5世紀の「日本外交」の意味。 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 








【決断の日本史】(68)421年 

倭王讃、宋に遣使する





5世紀の「日本外交」の意味


 今から1590年前、中国南部に建国されたばかりの宋王朝に、日本列島から初めて使節が派遣された。当時の記録が『宋書(そうじょ)』に残されている。

 「倭国は高麗(こうり)(高句麗)の東南、大海中にあって世々、貢職(こうしょく)を修(おさ)む。永初2(421)年、倭王讃(さん)が朝貢してきたので高祖は官爵(かんしゃく)を授けた」

 倭王讃については、年代などから第16代仁徳天皇か17代履中(りちゅう)天皇にあてる説が強い。そして、讃に続く4人の王も次々と宋に使いを送ったことが宋書によってわかる。いわゆる「倭の五王」である。

 彼らはどのような理由で宋に朝貢したのだろうか。ヒントは、それより200年近く前の卑弥呼の外交にある。列島内の約30の小国家によって共立された卑弥呼の政権は、狗奴国(くなこく)など列島内にあった敵対勢力との争いを有利に進めるため、中国の魏(ぎ)王朝に支援を求めたのである。

 5世紀、倭の五王にとっての「敵」は、朝鮮半島北部にあった強国の高句麗だった。半島南東部の百済と友好関係を結んでいた倭国は、その要請にこたえて援軍を送り、高句麗と交戦していた。宋の官爵を受けることは、半島での軍事行動を意味づけるとともに、王権を強化し、列島内で兵の徴発を進めるためにも必要なことだった。

倭の五王の残る4人について、珍(ちん)は反正(はんぜい)(18代)、済(せい)は允恭(いんぎょう)(19代)、興(こう)は安康(あんこう)(20代)、武(ぶ)は雄略(ゆうりゃく)(21代)の各天皇が当てはめられている。とくに済、興、武はほぼ異論がない。

 武こと雄略天皇は在位時ワカタケル大王と呼ばれ、478年に宋へ遣使した。その折に持たせた「昔より祖禰(そでい)、自ら甲冑を●(つらぬ)き、山川を跋渉(ばつしょう)し寧処(ねいしょ)に遑(いとま)あらず」(先祖の代から征服戦争に明け暮れ、休むひまがなかった)という上表文は、5世紀の倭王権のあり方をよく伝えている。

                                       (渡部裕明)

●=手へんに環のつくり