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昨日は、真備町の被災地に入り、被災された家屋のお片付けを手伝っておりました。

「見ると聞くとは大違い」という言葉があります。

もっとも現代では、テレビやネットなどで見ることはできたりします。

「媒体を通じて見ると現物を見るのとは大違い」というのも痛感いたしました。

当たり前にそうだと思っていたのですが、今回はリアルだったということです。

 

現地に近づくと、じわじわ土埃が空気中に舞っているのがはっきりわかります。ああ、被災地なのだな、というのがはっきりわかります。

驚いたのは、私が向かったルートでは、本当に被災地域とそれを免れた地域が、本当にわずかな差で分かれていたということです。

 

写真はほとんど撮っていません。

私はカメラマンではありませんし、被災地で悲しんだり、黙々と作業をされているかたが存在する風景を撮影するのは、なんとなくはばかられました。

あ、それは私の勝手な感性なので、他の方はあまり気にしないでください。

目で見える形で伝えることも価値あると考えます。

とりあえず微力ながらお手伝いするというつもりで行ったので、私はそれを避けただけです。

 

とりあえず、言葉のみでお伝えさせていただきますね(映像か言葉か、というだけの違いです)。

あ、こういった厳しく、悲しい情報が心理的に受け取れないかたは、お読みにならないでください。

 

 

私が見たのは、住宅が流されたりした、もっとも甚大な被害が出た場所ではありません。

それでも、腰の高さまで水位が来た、つまりもう床上浸水で。

一階の壁や窓など、そうですね、一階の壁の中程よりも少し下のところまで、浸水の跡が残されていました。

 

一度、二階に避難し、その後、少し水位が下がったときがあり、そのときに家から脱出なさったそうです。

 

しかし、まったく隣接した土地で、一段下がった土地があるのですが、そこにある住宅はもう、一階の屋根に近づくところまで水位が上がったそうです。

 

 

お手伝いした住宅の中は、なんというのか、饐えたような、土っぽい匂いで満ちていました。

浸水した場合、埃と雑菌が大変な状態だというのは理解しておりましたので、マスクをし、防水手袋、長袖のシャツと作業用ズボンは、もう捨てて良いと思うものを着てきました(作業終了後は廃棄)。

あとは長靴。

 

黙々と作業ができれば良かったのですが、肉体労働を離れて久しいので、結構息が上がりました。←つまり、けっこう、ハアハア、いっていた。

一番の難物は畳で、水を含んで重くなったものをひっぺがし、搬出。

手がないときは、一人でも搬出。

畳と床板の間には、つるつるのオイルのような泥の膜があり、これがまた作業を妨げる。

やがて、手の握力がなくなってきて、畳をつかむのも情けなくなってくる。

 

水分補給は意図的に、こまめに行いました。

気温も昨日の真備は、36度になっていたとか。

 

部屋の中にもものが残っているので、それをあちこちやりくりしながら、なんとか畳を搬出(ご家族なりのお考えがあろうかと思いましたので、何もかも外にどんどん出せばいいわけではないと判断しました)。

災害ゴミを出す場所へ運搬する軽トラに乗せ、また中から廃棄するものを出す……の繰り返しでしたが、ご家族の連携が良かったのでしょう、思いのほか早く、大きなものは出すことができました。

 

根本的には床を洗浄しなければ、一階の状態を元に戻すことはできません。

消毒用の消石灰なども必要になります(これはまだ来ていませんでした)。

 

水道も昨日、試験的に戻ったばかり(飲料にはできません)。

 

じつは真備町は、市の真備支所自体が甚大な浸水被害を受け、機能不全に陥っています。

これは、河川の防災的な観点での改善が進められている最中で、今回、間に合わなかった側面もあるようです。

しかし、その機能不全のために、せっかく市で集めてくれたボランティアが真備には入れないまま、バスが引き返したということも、昨日はあったようです。

 

善意が無駄になってしまうという、なんとも残念な事態です。

 

とはいえ、私の住む児島も、児島支所は海辺のきわめて低い土地にあります。

南海トラフ地震とかで津波被害があったら、同様な状態になるのでは?

