『江~姫たちの戦国~』を擁護してみる(ネタバレ有) | ~ Literacy Bar ~

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ここはイマイチ社会性のない自称・のんぽりマスターの管理人が、
時事、徒然、歴史、ドラマ、アニメ、映画、小説、漫画の感想などをスナック感覚の気軽さで書き綴るブログです。
※基本、ネタバレ有となっていますので、ご注意下さい。

題名だけで、

「おまえがいうな」

というツッコミの声が聞こえてきそうですが、マジです。


確かに私のブログでは毎週毎週、この『江』という作品に対する批判をしています。『三国志DQN四天王』企画の発案者であるY氏からも、

「『相棒』の感想よりも『江』の感想のほうが『オマエらしさ』が出ている」

との指摘を受けました。自覚はないのですが、恐らくは『相棒』の感想よりも『江』の感想のほうが筆がのっているのでしょう。

しかし、同じ『江』への批判でも、少しピントがズレているんじゃないかと思うモノもあります。例えば、貴方が相撲やプロレスを観戦中、箸にも棒にも掛からないグダグダのバトルを見せられたとしましょう。そこで、

「しょっぱい試合してんじゃねーぞ!」

「金銭返せ!」

と野次を飛ばすのは正しい。でも、

「八百長野郎!」

「暴力反対!」

と批判するのは間違っていますよね。ヤオやバイオレンスという要素を含んでこそ、相撲やプロレスというジャンルは存在するんです。この1、2週間、多くの新聞や週刊誌から発せられた『江』への批判記事は、それこそ、相撲やプロレスに『八百長野郎』『暴力反対』と叫ぶ類の文章でした。この時期の大河バッシングというものは毎年の恒例行事みたいなもので、大抵はピントのズレた記事が多いです。昨年の『龍馬伝』でも、

「岩崎弥太郎をあんなに汚く描くのはやめろ」

という三菱の関係者からの苦情が掲載されていましたが、実際、弥太郎は困窮を極めた地下浪人の出自なわけで、若いころから綺麗な紋付を羽織って葉巻をスパスパ吸っていたら、そっちのほうがオカシイですよね。

今回は既存のメディアから発せられた『江』への批判に疑義を呈することで、私の『江』に対するスタンスを整理してみたいと思います。批判の対象にされているのは、主に次の二点です。


① 「史実と違う点が多過ぎる」

② 「主演女優の演技力の不足」


まずは①からいきましょう。

確かに信長が光秀を後継者に考えていたり、江が神君伊賀越えに同行したり、万福丸の存在が【なかったこと】にされていたりと、明らかに史実と異なる点が目に余ります。しかし、これはドラマなのですから、史実と違う点があってもいいんです。否、あるべきなんです。既存の人物像に新しい角度から光をあてる、或いは全く新しい像を創り出すことこそ、歴史創作の真骨頂なんです。

歴代の大河ドラマの中に『黄金の日々』という作品があります。あの作品では史実と異なる……というか、実にはあり得ないことが多々、描かれています。呂宋助左衛門と石川五右衛門と杉谷善住坊を乗せた船がフィリピンに漂着するルソン編(『ふしぎの海のナディア』の島編みたいなものです)を筆頭に、主人公の助左が金ヶ崎の退き口や叡山焼き討ち、鳥取城攻防戦等に絡むなど、お世辞にも史実に忠実な作品とはいえません。しかし、この作品を史実と違う点が多過ぎると批判する方は少数派です。何故、批判されないかといえば、その創作が面白いからです。

面白い、面白くないは個人の感性に基くものですから、もう少し、突っ込んだ解説をしてみましょう。『黄金の日々』では主人公の助左パート以外の歴史描写が綿密に構成されています。勿論、長篠の戦いにおける鉄砲三段撃ちなど、現在の研究者からは疑義が投げかけられている描写なども多々ありますが、少なくとも、放送当時に最も有力とされていた説に基いて歴史パートが描かれています。また、主人公の助左が歴史上の人物や事件に絡む場面ですが、これは助左に都合のいい話ばかりではありません。金ヶ崎の退き口では浅井・朝倉軍の追撃に遭い、叡山焼き討ちでは織田軍に殺されかかり、鳥取城攻防戦では城兵と共に飢渇に苦しみます。主人公が信長に理由もなく気に入られたり、光秀に偉そうに説教を垂れたりする『江』とはえらい違いです。

要するに主人公パートと歴史パートの絡みがリアリティに溢れているんです。リアルじゃありませんよ。リアリティです。見てきたようなウソといってもいい。物語の紡ぎ手に求められる資質とは観客を騙す才能なんです。そして、全てを虚偽で塗り固めたウソというのは、騙しの手口としては下の下です。如何にもありそうなこと、ホントっぽいことを数多く用意して、初めて、ウソはリアリティを帯びる=面白くなる。『黄金の日々』はそれに成功したから、現実にはあり得ない筋書きでも視聴者を納得させられたんです。ですから、史実と違う点が多過ぎるという批判は対象がドキュメンタリーでもないかぎり、成りたたないんです。


じゃあ、この『江』も史実に沿わなくてもいいじゃん、といわれそうですが、それは違います。『江』の場合、物語の殆どがウソで構成されています。先ほども述べたように、虚偽で塗り固めたウソは騙しの手口としては下の下です。そんなウソでは視聴者はついてきません。例えば、信長が光秀を後継者に考えていたという設定。後継者としては兎も角、嫡子・信忠の後見人と考えれば納得できなくもありません。少なくとも、助左と五右衛門と善住坊が呂宋に漂着するという話よりは現実性があります。しかし、ウソに現実味を持たせるための描写が完全に抜け落ちていました。信長が光秀にしたことは突然の右フック、宴席でのパワハラ、不当な降格左遷、そして、

