『どうする家康』簡易総評(ネタバレ有) | ~ Literacy Bar ~

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※基本、ネタバレ有となっていますので、ご注意下さい。

大河ドラマ『どうする家康』が完結しました。

制作陣、及び関係各位の皆様、お疲れ様でした。

 

さて、昨年の『鎌倉殿』総評で『大河ドラマの年末振り返り記事は一区切り』と書いたように、今年以降は書くか書かないかは判らない&書いても簡易総評ということで、気楽に筆を走らせようと思います。まぁ、本音をぶっちゃけると、

 

TERUの二股膏薬っぷりを描いただけでも制作した意義はあった

 

の一言で終わらせてもいいんじゃないかと思っている程度には本作に満足していますが、流石にそれだけでは記事にならないので、例年よりは短めながら今年もおつきあい頂けると幸いです。

 

 

まず、私が制作発表で『どうする家康』というタイトルを聞いた時に思ったのは『滝田版のような人格者の東照大権現ではなく、様々な危難に瀕した家康が如何なる選択とするかをコメディ路線で描く作品と見た。是非、ここは焼味噌臭い家康を描いて欲しいけど、イケメン松潤では難しそう』ということでした。しかし、実際に蓋を開けてみると焼味噌臭いとまではいかないものの、非常に人間臭い家康像を提示してくれて、その点で私の予想はいい意味で裏切られました。焼味噌の件も作中では漏らさなかったとはいえ、そのエクスキューズはキチンと作中で為されており、友人が事務所忖度で下痢描写を免れたのではないかと勘繰っている某関ケ原映画のような印象は受けなかった。特に神君三大危機と称される『三河一向一揆』『三方ヶ原合戦(≠真・三方ヶ原合戦)』『伊賀越え』の回が全て面白かった(主観)のはポイント高い。家康の生涯を語る際、桶狭間や小牧長久手や関ケ原や大坂の陣をメインに据えがちですが、派手で戦功を挙げた戦いよりも失敗や苦境に力を入れることで、等身大の人間・徳川家康を掘り下げようとした本作のチョイスは賞賛に値すると思います。

特に『三方ヶ原合戦(≠真・三方ヶ原合戦)』は、最終回と共に本作で一、二を争う出来栄え。三方ヶ原の戦いに至る経緯は史実と創作を絶妙にアレンジして、両軍が如何にして戦場でぶつかったか、その過程に相当の労力を費やしていました。合戦そのものではなく、合戦に至る戦争の流れをキチンと描けている。そのうえで『戦は勝ってから(戦は勝ってから)始めるものじゃ(始めるものじゃ)』と大事なことだから信玄が二回言ったように、戦端が開かれた瞬間に家康も徳川家臣団も視聴者さえも『家康\(^o^)/オワタ』と実感出来るよう、それまでの演出と伏線を一点に集約させた凄みは、敢えて三方ヶ原本戦を省いても充分許せる合戦回でした。

勿論、本作の合戦シーン、格闘シーンを批判する意図はなく、それどころか本作のアクションは総じてベネでしたね。制作発表時に『コロナが猖獗している中、日本史上誰よりも大規模会戦が必須の題材をやれるのか』と疑義を呈しましたが、予算やコンプラなどの点で往年の環境とは異なる様々な制約が課せられている昨今、本作がセット撮影を中心にしながら一定の迫力ある映像や殺陣を見せてくれたのは間違いありません。この点については浮気がバレた時の渋沢栄一のように深くお詫び致したいところですが、同じアクションシーンでも流石に総見院直伝・大権現魔性のオモプラッタ式チョークスリーパーは色々な意味でやり過ぎなのと、本能寺でキンカンの大軍相手にステゴロ無双するオカジュン信長という私が一番期待していたアクションシーンがなかったので、それと相殺にしましょう。

 

一方、制作陣がオリジナル設定やオリジナルキャラクターに執着し過ぎた回は主観的にも客観的にも評価が分かれたように思います。具体例を挙げると金ヶ崎の退き口における阿月や『真・三方ヶ原合戦』の夏目広次の過去、長篠前哨戦で磔の前に一度は命乞いをする鳥居強右衛門、氏真の瀬名NTR疑惑を含めた家康との確執……etc.etc。通説に軽く足されたオリジナル要素&チョイと捻られたストーリーで充分なのに、更なるオリジナル設定&余計な捻りを加えた所為で話の整合性も物語のリズムも悪くなって自滅するのが『どうする家康』の失敗回の典型パターン。ショートでブッチぎりの首位を取っていて、フリーは無理せずに手堅くまとめればメダルが確定しているのに『俺は8回転アクセルが跳びたいじゃあ!』とハナから無理なジャンプを連発~転倒~入賞を逃したスケーターのように思いました。思わない?

