徒然日記 ~2024/07/29~ | ~ Literacy Bar ~

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ここはイマイチ社会性のない自称・のんぽりマスターの管理人が、
時事、徒然、歴史、ドラマ、アニメ、映画、小説、漫画の感想などをスナック感覚の気軽さで書き綴るブログです。
※基本、ネタバレ有となっていますので、ご注意下さい。

まひろ「私は皇后さまの影の部分も知りたいと思います。それが複雑であればあるほど、魅力があるのです。そういう皇后さまの為人をお書きに……」

ききょう「皇后さまに影などはございません! あったとしても書く気はございません! 華やかな御姿だけを人々の心に残したいのです!」

 

推しの解釈と創作スタンスの違いという『オタククリエイターあるあるシチュエーション』で、ギスギスした史実通りの関係に回帰する紫式部と清少納言。立場や性格、人間関係ではなく、表現に対する価値観の相違で決裂する本作の流れ、狂おしくすこ。ここに持っていくために史実ではほぼほぼ接点のなかった筈のまひろとききょうをシスターフッドでイチャイチャさせていたかと思うと、大石センセも人の心のないタイプの脚本家だと判ります、いい意味で。

ただ、今回二名のメインキャラクターが退場になりましたが、双方共にポテンシャルを十全に活かしきれないままで終わったのが痛い。宣孝はヒロインの托卵を特殊性癖で正当化するツールでしかなかったし、詮子に関しては三郎が政治家として覚醒しない以上、兼家パッパ並みに暗躍させるべきでした。実際、兼家パッパ退場後の政治劇パートのキレのなさは異常。そんな訳で今回の見どころは上記のオタク女子の決裂の他は、帝と宣孝の間接キス~宣孝とまひろのディープキス~まひろと三郎のディープキス~三郎と帝の間接キスという、小学生か三郎の子孫の一部(主に悪左府)が喜びそうなしょんもないネタ解釈くらいしか記憶に残らなかったので、今週の更新は時事ネタや他作品の感想で攻めたいと思います。

 

まずはこれ。

 

 

 

『企業倫理や法令遵守などのコンプライアンスの基礎にあるのはフランス革命が確立した人権や法の支配の理念だから、開会式での諸々の表現はコンプライアンスに矛盾しないどころか、その延長線上にあるので何の問題もない( -`д-´)キリッ』とバベルの塔の頂上で鼻高々に宣っていた界隈の梯子を外す無慈悲な運営の謝罪会見。常日頃は『過去の歴史を賛美するのは海外では時代遅れ! 価値観をアップデートしろ!』と主張していた界隈が、参加国から嫁いできた王族の首チョンパネタや、前世紀には『マスターキートン』で恐怖政治からの解放を祝っていいのは革命記念日ではなく、ナチの圧政から解放された日と皮肉られ、現代では再検証が叫ばれているフランス革命万歳史観剥き出しのセレモニーを見て『あれはポリコレやコンプラ的に配慮された正しい表現』と必死に強弁する様子は、ある意味で開会式よりも愉快なダシモノでした。特に『フランス革命で群衆に大砲を撃ち込んで出世して、のちに欧州全土で大戦争を起こしたナポレオンをコロンブスと並べて礼讃するPVを作って流した国に開会式を批判する資格があるのか?』という意見は笑うしかなかった。何でや、ミセス関係ないやろ!

一応、念のために申しあげておくと、私はフランス革命に端を発する一連の政治的アクション・リアクションが人類史に齎した歴史的意義までをも否定するつもりは毛頭ありません。光も影も含めてこその歴史。そのうえで、個人的には今回の開会式は如何にも開催国らしさ満載の露悪趣味と紙一重の政治・芸術意識高い系セレモニーへの否定的評価の声があっても、総体的にはオステルリッツ橋にあがったトリコロールカラーの花火、陽が落ちて街明かりが灯ると更に幻想的な雰囲気を醸し出すパリの街並みを丸ごと用いたナチュラルな舞台演出、特撮大好き日本人の心を擽る秘密基地じみたエッフェル塔ビーム、そして、トドメのセリーヌ・ディオン投入でお腹一杯楽しませて貰いました。中でもセーヌ川クルーズによる選手団の入場式は警備担当者の胃にブラックホールが開くこと請け合いの企画とはいえ、一定の秩序に基づく行進型では見られなかったオリンピアンの『ゲスト』としての楽しげな表情が窺えました。どの国の選手も何を言っているかはTVでは聞こえないし、言葉も判らないけれども、確実に『私、映っているー!』と叫んでいるのが伝わってくるんですよねぇ。オリンピックは選手に楽しんで貰えてナンボですよ。これは前回のオリンピックの感想でも書いたように、

