【安藤慶太が斬る 特別編】
今からちょうど1年前のことだ。大学入試センター試験で外国人の地方参政権について最高裁判所が容認したかのような判決を出した、とする選択肢が出題された。問題として不適切ではないか、とその時思った。そこで、その日は問題提起の原稿を新聞に出稿したのだが、後日、インターネット向けにも紙幅が限られた新聞とは別に、長文の原稿を出稿する機会に恵まれた。
これが私とネットとの本格的なつきあいの始まりだったように思う。それが2週間に一度お届けしている、今の【安藤慶太が斬る】につながっている、と思っている。
以来、取材先でいろいろな方に「ネット原稿を読んでいます」と声を掛けられることが増えた。郷里の九州に帰省したさい、産経新聞を読んでいない親戚(しんせき)や知り合いから、このネットコンテンツを欠かさずに読んでくれている方々がいるのを知って驚いた。
アクセス動向を見ていると、読者の反応はいたって本音重視だ。なおかついたって冷静でまじめで健全と痛感させられることが多い。
北教組の問題を連続で追及したときもそうだった。産経新聞がなかなか、入手できない北海道の方々、とりわけ北教組の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)に胸を痛めて何もいえずにいる教育関係者が熱心に北教組関連の原稿を読んでくれていて、それがアクセスにも反映していたのだろう、と思う。
毎回の出稿を通じて新聞の世界では味わえなかった「インターネット媒体の可能性」を再認識させられる出来事の連続なのだ。その意味でむしろ楽しませてもらったのは私かもしれない。
型にはまった紋切り型の価値判断や頭からタブーを避け、前例踏襲で作られた新聞記事群のウラを読もうと読者は敏感に反応している、のだろう。記事が「書いている」ことではなく、重要なのは記事が「触れずに済ませている」こと。ここに大きな問題が横たわっていて、そこは意図的に伏せられてしまっている。読者はそういう虚構の類を正面から知りたがっているのかもしれないのだ。新聞が漫然と続けてきた価値判断に飽き飽きしている。こうもいえるかもしれないのである。
私は新聞に携わる人間だから、新聞が廃れることを良しとは決して考えないけれども、インターネットの登場で、新聞の価値判断や新聞が築いてきた言論空間自体が読者の皮膚感覚や価値判断から既に取り残されているかもしれない、その兆しは至るところに現れているとふと思うことはある。
例えば、昨年、尖閣諸島沖に中国漁船が現れた。中国の領土的野心が高まっている。何とかしなければいけない。どうするんだよ!このまま取られたら。民主党は中国におもねってとんでもない外交敗北を喫しているぞ。大丈夫かよ、民主党!である。映像公開を渋っていたら、今度はネット上のサイト「YOU TUBE」に衝突時の映像が流れ、大騒ぎにもなった。
ところが新聞(特に特定の新聞)を開くと堂々と「中国を刺激するのはうまくない」とか「対話がまず大事だ」といった温(ぬる)い言辞やお茶を濁す言辞が平気で踊っていたりする。こういう新聞を手に読者はどう感じながら読んでいるだろうか、とふと思うのである。もしかすると自分でネットにアクセスして、自分で情報を収集して自分で判断しながら新聞には「ウソつけ!」と思いながら読んでいるかもしれないのである。
これからも【安藤慶太が斬る】は今まで漫然と済まされていたその手の虚構の類をできるだけ採り上げていきたい、と考えている。「されど、私はこう考える」。これを大切にしていきたいと思う。