うーん。
たぶん3回くらいかな?
何度かに分けてお書きしますが、お付き合いいただきたい。
これは、たぶんそこそこ意味のあることなので。
ちょっと関連がある問いかけや鑑定があったので、思うことを書こうとしているのですが、それには幾度か必要なのです。
これは最大公約数的に、多くの人に当てはまることのはずです。
幸せに生きるために、あるいは自分の才能を生かすために。
数々のホロスコープを拝見すると、非常に多くの方が
本来得られるはずの幸せをつかめずにいる
大きな力を有しているのに、それを生かせずにいる
というような事例を見ます。
この原因は様々ですが、多くの場合、恐れが根底にあります。
・幸せになれないような気がする。
・幸せになってはいけないような気がする。
・幸せになろうとすると失う恐怖を感じる。
・自分に価値を見いだせない。
・自分を無力と感じる。
・自分を信じられない。
こういった思考の根底には、たいてい不安や恐れが潜んでいます。
失ったときの痛みを先に想像してしまうので、幸福になることにさえ遠慮してしまう。
また自分が本当に価値ある存在だと思えないから、幸せになる資格がないように感じたり、自己卑下したりするというのも、自らを低いところにおいておくことで、あるものを得ようとするからです。
それは
偽りの安心感です。
偽りの安心感というのは、私にはとてもよくわかります。
私は男としては、何ら自信がありません。
格別男ぶりがいいわけでもないし、ど近眼で、身長も低いほうですし、短足ですしO脚ですし、けっこうハゲですし、歯並びだって悪いですし……まあ、あげつらったら結構出てきます。(笑)
あまり、いいところはない。
と思うに至った大きな理由は、じつは容姿がどうのこうのというよりも、じつはやはりメンタル的な下地があったからなのです。
原因は、やはり子供時代にあり、3つ上の兄に非常に支配的にふるまわれ、兄に気に入られたいと思って行動するのに否定されたり怒られたり……
その結果、
「自分がいけないから兄が怒るのだ」
「嫌われるのは自分が悪いからだ」
「好かれるためには、自分がとことんへりくだって、低いところにいなければいけない」
などの思考の癖がついていて、このときからすでに私は、自分の人から愛される価値とか自分の能力や力量というものに、とことん懐疑的になっていました。
どうせ自分なんかダメだから、そもそもダメだと思っていたほうが傷つかずに済む……
悲しいですね。(笑)(ノω・、)
でも、当時の自分の心情というのを、今言語に置き換えて表現すると、間違いなく上記のようなものになります。
あるとき、兄はテニスに興味を覚え、たぶん両親にラケットとボールを買ってもらったのでしょう(本格的なものではなく、おもちゃに近いものだったと思いますが)。
その練習をするのに弟である私を相手にしたのですが、
初めてするわけです、テニスなんか。
兄の打ったボールをどうしてもうまく打ち返せない。
兄のいる場所に返せないのです。
何度かやった後、兄は激怒しました。
そして罵声を浴びせて去っていき、少年の私は悲しみと絶望にくれました。
やっぱり、自分なんかダメなんだ。
運動神経が悪いんだ。
兄の望むようなことが何もできない……。
今考えると、そのテニスの練習をしようとした場所は、テニスコートでも何でもなく、我が家の近くの車一台分がやっとの狭い道路。
テニスを初めてやって、最初に兄が打ってきたボールを正確にその道路上に打ち返すのって……かーなーり、難しくないですかっ??
というようなことは、当時の私には考えられません。
(まあ、できる方もいらっしゃると思います)
自分を責め、貶めるしかないわけです。
このような事々の積み重ねが、私に自分はダメだ、価値がない、能力がない、魅力がない…などの烙印を、自分自身で押していく流れになったのです。
そんなことが積み重なったら、当然ですが。
人はとことん自分を奈落の底にまで落とすことは、なかなかできません。
そこまで行ったときには、「死」さえ考えます。
だから、その手前のほどほどのところで、なんとかとどまろうとします。
それが、つまり偽りの安心感、なのです。
続きます。
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