ただ、これらの余計なオリジナル要素も受け手次第でボーダーラインが異なるのも確か。私的には『真・三方ヶ原合戦』での夏目広次の身代わり案件は『三河一向一揆で許された過去だけで充分なのに、今更名前を覚えられないネタの真相をブッ込む必要ある? 古畑任三郎の向島巡査みたいに印象が薄くて名前を覚えられないキャラというだけで充分じゃあないのか?』と低評価ですが、あれは序盤からの伏線回収として評価出来るという声もありましたし、一度は命乞いをしてしまう鳥居強右衛門も『話のリズムが悪くなっただけ! 前半で信長相手に直訴同然の嘆願をした時点で本人は死を覚悟している筈!』との矛盾を感じましたが、あの人間臭い反応にリアリティがあってよいと賞賛する方もおられました。斯くいう私も金ヶ崎の退き口をナレーションで済ませた元凶で、視聴者的には押し並べて低評価の阿月に関しては『小豆袋という元ネタを踏まえたオリジナル要素だからギリギリセーフ』と考えているので、本作の過剰なオリジナル設定が一概に否定されるべきではないとも思います。

 

しかし、それでも、視聴者がほぼほぼ全会一致で『これはないわー』と感じたのは、

 

瀬名の東国共栄圏構想

 

でしょう。現代視点のお花畑思想でリアリティがない。構想のデカさの割に保証人がショボい。信長にバレた時の対策を講じていない。そんな構想に徳川家中ばかりか武田の重臣まで乗っかってしまう……といった具合に、この辺で中盤までは『エンタメ重視』という言い訳で俵にギリギリ足が掛かっていたリアリティが、アッサリと土俵を割ってしまったのを覚えています。更にタチが悪いのは瀬名の東国共栄圏構想を発起点とする築山事件と本能寺の変の独自解釈を消化するために第23回~28回という中盤の貴重な尺を浪費したうえ、それらの内容が劇的につまらなかった挙句、後半のペース配分に甚大なる損害を与えたことでしょう。特に勝頼、秀吉、三成三名がアカラカマに企画倒れなキャラクターに終わった原因と思しき後半の尺不足は、まさにこれに由来していると思われます。

何よりも信じられないのは、制作陣が瀬名の東国共栄圏構想を史実と物語の擦り合わせに苦慮した挙句の窮余の一策ではなく、本作で一番描きたかったことと認識していたことでしょうか。いや、創作である以上は何を考え、どう描こうが自由ではあるのですが、これは明らかに展開に無理があるうえ、創作としても絶望的につまらないことを、他の描写ではそれなりに面白いものを描けている制作陣が何故、それに気づかなかったのかと心底不思議に思っている今日この頃。ついでに小田原攻めの回などで忘れた頃に同構想に毒されたキャラクターが登場するなど、瀬名の東国共栄圏の存在を【なかったこと】にして辛うじて保っていた視聴者の脳内情緒をグッチャグチャに掻き乱すことも屡でした。凡そ社会で起きる出来事は多くの人間の思惑が絡みあって成立している以上、一個人や一要素が原因で明暗が分かれるということは殆どありませんが、本作に関しては『瀬名というキャラクターの造型に失敗したこと』『その失敗を失敗と認識出来ないまま、ズルズルと引き摺ったこと』が本作最大の失敗点と断定してよいでしょう。

 

まぁ、これに関してはTやKやNのようにスィーツ思想に毒されたお花畑脳の醜態ではなく、シンプルに狙ったネタがダダ滑りしたということではないかと思います。方向性がたまたまスィーツ路線と重なっていただけ。流石に瀬名の東国共栄圏構想はフォローし出来ませんが、その他のシーンでは家康が汚いことにも手を染める局面も多く、主人公美化の傾向自体は否定出来ないとはいえ、総体的・相対的には平均的な大河ドラマでありがちなレベルに抑えられていました。小田原攻めの際に家康が何とか和議に持ち込もうと奔走する動機も念仏平和思想ではなく、北条がツブされたら自分が懲罰人事で関東に飛ばされるというエゴイスティックな危機感に基づくものでしたからね。

