その下であくことなき惨劇が繰り広げられ続けていた。意宇の湖から押し寄せてきたのはタジマの水軍だった。その増援を受け、オロチ軍はじわじわとカナンを小山へと追いつめて行った。ヤイルという司令塔を欠いたカナンには、もはやこれを押しとどめる力はなく、事態は絶望的だった。
その絶望感と恐怖が、さらに戦場を惨たらしいものにした。狂気じみた最後のあがきを行うカナンは、全滅を覚悟で武装に物を言わせ突撃した。もともと装備は圧倒的なカナンである。オロチにも甚大な被害が出、川沿いの狭い平野は屍で溢れ、血と死の匂いで満たされた。
しゃにむに山越えをしてきたイタケルは、その有様に唸った。「こりゃあ……」
「カナンはもはや……」と、隣でモルデが絶望的な呻きを上げた。
彼らはイナバ・タジマから帰還した。大規模な戦乱の情報を耳にし、佐草へ戻る以前に現場に向かったのだ。
「あれは……」カイが叫び、指差した。
その戦場からやや離れた南の山近くに、スサノヲとカガチの対峙する姿があった。まるで銅像になったように両者は睨み合っている。
ずしんという重い響きと共に、重苦しく身をよじるような鳴動が大地に生じた。
「地震だ……」イタケルはそばの樹木につかまりながら、眼を遠くの二人に釘付けにしていた。
地震が静まった。その瞬間、両者に動きが生じた。
動いたのはカガチが先だった。剣に溜めた〝気〟をいきなりスサノヲに向かって叩きつけたのだ。瞬時にスサノヲもまた同様に剣の〝気〟を放ち返した。二つの〝力〟が間で衝突し、周囲にものすごい衝撃波となって広がった。
カガチは間髪を入れず、幾度かの剣圧を放った。スサノヲもまたこれに応じた。爆発のようなものが二人の間で起き続け、そして相殺され続けた。周囲にはじけ飛ぶ暴風の中、カガチの黒頭巾は吹き飛ばされ、その頭部にある二本の角があらわになった。
馬の駆けつける音がした。それを耳にし、カガチは〝気〟の砲弾を放つのをやめ、わずかに振り返った。馬の背からアカルが下りるところだった。
「何をしに参った」と、カガチは苛立ったように言った。
「カガチ、あなたをお助けするために参りました」
「おまえの助けなど要らん」
「いえ、あなたは助けを求めておられます。わたしだけがそれができるのです」
「戯言(ざれごと)を言うな! 下がっておれ!」
言下にカガチは跳躍した。スサノヲとの間の距離を、助走すらなく一気に詰め、剣を振り下ろす。スサノヲは横へ跳んでよけたが、カガチの剣圧は大地をえぐるようにその場に大きな窪みを作った。
そこから二人の死闘が始まった。常人の動体視力では追うことすら難しい、目まぐるしい動きだった。剣というものを持っていなければ、二人揃って何か狂おしい踊りを演じているかのようでさえあった。しかし、その動きには個性の違いがあった。
カガチの剣の舞は直線的で、圧倒的な剛力に満ちていた。パワーでは勝り、一撃一撃の衝撃は半端なものではなかった。それを受けるスサノヲの身体は、しなやかにくねり、俊敏な軽やかさに満ちて、弧を描くようだった。
まともに剣を合わせれば、いかにカナンの宝剣といえど、フツノミタマの剣にはかなわない。折れてしまう危険性が高かった。そのためスサノヲは、カガチの繰り出す剣をすべて受け流すように力を逃がしていた。剣の合わせ方も、受ける腕や手首の力までも、すべてをコントロールしていた。
「こしゃくな」意図を悟ったカガチは猛然と攻撃を叩きつけてきた。
