならない。後に述べるように、服部機関には不穏な動きもあった。それはCIA文書の「タツミ・ファイル」でも、大本営支那課長だった晴気慶胤(はるけ・よしたね)の話として、辰巳は次のように語っていた。

 「服部は自分のグループに新しい軍を独占させるつもりはない。彼が権限を与えられるなら、下村定(元陸相)を幕僚長に選ぶだろう。世間の注目がわれわれに集まっているので、服部にはできるだけ会わないようにしている」

 辰巳は服部と協議する際には、夜半に彼の自宅を訪ねていることを晴気に語っている。辰巳の日記に、ときどき「Hとの会見」「Hattori」とあるのは、服部卓四郎を指しているものと考えられる。

 ただ、どこまでが辰巳の本心であるかは分からない。晴気を通じて、服部に敵対心がないとの意思を伝えようとしていた可能性もあった。辰巳が人選に悩む様子は、日記にもわずかながら痕跡をとどめている。

 そうした日々の憂さを晴らすように、辰巳日記にはたびたび「cinema」と映画をみている様子が描かれている。当時の報道事情を考えると、ニュース映画を見ていた可能性もある。3月20日の妻、恒子の誕生日前には、「presentを求めて銀ブラ。銀座の週末、ニギヤカなことである」と書く。明治男の辰巳は、表だって妻への思いやりを見せることはなかった。だが、日記には家族思いの一面をのぞかせる。

 欄外に書かれている「3月の思い出」にも、「母 依然病床はや十月、恒子 健康状態先ずよし、敏彦 東大卒業学士様となる、健二 大阪 世界救世教に一心なり、栄冠 大変悠長」との言葉を残している。

そうした辰巳の気配りは、GHQ参謀第2部長、ウィロビー少将の帰国が近づくと、銀座で記念品を購入していることにも表れている。皇太后の崩御で中止にはなったが、日本郵船ビルの参謀第2部で働いた旧軍人らと送別会を企画した。

 辰巳はウィロビーが離日する5月22日には、横浜まで見送っている。彼はその日、「なかなか盛大、W氏も感激ならん」と日記を結んだ。

 ◆「政府公認」でない仕事

 このころの辰巳は、予備隊を作り上げるため、信頼のおけるスタッフの必要を感じていた。27年3月頃から、宮野正年、山崎正男、杉田一次、細田煕(ひろむ)、高山信武(しのぶ)らを選任し、彼らを嘱託にして予備隊本部内に一室を構えた。一部ではこの事務所を「辰巳機関」と呼ぶ。

 厚生省の援護局復員業務部長だった高山は、杉田を通じて辰巳機関入りを勧められた。しかし、いまだ未帰還者を残す現状で、予備隊創建にシフトすることははばかられた。だが、日本に強固な防衛力をつくる仕事への情熱がそれを上回った。

 機関入りの決意を伝えると、辰巳は仕事が「政府公認でもなく、したがって給料等も不十分極まるものだ」とクギを刺した。また、米国が朝鮮戦争をきっかけとして日本に再軍備を要求したが、吉田が国力不足を理由に再軍備を拒否したことを明らかにした。

 最後に辰巳は、予備隊が事実上の国防軍であるとしても、「絶対に旧軍意識をだしてはいかん」と指示した。

 「今後の日本の防衛は、日米共同防衛に徹する以外に道はないと思う。それには米軍戦法を身につけなければならない」(高山『昭和名将録』)

辰巳は国家の基軸が国防にあるとの信念が極めて強い。CIA文書の一部には服部との交流の密度から同一にとらえる記述もあるが、他の解禁文書、日記、証言から見る限り、プロシャ型軍隊像を描く服部の国防観とは明らかに異なる。

 辰巳が10月に晴気に語った言葉は、服部と異なる戦略思想を示していた。

 辰巳は、米国といえども米ソ戦争で決定的な勝利を得ることは難しく、ソ連はなおのこと困難であると考えていた。そこでソ連は「アジアの共産化計画」に従い、世界大戦よりも朝鮮戦争や中東での地域紛争を利用するとみる。

 また、日本の早期再軍備は財政問題や英連邦諸国の反対から難しく、「ゆっくりと警察予備隊を強化する形で陸軍力を整備する」と述べていた。

 これに対して服部は、第三次大戦の可能性は28年ごろが最も危険であるとみた。仮に、米ソ大戦で米軍が追い込まれれば、日本から全面撤退する。従って、本土防衛には最低10個師団が必要であると考えた(柴山太「戦後における自主国防路線と服部グループ」『国際政治』154号)。

 辰巳はむしろ、吉田の「軍嫌い」をしなやかにかわし、米国を活用して近代的な軍を創設するしかないと考えた。憲法改正論者として、尚早論の吉田と議論を切り結びつつ、軍再建へのリアリズムを追求していた。


                            =敬称略(特別記者 湯浅博)






草莽崛起

          サンフランシスコ講和条約で調印する吉田茂全権=1951年9月8日