実際、滝田版『徳川家康』と比べると、関ケ原以降の主人公の覚悟ガンギマリっぷりは本作のほうがしっかりしているんですよ。滝田版って終盤は家康が妙に好々爺になって、主人公の与り知らないところで第三者(大久保長安とか大久保長安とか大久保長安とか)が悪だくみを計画して、それらが大阪攻めに繋がった挙句、秀頼と茶々を死なせた家康が土下座して詫びるという、今の時代に放送したら結構ブッ叩かれたであろう筋書きなので、流石に『葵』とは比較にならないとはいえ、主人公の影の部分は意外と描けていました。また、ストーリーも善かれ悪しかれ非常に込み入っており、脚本家も初の大河ドラマでよくぞここまでのオリジナル要素を思いついたものだなぁといい意味でも悪い意味でも感心しました。瀬名の東国共栄圏構想もクオリティは兎も角、話のスケール自体は結構壮大で、逃げや手抜きの発想で考えつく内容ではありませんね。脚本家が三谷さんだろーと池端さんだろーとネタが滑る時は思いっきり滑るのが大河ドラマの恐ろしさ。問題は制作陣が『ここが本作のクライマックス!』と定めた時点で、

 

言い訳のしようがないレベルで滑っただけ

 

ということでしょう。

まぁ、ここまで批判してから言うのも何ですが、毎回ごとにクオリティにムラはあっても全体を平均すると4話に1度は面白いものが描けている、或いは描こうとする意欲を感じる大河ドラマではありました。リーガルドラマの反対尋問でありがちな質問風に『面白かったかつまらなかったか、イエスかノーかで答えろ』と問われたら、私は迷うことなく面白かったと答えます。『面白さ最優先主義』『スィーツ大河クソくらえ』という長年の私の大河ドラマ批評の二大指標に照らすと片方をクリアしている本作には赤点ギリギリを上回る40点はつけられるんじゃないかと。

 

 

ただ、X(旧Twitter)の大河ドラマ界隈の反応を見るに、近年でこれほどまでに視聴者の好悪の感情が分かれた作品も稀でしょう。その理由を私は当初、朝ドラから流入した所謂『反省会タグ』の影響や、中盤以降に世評を騒がせた事務所の騒動が原因と捉えていましたが、ここは外的スキャンダルよりも作品の内容で善し悪しを計るべしというレビュアーのサガに従い、この点を少し深彫りしてみようと思います。ここからはやや厳しめの評価になりますが、基本的には本作は肯定していることを前提に御笑覧頂けると幸いです。

 

一つには上記した『面白さ最優先主義』が抱えるリスクでしょうか。何事も度が過ぎると嫌味になるもので、本作は面白さを演出するために、歴史のセオリーやストーリーの整合性は二の次になることが一再ではありませんでした。近年の大河ドラマの良作は迷走から立ち直ろうと足掻く過程で様々な新しい試みに挑む一方、相応の史実性の担保や可能な範囲での公正な視点、物語の細やかな辻褄合わせを心掛けることで、視聴者との信頼関係を保持してきたのに対して、今年の『どうする家康』にはコメディを基調とした筋書き、見栄えとインパクトに特化した美術装束、物語の辻褄に合わせた歴史の時系列の改変、ほぼほぼ現代語と変わらない台詞と成長著しい登場人物など、今までの大河ドラマでは『他はちゃんとやるから、これくらいの冒険は許してね?』と恐る恐る提示してきた機軸を平然と打ち出してくる、ある種のふてぶてしさを感じたのも確かです。これまで一定の配慮と引き換えに容認してきた事象をアッサリと『これは先例があるからセーフだよね?』と他方面での補填もなしに提示されたら、モヤッとボールをダース単位で投げつけたくなるのが視聴者の人情というものでしょう。