どれほどごまかしたところで、いずれスサノヲの剣は折れる。そのような確信がある連続攻撃だった。受け切れずに後退し、背後に巨岩が迫る。スサノヲはむしろ後ろへ加速し、その岩を蹴ってカガチの頭上を飛び越えた。その意図をカガチは読んでいた。頭上へ剣を突き上げる。あやうく身体を捻ってかわして着地するが、すぐに目の前に蹴りが迫った。巨大な猪に突き飛ばされるほどの衝撃に見舞われ、後ろへ転がる。
追いかけるようにしてカガチの剣が、スサノヲの身体を狙って降り注いだ。それをかろうじてしのぐが、スサノヲの動きをあたかも予知しているようなカガチの猛攻だった。
読んでいるのだ、とスサノヲは理解した。隙を見て、跳ね起きると距離を取る。
瞬間的なものであろうが、カガチはスサノヲの考えを読み取っている。その〝力〟はおそらくヨサミから与えられたものに違いなかった。
スサノヲがクシナーダと交合したのち、彼女の〝力〟の一部を共有しているように、カガチにもまた同様な感応が生じているのだ。
ならば、とスサノヲは静かに剣を構えた。
カガチは空気が変わったのを感じた。スサノヲからそれまで濃厚に伝わって来ていた意志が、ふっと手が宙をつかむような感じで失われてしまったのだ。
と、次の瞬間。
「うおっ?!」
思わぬ鋭さで伸びてきたスサノヲの剣が、彼の顔をかすめた。もし反応が鈍ければ、首を斬られていたかもしれなかった。
面白きやつ……。カガチは笑った。スサノヲの中には今、なにもない。いわば、無の境地なのだ。このような相手にはかつて一度も遭遇したことがなかった。カガチの闘争本能をこれほど刺激し、高ぶらせる存在はいなかった。
雄叫びを上げた。カガチは闘神そのものと化し、スサノヲに向かって行った。
それは無限に続くような荒々しい二人の舞踏であり、その隙間には誰も入り込むことはできなかった。
アカルを追いかけてきたヨサミも、その戦いを目の当たりにし、棒立ちになった。それはもはや人間の戦いではなく、次元の異なる神々の死闘そのものだった。そこへアカルはわずかずつ距離を詰めているのが目に入り、思わず大声を上げた。
「おやめください、アカル様!」
あの二つの竜巻がぶつかり合うような場へ踏み入れたら――。
きっとアカルの肉体は、粉々に寸断されてしまうに違いなかった。
「こちらです!」
先駆けていたカーラの声が聞こえた。スサノヲの後を真っ先に追いかけていた彼は、今は岩場の上に立っていた。クシナーダたちは山の斜面をかき分け、ようやく追いつくことができた。
その岩場からは、今まさに死闘を演じているスサノヲとカガチを間近に見ることができた。全員が、息が切れていた。
その戦いを目の当たりにした瞬間、クシナーダは火で焼かれるような焦りを覚えた。今すぐにスサノヲを助けに行かねば、とう焦慮だ。
「アカル様が……」アナトが息も切れ切れに言った。
「皆さん、呼吸を整えましょう」クシナーダは懸命にみずからを鎮めながら言った。「わたくしたちがしなければならないのは……この場の浄化です。あの二人のいる場所、空間全部を浄化しなければなりません」
「どうすれば……」シキが言った。
「ナオヒ様はこちらにいらしてください。この岩場の上からお力をお貸しください。わたくしたちで二人を囲みます」
「囲む?」ニギヒが驚く。「あの場に行くのですか。危険です」
「そうしなければ、浄化は難しいのです」
ニギヒは眼下で演じられている超常の戦いを見た。それは獰猛な肉食獣同士が死闘を演じているところへ踏み込むのと同じだった。迷った挙句、彼は決断した。
「なら、わたしたちで背負わせてください。息が乱れては浄化も難しいでしょうし、わたしたちがお守りいたします」
「お願いいたします」クシナーダは素直に好意を受け入れた。
