幸村に見る「男のかっこよさ」 | 皇国ノ興廃此一戦二在リ各員一層奮励努力セヨ 





【本郷和人の日本史ナナメ読み】



 慶長20(1615)年5月7日、徳川の大軍はひたひたと、豊臣秀頼 がこもる大坂城 の中心部に迫っていた。大坂方の真田幸村 (ゆきむら)(正しくは信繁(のぶしげ))・毛利勝永 (かつなが)らは残った兵力を結集し、徳川家康 の本陣に向け、最後の突撃をこころみる。

 正午ごろに開始された戦闘はたいへんな激戦となり、徳川方の本多忠朝 (ただとも)(上総大多喜 (おおたき)5万石)・小笠原秀政 (信濃松本8万石)らが討ち死にを遂げる。混乱に乗じた真田隊は多くの敵陣を突破してついに家康本陣への突入に成功、3度にわたって猛攻を加えた。精強をもって鳴る三河以来の旗本隊は大混乱に陥り、栄光ある徳川の馬印が転倒、家康は騎乗して後退したほどであった。

 だが周囲から駆けつけた援軍により、本陣は態勢を立て直し、真田隊を辛くも撃退する。疲弊した幸村は、松平忠直 (越前75万石)の部隊によって討ち取られた。同日の深夜、大坂城 は陥落。翌日、豊臣秀頼 と淀君が自害して大坂の陣 は終了する。

 


 なぜ、かくも真田隊は活躍できたのか。即席の寄せ集めの部隊であったのに。私はその理由の一つとして、徳川の将兵の士気の低さがあったのではないかと考えている。たとえば関ケ原の戦い は、日本全国が2つに割れて戦った。東軍と西軍、どちらが勝っても不思議ではなく、勝てば莫大(ばくだい)な恩賞を獲得できる一方、負ければ滅亡が待っていた。だから両軍は命がけで戦ったのである。

 ところが、大坂の陣 は違う。勝敗は初めから決していた。大坂方に味方する大名は一人もいなかった。秀頼は60万石余りの大名でしかなく、合戦で手柄を立てても、褒美はたかがしれている。こうした状況では、将も兵もまずは身の安全を図り、懸命に戦うことをしない。これに比して大坂方の主力は、失うもののない浪人たちであった。死にものぐるいで戦う彼らの前に、兵力や装備ではるかにまさる徳川方は苦戦を強いられた。

近年、真の徳川政権は関ケ原の戦いの後ではなく、豊臣家滅亡を待ってうち立てられた、とする説が提起されている。関ケ原から大坂の陣までの十数年は、江戸と大坂、2つの「公儀」が存在したとする。私はこの説には従えない。もし、江戸と大坂が優劣はあったとしても同レベルの政権と呼べるなら、大坂の陣は「大名VS浪人」ではなく「大名VS大名」、もう少し緊迫したものになっただろうし、真田隊の出番もなかったのではないか。

 


 と、以上は研究者としての考察です。歴史マニアとしての感慨は違っていて、うーん、しびれるなあ、と。ずっと九度山(くどやま)(紀伊)で不自由な生活を送りながら、いざ鎌倉、という舞台で武将の本分を遺憾なく発揮する。小柄で穏やかで、先月も記したように歯も抜けちゃっていたらしい。でも、見た目はさえないおじさんが、不遇にめげず、心の刃を研いでいた。浪人たちのハートをつかみ、彼らの協力を得て天下人・家康をあわや、というところまで追いつめた。これこそ本当の「男のかっこよさ」じゃないか、と思うのです。




草莽崛起

        赤備えの真田隊が描かれた大坂夏の陣図屏風(重要文化財)の一部分。

        初代福岡藩主、黒田長政の命で描かれたとされる










草莽崛起

      http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/110116/acd1101160756002-n1.htm