話を面白くするためには基礎的な疑問点をスッ飛ばしても構わないという本作の姿勢を象徴する好例(悪例?)が姉川の戦いでしょうか。家康が織田と浅井を天秤にかけるプレ金吾な展開自体は興味深く、史実の姉川の戦いにおける徳川軍の後世の史家が盛ったとしか思えない常識外の戦果を、ギリギリまで家康が寝返ることに賭けていた長政の反応が遅れたためと解釈したこと自体は非常に面白くはあるのですが、ここで浅井・朝倉について縦しんば勝ったとしても、本国への帰路が織田方に封鎖されている以上、如何に手元に軍勢があるとはいえ、敵地のド真ん中から三河に逃げ帰るプレ伊賀越えになりかねない訳で、果たして家康が信長に矛を向けるかという根本的な疑問は拭えないところ。真に家康が寝返るか否かでメインストーリーを構築するのであれば、そこまで考えてなくてはなりません。『面白さ最優先主義』は創作の絶対正義とはいえ、それがスベった時は史実や公正性や整合性の保険が効かない分、見る側の反感を抱かれやすいということです。

 

二つ目はこれまた本稿の序盤で述べた『オリジナル展開の弊害』でしょうか。オリジナル展開自体は必ずしも悪くありません。そもそも全編が史実に忠実な大河ドラマなど、左利き用のキャッチャーミットやブッダの生まれ変わりと同じようにありそうでないものの比喩的表現でしかないのですが、それでも本作の史実と創作の配分には疑義を呈さざるを得ない場面は多数見受けられました。思えば、私がよかったと思えた神君三大危機や『小牧長久手の戦い』『豊臣の花嫁』『二人のプリンス』などは本作の家康像が現実の出来事とどのように向き合ったかがメインに据えられていたのに対して、私がアレな評価を抱いた『氏真』『家康、都へ行く』『築山へ集え!』『安土城の決闘』『本能寺の変』『欲望の怪物』などで家康が対峙したのは現実の事象というよりも制作陣のオリジナル設定であったように思います。同じ『安土城の決闘』でも『腐った魚』の逸話を家康が十兵衛を信長の身辺から遠ざけるための口実にしたという解釈まではよかったのに、その後の信長相手に『謀叛起こすぞ? 本当に起こすぞ?』と本音をブチ撒けたり、御市と偶然再会して燃え滾る復讐心が賢者モードに入ってしまう辺りは『つまんねー』となってしまいました。

その典型事案が、本作を語るうえで欠かせないコンフィデンスマンJP的後出しジャンケン真相解明パートでしょう。途中までいい塩梅にストーリーを盛りあげておいて、さぁ、この先はどうやって歴史的事実との折り合いをつけるのかとワクワクしていた視聴者に対して『実は裏でこんなことがあったんですよ!』とほぼほぼ布石も伏線もない後出し創作エピソードで片づけてしまう本作の姿勢は賛否両論を招きました。歴史劇の本質は史実の裏をかくことにあると思いますが、本作の制作陣は視聴者の裏をかくことに腐心していたフシがあります。通常のドラマや時代劇であれば、それはそれで一つの創作論かも知れませんが、大河ドラマは基本的に歴史劇であり、制作陣が自身の創作した歴史観・人物像を史実に照らして真価を問うのが王道ではないかと思うのです。創作を現実にぶつけてこその歴史劇。例えば、制作陣が『俺たちの考えた最強の家康』という虚像を史実にぶつけて、視聴者は『ここは上手く最新の学説を活かしている』とか『この解釈は昔からありがちだよね』とか『物語としては面白いけど、当時の価値観としては無理がある』とか煎り豆を齧りながら楽しむのが私の理想の大河ドラマですが、本作は自分たちが創作した家康を、これまた自分たちが設定した創作の世界観にぶつけてしまうのよね。『序盤で二話もかけて救出した愛しの姉さん女房との関係性を、どうやって築山事件という悲惨な史実に帰結させるのか』と思っていたら、東国共栄圏構想とかいうよく判らん創作をデッチあげて、創作の家康と創作の構想のせめぎ合いの中で死なせてしまった点などはこれを家康と瀬名でやる必要性があるのかとの疑問を禁じ得ませんでした。

繰り返すように創作自体が悪いのではありません。しかし、創作を史実にぶつけるのと創作に創作をぶつけるのでは、後者のほうが史実との整合性という縛りがない分、ストーリー面での融通が効く筈なのに、何故か史実よりもつまらなくなったら『制作陣は何をしているのか?』と呆れられるのも理の当然でしょう。ぶっちゃけ、この後付けエピソードで素直に面白いと思えたのは最終回だけなのよね。まぁ、その最終回は極上の後付けエピソードなのも認めざるを得ないのですが。

 