クシナーダはニギヒに、アナトはカーラに、他の巫女たちはニギヒの配下に背負われた。そしてニギヒはそれぞれに一人ずつ護衛をつけさせた。エステル、オシヲ、スクナは、護衛の二人と共にその場のナオヒの元へと残された。
「よし。行くぞ」
勇を奮い起こし、ニギヒは先頭で走り出した。岩場の左右から、スサノヲとカガチを取り囲むように走り出す。
その姿は戦っている二人の視野にも入った。一瞬、気を取られたカガチに対して鋭い打ち込みが入り、彼の頬を再び刃がかすめた。
「チッ!」カガチは得意の蹴りを放ち、スサノヲを遠ざけた。
二人を取り込む位置に、巫女たちは降り立った。
カガチは頬の血を拭った。その傷は見ているうちにふさがった。鬼となることで、カガチの肉体は不死性とも言える、異常な回復能力を備えていた。
眼を左右に動かし、そしてやや首を振り、背後を確認する。
「何の真似だ」さすがに息を荒くしてカガチが言った。
アカルを含めた三人は円弧の中にいた。
カガチは殺気とは異なるものではあったが、悪い予感を抱いた。その円弧の外へ出ようと動いた。が、それはスサノヲが許さなかった。スピードではわずかながらスサノヲに分があったし、スサノヲ自身もまたカガチの意志を察することができた。
助走をつけて円弧を飛び越えようと謀るが、それすら宙でスサノヲに止められ、中へ留めさせられてしまう。ちっと舌打ちし、カガチは周囲に吠えた。
「おまえら……このような振る舞いをして、ただで済むと思っているのか。おまえらの家族、民たちは我が手中にあるのだぞ。それを忘れたか!」
「いいや!」
声が響いた。
イタケルが東側の小道を降りてくるところだった。続くモルデ、カイ、そしてカナンの精鋭兵たちは、ぼろぼろの汚い身なりにはなっていたが、眼だけは精悍に輝いていた。
「モルデ!」岩の上からエステルが驚きの声を上げた。
そのエステルの姿を遠目に確認し、顔色を変えるヨサミ。
「タジマやイナバのタタラ場からは、人質をすべて解放してきた! もう何の遠慮もいらねえぜ!」イタケルは自慢げに吠えた。
「間に合った……」アナトが洩らしたのは、紛れもない安堵そのものだった。
キビの巫女たちに歓喜と言っていい波動が広がった。
その空気の中、クシナーダはうなずきを周囲に送った。そして、再び浄化のためのヒビキを送り始めた。
ア――――。
アナトが、シキが、ナツソが、イズミが、そしてナオヒが。
その声は美しく折り重なりながら、その場の気配をみるみる変えて行った。それは当たり前の人間にとっては、これ以上もない心地よさを感じさせるヒビキだった。
だが、カガチは不愉快そうにそのヒビキに顔を歪めた。
「やめろ……」クシナーダに向かって行く。
その目の前にスサノヲは剣を振りおろし、彼を後退させた。
「やめろおぉぉ!!」
巫女たちの胸で勾玉がいっそう際立った輝きを見せ、それぞれの巫女を丸く包んだ。そしてそのヒビキと光はその空間すべてを包み込んだ。
カガチの目の前にもっとも見たくないものが立ち現われてきた。それは母の死の姿だった。何人もの男たちに凌辱され、殺された母。その血まみれの姿……。
カッとその母の眼が開いた。そしてカガチを見つめてきた。憎悪の眼で。
――おまえが殺したのよ、あたしの大事なトムルを。
――おまえなど生まれなければよかった。
血まみれの母が、幾度も幾度も呪詛を投げかけてくる。兄(トムル)の死の責任を浴びせ続ける。
「やめろ! やめさせろぉ!!」
カガチはその母に対して憎悪を爆発させた。やみくもに突進し、剣を振り下ろす。そこには、現実にはスサノヲがいた。スサノヲはカガチの剣を受けたが、その憎悪のエネルギーの大きさに、両者は正面衝突したように互いに弾き飛ばされた。