 

選手団の入場に勝る開会式のプログラムはない

 

ことを関係者一同は肝に銘じて欲しいものです。

 

次はこれ。

 

 

 

アニメの評判も上々で『このまま無事に連載が完結したら10年以内に大河ドラマ化あるぞ、これ』と密かに期待している本作。ドラマ化の最大の難点は『主人公役に力量のある子役が必須』ということですが、これに関しては第一話の登場シーンで成長著しい時行というテロップを出しておけば大丈夫だと思います。思えない? 大河ドラマ化の際は『太平記』の先例に倣って北畠顕家は旬の女優さんに演じて欲しいンゴねぇ。

さて、連載では顕家の人生のフィナーレを飾る石津の戦いがクライマックスを迎えています。雫たんの口から出てきた鏃ハアハア、ひょっとしたら尊氏の死因とされる背中の腫物って、これが原因になったりするのかしら……って、石津の戦いに尊氏が居るかって?

 

でも、居るんだよ!(迫真)

 

いや、もうね、これを読んだ時は『アオイホノオ』で山賀博之が手塚治虫に『今の誰?』って言ったシーン以来、数年ぶりに本屋で変な声が出そうになりましたわ。史実の結末を知っているから、ここまで顕家に肩入れしたストーリーを紡いできた分、逆に『どうやって読者を納得させる決着をつけるのか』という不安がありましたが、まさかのラスボス……というか、ジョーカー投入。これね、厳密には反則なんですよ。ここまで顕家と師直で盛りあげておいて、美味しいところだけ尊氏がカッ浚うとかハドラーとダイのラストバトルにバーン様が介入するような無粋な采配であり、そもそも史実的にも尊氏は石津の戦いには参加していないのですが、本作では反則を読者に納得させる材料をキチンと提示しているんですね。

一つ目は長年、足利尊氏像とされてきた肖像画の正体が高師直ではないかという近年の研究をベースに『師直の代わりに尊氏がいても不思議じゃない』というエクスキューズを用意したこと。二つ目はバサラな唯物論者と評価されがちな高師直が、何故か石津の戦いのあとで神仏の加護に感謝する和歌を奉納した歴史的事実。そして、本作の中先代の乱で描かれた足利尊氏のモノノケじみた強さ、これらが合わさって、

 

石津の戦いに師直が神と崇める尊氏が降臨して戦局を逆転させた

 

という本作ならではの解釈を成立させているのですよ。実際、先述のように読者を顕家に感情移入させるストーリーを紡いできたので、単に『師直に負けました』では納得出来ない訳ですから、何というか、ギリギリのバトルを演じさせたうえで、セコンドの介入でベルトを守るという、双方の『格』を落とさない極上のプロレスムーブに近い老獪さを感じました。近年、大河ドラマでも反則に近い解釈や演出が増えまして、それ自体は『攻めの姿勢』として一定の評価はしたいのですが、その場合は本作のようにキチンと史実的なエクスキューズを用意して欲しいと思った次第。

 

最後はこれ。

 

 

 

『アンナチュラル』を含めた同一監督・脚本家・世界観のクロスオーバー作品の劇場版公開に合わせて、地元のTV局で深夜再放送が始まった本作。基本的に野木亜紀子作品は『ストーリーは面白いけど、世界観やキャラクターが好きになれない』という先入観がありまして、本放送時は見ていませんでした。再放送で第一話を視聴した感想は『ベタなバディものでまぁまぁだな』レベルの評価でしたが、第二話でメチャクチャ評価あがった。