尤も、これらの『面白さ最優先主義』も『オリジナル展開』も本作にかぎった話ではなく、歴代の大河ドラマも多かれ少なかれ同じような要素はあります。それにも拘わらず、今年の大河ドラマが世間的&私の中でも各回ごとに異常に評価が分かれた理由は奈辺にあるのか? 上記の二点に何を掛け合わせたら解答が導き出せるか? その辺を探るうちに思いついたのが、

 

ストーリーが『どうする家康』というタイトルに沿っているか否か

 

という第三の要因でした。

これで思い出すのは家康と三成のソウルメイト設定でしょう。近年の研究では両名は関ケ原前までは決して疎遠でも険悪でもなかったとされているとはいえ、大河ドラマにおいては恐らく本作が初の試みとなる面白さ最優先のオリジナル要素でしたが、問題は当該設定が一度も家康に『どうする?』という選択を突きつけることもなく、ストーリー本編に何らプラスに働くこともなく終わってしまったことです。実際、作中の関ケ原での三成の動きは概ね茶々とTERUに唆されたものであり、彼自身が家康に選択を強いたことはありませんでした。多分に中盤での尺の浪費が三成の描写に費やす時間を奪ったとはいえ、主題に落とし込めない要素を盛るくらいなら、ハナからやらないほうがマシです。

逆に家康と御市&茶々の二代に渡る愛憎劇は、前半こそ『これと家康の人生に何の関係があるのか?』との疑問を拭えず、作品のノイズとしか感じられなかったのですが、後半~終盤にかけては北川景子の小川眞由美化も相俟って、家康に『乱世を如何に終わらせるか』という選択を迫る存在となりました。尤も、伏線は物語を盛りあげる手段であって目的ではない以上、それを巡らす段階でも視聴者を面白がらせるべきで、顔面白塗り古田義昭と共に伏線回収で生ずるカタルシスのリターンと釣り合わない顕著な例として、手放しで誉められない設定ではありますが、しかし、こちらは三成の場合と異なり、キチンと主題に関連づけてきたことで、私の中の負の印象が逆転した作劇でしたね。

要するに面白さやオリジナルアイデアがメインタイトルの『どうする家康』という主題と乖離していた場合、上記の『面白さ最優先主義』や『オリジナル展開』がノイズとして視聴者に受け取られたのではないかと思います。『面白さの追求』や『オリジナル展開』は何のためか。それは作品の主題を明確にするためです。主題に反した要素は如何に面白く、オリジナリティに溢れていてもノイズと見做される危険がある。そして、劇でも歌でもノイズの多い作品は不快感に繋がります。ドラマの描き方や見方は人それぞれとしても『どうする家康』というタイトルを目にした人の多くは、私と同様に『史実の艱難辛苦に対して主人公が困惑と選択を強いられる話』と解釈するでしょうし、その方向性に即した展開を期待するのは自然の感情です。この辺は昨年の『鎌倉殿』における面白さ最優先のオリジナル展開が、上総広常のキャラクター設定や彼の無残な最期を筆頭に、その多くがタイトルに象徴・暗喩される『魅力的な坂東武者を残酷な方法で退場させる』の一点から大きくブレなかったのと対照的ですね、『過剰なオリジナル展開』と『面白さ最優先主義のリスク』は従来の大河ドラマにも見られる要素にも拘わらず、例年以上に視聴者の好悪の感情が分かれた理由は、その回その回が面白いか否か以上に制作陣自身が作品のタイトルとして掲げた『どうする』という設定に答えられない回が多かったからではないでしょうか。

そして、何故、本作で『過剰なオリジナル展開』と『面白さ最優先主義のリスク』が作品のメインタイトルと乖離する現象が起きたかといえば、制作陣が描きたいことだけに全力を注ぐタイプであったからでしょう。やりたいことはとことんまで突き詰めるし、そのためには全体の尺などおかまいなしでベストを尽くすけれども、興味のないことはストーリーの辻褄合わせの労力さえ惜しむという極端な姿勢が根底にあったように思います。2時間前後の劇場版や1クールのドラマでしたら、それもアリかも知れませんが、大河ドラマという一年の長丁場では楽しいことだけを数珠のように紡いで描いていられる筈がないのですよ。描きたくないことでも、否、興味の湧かないことだからこそ、それに対して自分が面白いと思った事象と同レベルの労力を費やさなければ、ストーリー以前に実在した人物の人間的整合性すら危うくなってしまうのよね。

 

 