カランと音を立て、フツノミタマの剣が地面に落ちた。
それはヒビキを送るシキのすぐ目の前だった。カガチは跳ね起き、シキに向かって行こうとした。離れた場所に飛ばされたスサノヲはそれを察したが、さすがに間に合う距離ではなかった。
シキのそばで護衛の兵士二人が剣を構える。
その時、シキは浄化のヒビキに満たされながら、すでに動き出していた。カガチよりもいち早く。
彼女はフツノミタマの剣に手を伸ばし、それを拾い上げた。
二つのことが続けざまに起きた。幾多の人の血や怨念を吸い、妖刀と化していたフツノミタマの剣が、彼女の手が触れた瞬間にその強い浄化の力を受け、魔の気配を消し飛ばしたのだ。そして本来の輝きを取り戻した剣の〝力〟が、シキの身体を貫いた。めくるめくような心地の中、シキは迫ってくるカガチを見た。
熱いものが身裡から立ち上がってきた。
「さがれっ!!」
シキは右の掌をカガチに向けて突き出した。黄金色のようなオーラがほとばしった。
「うおっ!?」
突進してきていたカガチの巨体が吹っ飛ばされた。起きたことが信じられないというように身を起こしたとき、彼の前にはスサノヲが立っていた。
ヤイルがそうしたように、カガチはスサノヲに殴りかかった。スサノヲはその左右の拳を受け止めた。しかし、カガチのほうが手は大きく、やがて両者は両手をがっちりと組み合わせる形で対峙した。じりじりとカガチが圧力を強めて行く。
「馬鹿が……俺に力で勝てると思うのか」
「どうかな」
浄化のヒビキがさらに満たされる。その中でカガチは、じわじわと己の鬼神の力が制限を受け始めるのに気付いた。そして――。
カガチは背中に人の気配を感じた。
アカルだった。
彼女はそっと背後から、カガチを抱きしめた。いつか、ヨサミがしたように――。
――わたしの巫女としての〝力〟は、特殊なものです。
クシナーダや他の巫女たちは、アカルが語るのを思い出していた。意識が共有されている中で、彼女たちは記憶も、それを再生させることも共有していた。
――皆様も巫女として、世の中や人が持つ気配を受け取ってしまうということは理解していただけるでしょう。わたしの〝力〟は、それを極限まで広げたものなのです。多くの巫女たちは自分の身を守るために、いくつかの感応を無意識に制御したり、閉ざしたりしています。でも、わたしはその気にさえなれば、すべてを受け入れてしまうことができるのです。何も関門がない人間なのです。
何も関門がない。それはあまりにも衝撃的な告白だったが、これまでのアカルが示してきた様子から納得させられるものでもあった。
――それはつまり、どのような闇であってもわたしは呑み込んでしまえるのです。ただその瞬間には、わたしはきっと闇そのものになり、人でさえなくなってしまうかもしれません。気が狂って壊れてしまうかもしれません。
わたしの母もまた同じでした。母は早くからわたしのことを見抜いていました。ですから、身を守るための術を子供の頃から教わっていました。それがなければ今日まで生きては来られなかったでしょう。母は……早くに亡くなりました。わたし自身、きっと長くは生きられません。いかに制御して、浄化をしていても、この世の穢れは少しずつわたしの身を蝕んで行くからです。
――そんな〝力〟をカガチに対してお使いになるのですか!?
アナトの問いかけは悲鳴に近かった。
――この〝力〟はきっと、この日のために与えられたもの……。そのように理解しております。
――そんなことをしたらアカル様が死んでしまいます!
――なぜ、カガチのためにそのような……。
――やめてください。お願いです!
