日曜劇場『JIN-仁-』が最終回を迎えました。
スタッフの皆さま、俳優の皆さま、大変お疲れ様でした。
ホントに素晴らしいドラマでした。
途中経過も面白かったですが、ドラマオリジナルのオチのつけ方も秀逸でした。『友永』未来を手術ミスで植物状態にしてしまった南方センセが、タイムスリップした幕末の世で医療の底あげに奔走した結果、物語のラストで『橘』未来の手術に臨む機会を得る。タイムスリップという時間の回帰&手術にリトライする状況の回帰という物語の二重構造。凄い。素直に凄い。原作のオチが好きじゃなかった私としては、満点のラストですよ。
そりゃあ、突っ込もうと思えば幾らでも突っ込む箇所はあります。感動を押しつけるようなベタで臭い演出も多いし(始終掛かりっぱなしのテーマ曲とか)、ご都合主義な場面もチラホラあったし(話が詰まった時に発症する南方センセの頭痛とか)、ドラマの都合以外でも史実に反する場面が一再でなかったし(暗殺当日に淡海槐堂から龍馬に贈られた筈の『梅椿図』が大政奉還前の近江屋にあったりとか)、突っ込み出せばキリがありません。しかし、そうした欠点が気にならないほど、物語の出来がよかった。『GO』&『新選組血風録』の感想ダブルコンボのため、毎回の感想を描くことはありませんでしたが、最終回を迎えたということで、私なりに『JIN-仁-』について思ったことを書き留めてみます。
『JIN-仁-』の構成要素は『医療』『恋愛』『歴史』の3点です。
まずは『医療』。今更、指摘するのも野暮な話ですが、南方センセは幕末にタイムスリップした現代の脳外科医です。当然ながら、その技術も知識も幕末の医療とは比較にならないほど高いのですが、それらを十全に発揮する環境が整えられていません。医療機器の未発達、稀人への不信感、医療に対する価値観の違いなどの要素で救えない生命も多い。これらはある状況に酷似しています。よく、本作をSFや歴史劇と呼ぶ声を耳にしますが、それらはホントに描きたい状況を用意するための手段でしかありません。それでは、ホントに描きたい状況とは何か? 私は『JIN-仁-』は辺境医療の物語だと思います。辺境医療の作品には『ドクター・コトー診療所』がありますが、あれは日本国内の話です。『JIN-仁-』も日本国内には違いないのですが、異なる文化、風習、価値観の中で悪戦苦闘する南方センセの姿は、新興国や途上国で医療に従事する医師にダブります。南方センセが劇中で、この時代の人たちは笑顔が素敵だといっていますが、辺境医療に従事する医師も、現地の人たちはいい笑顔をしていると感想と漏らすことが多いですよね。あの南方センセの台詞は、このドラマが一種の辺境医療であることを呈しているように思います。しかし、異文化圏での辺境医療ドラマはどうしても予算がかかる。海外ロケも増えるし、現地の歴史や風土も一から調べなければいけません。ですが、自国の過去を舞台にすれば、ロケの費用も浮くし、史料も豊富に存在します。『JIN-仁-』が人気を博した理由の一つは、予算の関係で見送られてきた異文化圏での辺境医療という主題を、原作、SF、歴史劇という要素を用いて見事にドラマ化したことで、視聴者に目新しい印象を与えたためではないかと考えます。完結編よりも第一部のほうが面白いという声をよく聞くのも、完結編が歴史劇の要素が濃厚であったのに対し、第一部は辺境医療という目新しい題材を物語の中軸に据えていたからではないでしょうか。
次に『恋愛』。南方センセと橘咲、野風の三人は数多の障害に恋路を阻まれています。本作での障害とは年齢、身分、価値観、時代の壁です。好きあっている相手と結ばれたら、そこで物語は終了ですから、これらの障害を巧妙に配置して、登場人物も視聴者も中途半端な状態で生殺しにするわけです。実に巧みでいやらしい焦らし方を心得ている。例えば、咲と野風は恋敵の関係にありますが、お互いを憎悪しているわけではありません。咲は野風が南方センセの婚約者に似ていることを羨み、野風は苦界に身を沈めたことのない咲の清冽さを羨みます。