「悔しかったら謀叛でも起こしてみろや、ぁあ?」

という脈絡のない煽りです。みっちゃんをかわいそうにおもったらんまるが、

「なんで、のぶちゃんはみっちゃんをいじめるの?」

とたずねると、のぶちゃんは、

「イジメじゃねーよ。アイツ、転入生だろ? 何か、自分の殻に閉じこもってる感じがすっから、オレが構ってやらねーと周りと打ち解けられないと思ってよ。フザけて遊んでるだけだから、そんなに心配すんなよ」
というイジメっ子のイイワケのようなことをいっただけ。こんな話で信長が光秀を後継者に考えていたという設定を許容するのはムリです。全く説得力がありません。

また、江が神君伊賀越えに同道するという設定。このあと、江は野武士の集団に捕縛されて光秀の元に赴き、更に光秀が死ぬまでに清洲に帰るという健脚ぶりを発揮しますが、あるサイトの検証によると、それほどにムリな行程でもないと結論づけられていました(江の年齢や間道の整備状況、敵の勢力圏を通過する危険性を除外するという但し書き付です)。ですから、江が伊賀越えに同道できる筈がないという批判は棚にあげておきましょう。問題は江が神君伊賀越えに同道する必然性が全くないということです。

同道させた理由は推測できます。信長は江の憧れの伯父さまですから、その信長を倒した光秀は仇になります。しかし、光秀を仇にすると彼を討った秀吉が正義ということになります。このあと、浅井三姉妹は秀吉に色々と苦渋を味あわされるわけですから、江を絶対正義にしたい脚本家としては、この展開は非常にマズイ。そのため、信長が光秀を後釜に考えていたという(苦しい)設定を軸に、光秀こそが真の信長の後継者であると江に判らせようとしたと思われます。そう考えれば、江の伊賀越え同道は納得はできませんが理解は可能です。しかし、私が口が酸っぱくなるほど、そして、御覧の皆さまの耳にタコができるほどに繰り返してきたように、

万福丸

の一件をキチンと描いておけば、こんな素っ頓狂な筋書きにならずにすんだ筈です。秀吉が異母兄の仇であれば、江も無条件に憎むことができたでしょう。書くべき真実を書かず、書かなくてもいいウソを書き散らした結果、江の神君伊賀越え同道という、本来は何の必然性もない場面を挿入する羽目に陥ったわけです。

繰り返しますが、大河ドラマは物語なのですから創作はおおいに結構です。史実と違う点が多過ぎるという新聞や週刊誌の批判は、物語論から考えればズレた視点といわざるを得ません。『江』という作品を批判するのであれば、

「フィクションを活かすために必要なリアリティが欠如している」

と書くべきでしょう。



次に②に移ります。

主演俳優の演技力の欠如。コレも大河ドラマのバッシングでは定番ですね。確かに通常のお江与の方を演じられる女優さんは上野樹里女史のほかにもおられるでしょう。しかし、今回の大河ドラマの江を演じられる方は絶対にいないと断言します。勿論、上野女史でもムリです。何しろ、江のキャラクター設定は、


「産声で戦を中断させるスタンド使い」

「第六天魔王・信長に蘭奢待を貢がせる魔性の姪」

「戦国のラスボス・秀吉を這い蹲らせる小宇宙(コスモ)を秘めた聖闘士」

「死者の魂と交信するニュータイプ」

「道なき伊賀の山中を一日40㌔走破するマラソンランナー」

「殺し間の仕掛人・光秀を説教する女教師」

「でも、ムツカシイことはよく判りません♪」

「見た目は二十代なのに、野武士たちから【禁則事項です】されない」

「粗忽で御転婆な9歳児(ただし、達筆)


です。しかも、これがベーシックではありません。これからも脚本家の妄想と製作の都合で改変される可能性が極めて高いと思われます。これは個人の演技力でどうこうできる問題ではありません。こんな役柄を演じるのは北島マヤでもムリでしょう。或いは、

梅宮クラウディア

なら、別の意味でシックリくるかも知れません(違和感を覚えないだけで演じられるわけではありません、念のため)。要するに基本設定がハッキリしていないだけでなく、その特性が常軌を逸しているようなキャラを演じられないからといって、それを俳優の所為にするのは御門違いだということです。俳優は自分が理解できない(同意はできなくてもいいんです)キャラを演じることはできません。役作りに迷ったら基本に戻ります。この場合、基本とは台本のことです。しかし、その台本を執筆しているたぶちんが、自分の書いていることが判らない というんですから、そりゃあ、俳優の方が理解できるわけがありませんよね。ですから、主演女優の演技力を論うのではなく、

「俳優が演技力を十全に発揮するための環境が整っていない」

と批判するべきだと思います。


何だかんだで、結局はタイトルに反するような『江』への批判の話になってしまいました。しかし、昨年の『龍馬伝』の記事 でも述べたように、如何にダメな作品でも間違った方向から批判されるのは可哀想な話ですし、フェアでもないと思います。褒めるにせよ、貶すにせよ、物語は物語のルールに則った方法で批評したいものです。