巫女たちの動揺と慰留をよそに、アカルはこの上なく穏やかだった。
――イスズ様がご自分の使命のために命を懸けられたのと同じように、わたしもここが命の懸けどころなのです。それはわたしがしなければならないこと……いえ、わたしがしたいことなのです。
巫女たちは絶句した。
――それにイスズ様も申されていたでしょう。〝それでも……〟と。
それでも、と巫女たちは意識を共有して思った。
わたしたちは決してあきらめない――。
絶対にアカルを死なせない。
アカルをもし失ってしまえば、〝黄泉返し〟は不可能に近くなる。そんな事情があるからではない。ことトリカミに幽閉されて以来、同じ時間と空間を共有する中で、巫女たちは互いの愛すべき資質を分け持つようになった。
ありていに言えば、好きになっていた。
理由はそれで十分だった。
しばらくアカルは、固定されたカガチの背中に寄り添っていた。が、あるとき、胸をかきむしるようにして離れた。
二人の間には離れた後も、青黒いようなオーラがつながっていた。そのオーラには流れがはっきりとあり、カガチからアカルへと、まるで濁った血液が流れ込むように見えた。
「うぐ……あ……ああ!」
アカルは両手で頭をつかみ、大蛇のように身体をのたうたせた。苦悶に形相が変わっていく。ただ苦しいというのではない。カガチの身裡にあるものが、そのまま乗り移って来たかのように、ものすごい怒り、悲しみ、憎しみといった形相となって、次々に現れた。それは巫女たちの肝をひしゃげさせるほど恐ろしいものだった。
カガチもまた異変が起きていた。彼は対峙していたスサノヲとの力比べを放棄し、ふらつきながらアカルと同じように両手で頭を抱えた。そしてものすごい音量で吠えた。絶叫し、地面に倒れ、転がりまわる。全身の肉と骨がきしむような痛みに見舞われていた。
――もっと浄化を。
巫女たちは誰もが想い、意識を集めようとした。だが、アカルのあまりの苦しみように意識がぶれた。焦れば焦るほど、調和のヒビキには乱れが生じた。
アカルの胸もとで輝いていた勾玉。
ビシッ、とそれにひびが入った。そのひび割れは瞬く間に全体に広がり、そして勾玉は粉々に砕け散った。
びくっとアカルは空を仰いだ。両手で身体を抱きかかえるようにする。アカルの肉体は自然に宙に持ち上がった。吸収している〝力〟が膨れ上がり、彼女の周辺に滲み出そうとしていた。それを彼女は自らの中に抑え込もうとした。
その一方でカガチもまた激しい苦悶にのたうちまわっていた。涎を流し、充血しきった眼は頭蓋骨から飛び出しそうになっていた。ぎしぎしと身体が収縮していくようだ。
「ああ!」
「アカル様が!」
堪えきれず、巫女たちは叫んだ。
アカルの腹部が異常な勢いで膨張していた。みるみる、まるで臨月の妊婦のように膨らんで行く。それはカガチから吸収したものが、鬼子となってそこに宿っているかのようだった。
きゃあ、と若い巫女たちは悲鳴を上げた。そのさまは、彼女たちにはあまりにもショッキングなものだった。
クシナーダは浄化のヒビキを送りながら、やはり悪夢のような違和感の中で、心が揺れを抑えることができずにいた。
――これで良いのです。
アカルの意識がよぎった。
次の瞬間。
アカルの身体は宙で回転し、地上に投げ落とされた。その腹部が次第にしぼんでいく。が、彼女はピクリとも動かなかった。
彼女の周囲から真っ黒な霧の如きものが上空へと立ち昇って行った。何者かがそれを狂喜して迎えている。
カガチも動かなかった。
近くにいたスサノヲが、真っ先にアカルのそばに寄った。後から、他の者たちが近づいてくる。
「アカル様……」クシナーダはアカルのすぐそばに膝をついた。
すでに息絶えていたかと思われたアカルは薄く目を開いた。しかし、声を発する力ももはや残されていない様子だった。
「アカル様!」
巫女たちは泣き出しそうな声をかけ続けた。
「……なぜだ」
呻き声がした。カガチは横たわったまま、空を見上げていた。起き上がろうとするが、もう何十年も動かしていなかった肉体のように、筋肉も骨も強張り、しかもとてつもない脱力感と喪失感があった。