お互いがお互いを尊敬しあっているから、相手を出し抜くことを潔しとしません。その心意気は素晴らしいのですが、そこに視聴者はヤキモキするわけです。そのうえ、原作では一種のハーレムエンドで決着した三人の関係ですが、ドラマ版では咲も野風も南方センセとは結ばれないままです。新しい『未来』に繋がる血統を残せた野風は兎も角、一世紀半を経た置文でしか己の想いを○○センセに伝えられなかった咲のラストは悲恋としかいいようがありません。しかし、シェークスピアの作品を列挙するまでもなく、悲恋こそが恋愛譚の王道です。成就する想いよりも、届かない想いに観衆は感動するのです。間違っても、お菓子を我慢した御褒美に意中の人と結婚できるような話 を恋愛譚とは呼びません。悪しからず。
そして『歴史』。先述したように『JIN-仁-』は異文化圏での辺境医療の物語です。本作における歴史描写は辺境医療という主題を浮き彫りにするための『手段』です。しかし、この作品のスタッフの歴史に対する力の入れようは明らかに『手段』の範疇を超えていました。例えば、完結編第一話の禁門の変の場面。
久坂玄瑞「攘夷なんざクソ喰らえじゃ! 国論を一つにまとめるための方便に決まってるじゃねーか! それを信じる阿房共の力を利用しようとしたが、逆に阿房共の勢いに流されちまった! サノバ○ッチ!」(一部脚色アリ)
この台詞だけで『JIN-仁-』は『龍馬伝』を超えたと思います。『龍馬伝』では攘夷思想は間違いというスタンスで描かれていましたが、じゃあ、何故、その間違った思想に人々が傾倒したかについては結局、触れられないままでした。単に現代人の視点で攘夷思想を否定するだけです。それでは、歴史を書いたとはいえません。その点、本作の久坂の言葉は歴史に対するひとつの解釈がなされています。攘夷思想は国論を統一するための方便。しかし、その方便に乗せられた連中の数と勢いが制御できないまでに膨れあがってしまったものが攘夷運動である。実際、長州は伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)らを公費で英国留学させていますし、下っ端は兎も角、首脳部が本気で攘夷思想を信じていたか疑わしいですから、非常に説得力のある解釈だと思います。しかし、この場面がなくても物語に影響はないんですよ。ここで久坂を再登場させるよりも、原作通りに南方センセと佐久間象山、西郷サァとの絡みに集中したほうが楽に決まっているんです。じゃあ、何でわざわざ、こんな場面を入れたのか? それは、ここのスタッフが余程の歴史好きか、或いは歴史好きの視聴者が何を望んでいるのかを心得ているということです。少なくとも、近年の大河ドラマのスタッフよりも歴史劇を描く力は優れています。
当然、歴史上の人物に対する敬意も忘れていません。それが如実に示されたのが第一部の柱になった緒方洪庵の描写です。弟子の不始末で進退伺いを出そうとした洪庵を慰留する南方センセの台詞が素晴らしい。
南方仁「放っておいても医療技術や薬は進化すると思います。判りやすく、利益になるものには人は皆、飛びつきます。それはとても簡単なことです。ですが、石を投げられ、私財を投げうってでも人を助けたいと願う『医の心』を伝えてゆくことは、とても難しいことだと思います」
スタッフの歴史に対する姿勢が見て取れますね。確かに医療の知識や技術では未来人である南方のほうが優れている。しかし、自らを犠牲にしてでも医の道を開拓してきた洪庵の功績と為人には如何なる知識も技術も遠く及ばない。先人に対する真摯な研究と敬意がなければ出てこない台詞です。こういう態度が近年の大河ドラマには欠けているんだよなぁ。
これ以上続けると、作品の感想ではなく、相変わらずの大河批判になってしまいそうなのでやめておきます。まぁ、賞賛ばかりだとアレなんで、少しばかり文句をいわせて貰えれば、平成22年の10円玉の謎が残ったままのような気がする。あれかな? 山本副長のSF解説にヒントがあったのかな? 納得できる回答をお持ちの方、おられましたらコメント欄でご教授下さいませ。