【平成志事術】
マーケティングコンサルタント・西川りゅうじん
■「尊王攘夷」の旗の下
「月様、雨が」「春雨じゃ、濡(ぬ)れて参ろう」の名台詞(せりふ)で知られる月形半平太のモデルは、幕末の文久元年(1861年)、尊王攘夷(そんのうじょうい)の旗の下、「土佐勤王(きんのう)党」を結党した武市半平太(たけちはんぺいた)(瑞山(ずいざん))である。
本年は結党150周年に当たる。結党に際して武市は呼びかけた。「堂々たる神州、戎狄(いてき)の辱(はずかし)めを受け、古(いにしえ)より伝はれる大和魂も、今は既に絶えなんと、帝は深く歎き玉う。しかれども久しく治まれる御代(みよ)の因循委惰(いんじゅんいだ)という俗に習いて、独りも此(こ)の心を振い挙て皇国の禍を攘(はら)う人なし。かしこくも我が老公、夙(つと)に此事を憂い玉いて、有司の人々に言い争い玉へども、却ってその為めに罪を得玉ひぬ。斯(か)く有難(ありがた)き御心におはしますを、など此罪には落入玉ひぬる。(中略)況(まし)てや皇国の今にも衽(じん)を左にせんを他にや見るべき。彼の大和魂を奮い起こし、異姓兄弟の結びをなし、一点の私意を挟まず、相謀りて国家興復の万一(ばんいち)に裨補(ひほ)せんとす」 (『土佐勤王党盟約文』)
その意味は、堂々たる歴史を有する神国日本が異国から辱めを受け、古来伝わる大和魂も今は既に消えて無くなってしまったのかと陛下は深く嘆いておられる。しかし、長く平和な世の中が続いたため内向きになり惰性に流され、心を奮い立たせて皇国のわざわいを払いのけようとする者は一人もいない。当藩の山内容堂公は以前からこの事を憂えて幕府と談判に及んだが、かえってそのために罪を着せられた。こんな立派なお考えを持っておられるのに、なぜこのような罪に陥らねばならないのか。ましてや皇国日本が今日のように蛮国の都合に合わせることが過去にあったであろうか。我々は大和魂を奮い起こし皆一致団結して、一点の私心をはさまず協力して国家復興の万事に尽くさねばならない。
江戸時代末期、日本各地の島々や港が外国船に脅かされた。弱腰な幕府を見かねて天皇を頂点に日本国として結束し、外国を撃ち払うべきだとする尊王攘夷の風が国中に巻き起こった。それに呼応して武市は土佐で同志を糾合し血盟を結ぶ。下級武士、商人、農民を中心に二百余人が参加した。門下には後に脱藩して薩長同盟、大政奉還の立役者となった坂本龍馬、中岡慎太郎もいた。土佐勤王党は藩の参政、吉田東洋を暗殺し、土佐藩の実権を掌握。藩主を奉じて入京し、尊攘運動の中心となっていく。武市は朝廷や諸藩との交渉を担い朝廷が幕府に攘夷実行を迫る勅使に随行するまでになる。
しかし、朝廷と幕府を結んで外国に対抗しようという公武合体派が勢力を強めると事態は一変。土佐勤王党は徹底的に弾圧される。党員はことごとく投獄され、岡田以蔵らは苛烈な拷問を受ける。武市は切腹を命ぜられ、豪胆にも自らの腹を三文字に切り裂いて最期を遂げる。
妻富子は武市が投獄された日から獄中の主人と同様、冬は布団も敷かず夏は蚊帳もかけず板の間で寝た。切腹には自分が仕立てた着物を身にまとってほしいと手縫いの衣服を届け、首の介錯(かいしゃく)は腕の立つ剣士でなければ苦しみが増すと自分の実弟に依頼する。1年9カ月ぶりに武市が骸(むくろ)となって帰宅すると、気丈にも自ら頭(こうべ)の髪を結い直して納棺した。
今再び国難の時。武市ならば旗を掲げるであろう。「草莽(そうもう)よ、崛起(くっき)せよ」(在野の同志よ、立ち上がろう)と。
(にしかわ りゅうじん)