彼の頭部には角がなかった。
彼はかつて鬼に変化する以前の肉体に戻っていた。一回り以上、小さく見えた。かろうじて上体を起こし、そして彼は自分の小さくなった手を見つめていた。
「なぜこんなことを……」
カガチはゆっくりとアカルの方を振り返った。
「なぜこんなことをした!」叫んだ。そして這いずるようにして、アカルのそばへやって来た。「なぜだ! 答えろ! アカル!」
「…………」
唇だけが動く。が、何を言っているのか、アカルの声はもはや耳では聞き取れなかった。眼だけは優しげに、覗きこむカガチを見つめている。
「アカル様は、カガチ、あなたのお母様です」
「な、なに!?」馬鹿な、というようにカガチはクシナーダを振り返った。
「正確には前世のお母様です。あなたがたは前世、この国で暮らす親子だった。しかし、そのとき火山噴火に伴う大火事ではぐれ、お母様はあなたのことを気にかけながら亡くなったのです。逃げ惑う人々の中で手を離してしまった息子、幼いその子を猛火の中に置き去りにしてしまったかもしれない罪の意識にさいなまれながら……」
「アカルが……俺の……」
「あなたは生き延び、いなくなってしまった母親を生涯探し続けた……。そんな前世だったのです。そして今回、アカル様は同じように母を喪って苦しむあなたを救うために、この同じ時代に生まれてきたのです」
アカルの手が、震えながら、わずかに持ち上がった。その指が、カガチの頬に触れた。
――わたしのヒボコ。
そう呼びかけた。そして、その手は下に落ちた。
アカルの眼は閉じられた。
安らかな死に顔だった。
彼女を取り巻く人垣から少し離れた場所で、ヨサミもまたその死を見つめていた。
カガチの背が震えていた。アカルのそばににじり寄った姿勢のまま、突っ伏すようにして、長くそうしていた。涙が彼の顔面の下に、水たまりを作っていた。
「抱いてお上げなさい」と、クシナーダが言った。「抱きしめてよいのですよ。きっとアカル様も喜ばれます」
カガチは涙と鼻水で濡れた顔を上げ、苦しみながら身を起こした。そしてアカルの身体に手を伸ばし、躊躇したのち、抱いた。
堰を切ったように、彼は号泣した。
「こんなふうにして……」スサノヲの肩に泣き顔を押し付けながらクシナーダが言った。「救われる魂もある……」
巫女たちも涙していた。が、イズミが正気に返ったようにつぶやいた。
「アカル様が亡くなられてしまった……」
アナトもはっとなる。「これでは〝黄泉返し〟が……」
涙を拭いたシキは、自分が抱きしめている剣の存在に気づき、スサノヲの前に進み出た。フツノミタマの剣を彼に捧げる。
「ありがとう」スサノヲは受け取った。「そなたの浄化のおかげで、剣は光を取り戻した」
「いいえ。わたしなど――」
「なんだ――?」と、イタケルは声を上げ、上空を仰いだ。
いつ間にか白昼だというのに、妙に明るさが陰り始めていた。太陽が雲の影に隠れたというのでもない。全体に薄暗くなってきているのだが、なにか太陽の光量自体が少なくなったかのようだった。
太陽は傾いた空にあった。が、まぶしい光に目を細めながら見つめると、太陽がじわじと欠けてきているのがわかった。
「日隠れ――?」イタケルが言った。
離れた場所で演じられていたオロチとカナンの死闘も、にわかに生じた異変に気づく者が増え、だんだんと静かになって行った。剣を合わせていたが、互いに棒立ちになる。弓をつがえていたが、引き手がゆるむ。そうして彼らは一様に空の異変を目の当たりにした。
中には恐れおののく者もいた。日隠れを一度も経験したことのない人間も多かったからだ。
太陽はやがてその輪郭だけを残し、完全に暗い円となった。
それは多くの者の胸に、自分たちの悪しき行いへの鋭い警告と、災いの出現を暗示するものとして受け止められた。
「おかしい。日隠れにしても……日が出て来ない」ニギヒも動揺を見せた。
「空が……真っ暗になっていく」エステルが言った。
上空には暗雲が濃密に垂れ込めはじめた。そしてそれは待てど現れぬ日蝕の太陽さえも覆い隠して行った。巫女たちはこの時すでに、誰もが恐ろしい不快感、頭痛などに襲われていた。