ストーリー的には或る熟年夫婦が車で息子の墓参りに向かう途中、殺人事件の現場から逃走した若者に脅されて指定する場所まで共に向かうという移動する拉致監禁事件ですが、結末というか、若者と夫婦の関係性が最高にグロテスクでビターなのよ。結論から申しあげると夫婦には『俺は無実だ』と言っていた若者は実際には殺人を犯しており、その動機は、

 

「自分や同僚を虐める上司が自分を虐した父親にそっくりだった。俺の人生がメチャクチャになったのは父親のせい。上司に頭を抑えつけられた瞬間、父親の姿がフラッシュバックして思わず刺した。まるで反省していない。このまま俺を待した父親のところに行って、息子が殺人犯になった絶望感を味あわせたうえで頭を下げて詫びさせたかった」

 

というそこそこ同情の余地のないクズで、ついでに彼の同僚はクビにされたことを然程根に持っておらず、同棲する彼女とそこそこヨロシクやっているという何のための殺人であったのか全くもって訳が判らない事件でしたが、ここで拉致された側の夫婦が若者に同情しちゃうのよね。

この夫婦も実は学校で冤罪をかけられた息子を『反抗期だから』という理由で信じることが出来ず、その息子が自殺してしまったという過去があるのですが、生きていれば息子と同じくらいの年齢であろう犯人の『俺は無実だ』という言葉を信じて、警察の検問を躱すための『彼は自分の息子』という嘘設定に過剰に入れ込んで、途中の道の駅で『一緒にうどんでも食おうや』とか言い出した挙句、主人公バディによる救助を妨害して犯人を逃がしてしまうのよ。そして、犯人が逮捕されたあとになっても、

 

「ごめんね……最後まで付き合うって約束したのに……ごめんね! いつかまた、三人でドライブしよう! 今度こそ、うどん食おう! ごめんね……ごめんね!」

 

ガンギマリの目で語りかけてくるのよ。

この夫婦は『息子を死なせたトラウマ』『犯人に対するストックホルムシンドローム』『信じてあげられなかった息子の代わりに若者の言い分を無条件に信じ込む代償行為』と犯罪心理学的には犯人よりも遥かにヤベー奴で、上記の逮捕された犯人に語りかけるシーンはホラー映画顔負けの薄気味悪ささえ覚えたのですが、この夫婦の『ごめんね』が犯人の『父親に、誰かに謝って欲しかった』という心の棘を抜いてしまうのよ。それまで主人公バディに『命は取り返しがつかない』とか『人を殺めたら負け』とか杉下っぽい言葉で諭されても、どこか不貞腐れた態度の犯人が深々と頭を下げて、自分の罪と向き合う表情を見せるのよ。夫婦が犯人を疑似息子として見ていたように、犯人も夫婦を疑似両親と見ていた訳で、本当の父親の口から聞きたかった『ごめんね』の言葉で憑物が落ちてしまうのよ。ぶっちゃけ、夫婦にとっては犯人が本当に罪を犯したか否かさえ問題ではなく、ただただ自分たちが死なせてしまった息子の身代わりにしていたに過ぎなかった(その自覚はない)のですが、上記した『トラウマ』『ストックホルムシンドローム』『代償行為』でひしゃげた夫婦の言葉は、真っ直ぐな主人公たちの言葉では届かなかった歪な犯人の心の奥に届いた。届いてしまった。

極論すると、このエピソードはグロい犯人ともっとグロい被害者の傷の舐め合いでしかないのですが、しかし、曲がりなりにも法執行機関が題材の刑事ドラマで、

 

人が救われることと正しさの間には何の因果関係もない

 

ことを二話目でガッツリ描いたことが衝撃でしたね。『アンナチュラル』の時にも思ったけど、今、グロいビターエンド(≠バッドエンド)を描かせたら野木亜紀子の右に出る脚本家はおらんとちゃうんか。この記事を書き終えたあと、第三話の放送が控えているので、そちらを楽しみに今週は筆を置きます。