以上、本作が例年以上に評価が分かれた理由をまとめると『面白さ最優先主義のリスク』『オリジナル展開の弊害』『主題との乖離』の三つの要素のうち、二つ以上が重なった際に生ずるノイズが原因ではないかと思いました。勿論、あくまでも私個人の見解であり、他人に強要する意図は毛頭ありませんが、従来の大河ドラマでも見られた欠点が本作では意外なほどに増幅して語られた理由を私なりに考えると、これが一番しっくりくるのも事実です。

『どうする家康』から学べる最大の教訓とは、

 

作品のタイトル設定は重要

 

設定を作品で表現するのは超重要

 

という極く当たり前のことであったのかも知れません。

 

 

では、そろそろ〆に恒例の『今年の大河ドラマを食べ物に例える企画』に移りましょう。

今年はシェフが自信満々で作った特製ソースが逆に料理の味を落として『ないほうがいいです』と言われるとか、中盤の瀬名に費やした尺に『何でそんなに増えたんだよ?』と誰もが疑問に思うとか、人によっては二度とエビを食べられなくなるレベルのアレルギー反応を起こすところとか、試食でダメ出しを食らった料理に秘密裡に用意していたスープカレーを漬けて食べるように改めて要求する後出し仕様とか、知っている人は誰もが連想したであろう、

 

シェフ大泉大河

 

でいこうと思います。ピストル大泉大河でないのは、クオリティに波はあっても基本的には可食出来る料理であったから。『中途半端に美味しい』『僕は好きじゃなけど、こういう料理もアリだと思う』という点も似ていますね。あとは上手かろうが不味かろうが、基本的によかれと思ってやったんだよという制作陣の意図も感じたのも、これを推す動機になりました。基本的に上手いし早いし楽しいけれども、こっちが満腹になっても更にあれこれ盛り込んで来る点で、満腹になってもどんどん次の椀が運ばれてきて往生するわんこそば大河というのも思いつきましたが、僅差で前者の勝ち。後者はいずれ、別の大河でリサイクル出来そう。

 

ちなみに毎年恒例のキャラクターランキングはありません。キャラクターは押し並べてよく出来ていたけど、決定的な推しと呼べるような存在はいなかったからなぁ。善くも悪くも団栗の背比べ。キャラクター造型のいい大河ドラマって、今までの歴史劇でスポットライトが当たらなかった人物の発掘に成功したり、外伝スピンオフを作って欲しいと思える存在を生み出したりするけれども、本作は両方とも該当しなかったですね。インパクトではオカジュン信長と於大とかいう松嶋菜々子の皮を被った真田昌幸がスバ抜けていたけど、スピンオフが見たいほどでもないからなぁ。北川さん演じるお市と茶々も素晴らしかったけど、あれはキャスティングと設定ありきの反則技に近いので。

逆に言うと主人公の家康が一番好感度が高かったと評することも出来そうです。いや、真面目な話、始まる前まで松潤を舐めていました。すみません。存在感や演技力でストーリーをグイグイと引っ張るタイプじゃなかったけど、周囲のキャラクターの期待やスタッフに求められるヴィジュアル像に過不足なく応える点で、透明感と反射に長けた稀有な存在であったと思います。シンプルにもう一度大河で松潤を見たい。このテの話をした際に『お前も事務所忖度かよ』という言葉を投げつけられましたが、私がそんな斟酌をする人間であったら『新選組!』がリアルタイムで放送されている時から主演を変えて一から全部撮り直せとか公言していません。慎吾ママとオカジュンは善人やヒーローよりもサイコパス役のほうが似合うんだよ! 今年の大河ドラマで一番ムカついたことは作品の内容やマスコミの報道よりも、よりにもよって、この私が『事務所忖度』と言われたことだな、うん。

 

 

さて、来年の『光る君へ』は『いだてん』以上に私にとっても大河ドラマにとっても未知の領域であり、全く想像がつかないでいます。当該時代をよく知る友人からは制作発表時に提示された歴史認識を不安視する声も聞こえており、油断は出来ないとはいえ、それこそ『いだてん』のように未踏の地に踏み込む作品は、それ自体が先入観や予備知識のなさゆえに楽しめる要素足り得ますので、ヘタに予習をせずに真っ新な姿勢で鑑賞に臨みたい。ただ、ベースとなる知識がないので、感想記事は今までの如何なる作品よりも書きにくそう。来年は多くの大河ドラマレビュアーにとって手強い題材になりそうです。レビュアーの皆様、お互い頑張りましょう。