かなり懸念されます(じつは、この点は前から懸念していますが)。

 

今回、私がお手伝いに行った家は、事前に連絡が取れ、他の交通の妨げにもならず、個人の支援ができる状況でした。

しかし、災害の中心部など、個人の判断で勝手に入っていくと、かえって妨げになる部分もあろうかと思います。

やはり市や行政の、全体を俯瞰したサポートの中で、ボランティアなどがうまく機能するのが理想と思います。

 

ボランティアのお申し込みも大変多いと聞きます。

 

被災されたご家族にとっては、やはり「自分たちだけでこの事態に立ち向かわねばならない」と感じることは、非常に苦しい、現実的心理的な負担にもなると思います。

お一人で暮らしているご老人などなら、なおさらです。

 

ものを撤去したり、掃除をしたり、そういったことは当たり前に役立つのですが、被災されたかたにとっては、誰か助けてくれる手(心)もあると実感することが、どれほど大きな心理的な援助になるのか、ということも感じました。

 

あ、でも、私がお手伝いした家のかたは、わりとおおらかというのか、この事態を受け止め、「まあ、なんとかやっていこうや」みたいな姿勢でおられたのが、なんというのか、私のほうも救われた気がします。

ある意味、とても日本人らしい気質を見た気がします。

 

ただ、被害が甚大で、ご家族が亡くなられた、今なお行方不明というお家もあります。

亡くなられた、など、どう言葉をかけるべきか、かける言葉もないのか……

 

しかし、寄り添うことはできますし、何か「行為」はできます。

 

平成最大の災害と言われる西日本豪雨。

よもや…

この「晴れの国」――また災害が少ないと言われる岡山も巻き込んで、ここまでのものをもたらしてしまうとは…

 

自分には関係ないと思う怖さを、あらためて岡山県民に突きつけたのかもしれません。

安直な、悪意のない楽天性みたいなものは岡山にはあると思われます。(災害が少ないがゆえに)。

今回の災害でも、根拠なく「大丈夫」と思って行動しなかったことの問題提起が数々あります。

 

どうか、他の都道府県の皆様にも、「自分には縁のないこと」のように簡単に思い込まない、その一つの考えるきっかけにしていただければと思います。

 

それから、このような記事を書きますと、被災地に対して「自分にはなにも具体的な行動ができない」と心苦しくお感じになるかたもおいでになると思います。

それは私も同様です。

私も過去の東日本大震災を初めとする震災や災害で、「自分もそこへ行って何かしたい」と思う気持ちがある一方、現実にそれができないということがありました。

仕事があれば、遠隔地へ行くこともなかなかできないのは当然ですし、家族があればそれを放り出して現地へ行くことができないのも当たり前です。

 

お気持ちがあってもできないのであれば、無理せず、それこそ義援金のご寄付などで良いのではないでしょうか。

お金以外の具体的な行動が取れないことを、あまり気に病む必要はないと思います。

(お金だけ出しとけばいいだろう、ではなく)

 

要するに、お金であろうと行動であろうと。

 

大切なのは気持ちなのです。

 

募金をすることも「行為」の一つです。

それは身体を動かすことと、大きな違いはありません。

むしろ、違いがあるとすれば。

「行為=カルマ」の裏側にあるのが、善意なのかどうか、で、十分なのでは?

 

災害ボランティアと募金の、もっとも大きな違いは、現地の人とのダイレクトな交流なのですが。

それだって、私がそうであったように、近隣で何かあったとき行動すれば良いのではないかと言えますし、災害でのみ、その行動を取る必要もない。

 

災害でなくても、身近で起きた何かに対して、誠実な行動や善意の行為を取れれば、それで十分なのでは?

それはきわめて個人的な問題であってもいいはずです。

誰か困っている人のために、何かができたとか伝えられたとか。

そんなこともでもいい。

 

神は偏在し

神はすべてを見

あなたはどこにでも存在する

 

 

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