「来るぞ」スサノヲはフツノミタマの剣を握りしめ言った。
真っ暗になった空の一角が切れた。青空が見えたのではない。なにか暗黒の淵が裂けたように、その裂け目からどろどろとしたものが地上に落ちてきた。それはまるで動物のはらわたそのものようだった。赤黒く照り、しかも異様な瘴気のようなものをまとっていた。
ぼたぼたと空から落ちてきたそれは、触れた者を一瞬で悶絶死させた。広がっていく瘴気の中で逃げ惑う兵士たちはその場で立ち腐れ、次々に白骨化して行く。まるで悪夢のようだった。恐慌状態に陥った兵士たちは、敵も味方も関係なく、蜘蛛の子を散らすようにその場から逃げ出して行く。
「なんだ、あれは……」ニギヒが唖然としていた。
空から落ちてくる溶岩流のようなものが止まった。
濃厚な瘴気の中から、それが禍々しい姿を見せた。
巫女たちは悲鳴を上げた。
それはいくつのも首と尾を持つ大蛇だった。しかし、身は一つ。てらてらと輝く巨大な胴回りは、大人が何人も手をつなぎ合わせるほどの大きさで、そこから大蛇そのものとしか思えない形状の首と尾が長々と伸びている。だが、その身体のすべては腹を断ち割って取り出されたばかりの内臓のようであり、見るだけで吐き気を催すほどのグロテスクさだった。
八つの首には睨まれただけで狂気に誘われそうな酷薄な双眸がらんらんと輝き、開いた口からは巨大な牙と割れた舌が覗いている。牙から垂れ落ちる液体は、地に落ちると強酸のように、じゅうと音を立てた。
そして戦場だった場所は、かつて以上の地獄と化した。化け物は次々に兵士たちを呑み込み、吐きかける瘴気でたちまちに腐らせた。それは眼を背けたくなる凄惨な光景だった。見ているだけで全身が冷や汗でまみれて萎え、その場に崩れ落ちてしまいそうになる。
両軍合わせて何百と残されていたはずの兵士たちが、次々に喰われ、溶かされ、引きちぎられた。その猛威は、荒ぶるカガチでさえ比ではなかった。
カイがその場で腰を抜かしたようになった。「ば、化け物……」
全軍を瞬く間に壊滅に追いやったそれは、複数の大蛇の鎌首を次なる獲物に向けた。ヨサミはやや海に近い場所にいた。思わず後ずさる。
「ヨサミ!」アナトが叫んだ。「こっちへ!」
かつての確執など、この際、問題ではなかった。
その化け物は急速に彼らのほうへ近寄って来ていた。
ヨサミが駆け寄って来るのと反対に、スサノヲは剣を手に前へ出た。
「だめ! いけません、スサノヲ!」クシナーダが叫んだ。
その声を振り切るようにスサノヲは走り出し、ヨサミとすれ違った。窮迫する化け物とはまだ距離があったが、フツノミタマの剣を大きく振るった。
剣は白金色に輝いた。それはかつてのその剣とももはや異なり、シキを通じることで強い浄化の〝力〟を得ていた。
剣の波動が霊的なオーラとなり、化け物を打ち据えた。
キャーンともヒャーンともつかぬ、金属的な悲鳴のようなものを上げ、化け物はにじり寄って来るのを止めた。
「今のうちに逃げろ!」スサノヲは背後に向かって叫んだ。何度も。「早く!」
ヨサミは、カガチをアカルから引き離した。彼は五体がろくに動かなかった。ヨサミが彼に肩を貸そうとしていると、イタケルとニギヒが左右からカガチを支えた。
「スサノヲ! あなたも早く!」
クシナーダと他の巫女たちは、皆、勾玉を手に掲げていた。
その光は、半ば闇の世界と化した中で、ひときわ強く輝き、化け物と瘴気の侵入をとどめていた。スサノヲは二度三度と剣をふるい、大蛇の首の一体に傷を負わせた。
キャ――――ン!
ひるんだ隙を見て、彼は踵を返した。
巨大な魔物に追いかけられ、逃げ惑う悪夢――。
誰もがそのような錯覚を抱いた。そのような恐怖は、本来は夢の中にしか存在しえないものだった。が、彼らが味わったのは、この現実の世界の中でのことだった。
途中まで追いすがってきた大蛇の化け物は、スサノヲの幾度かの反撃を受け、かろうじてその鳴りを潜めたが、ひと山を越え、斐伊川のほとりに出たときには、誰もが息も絶え絶えになっていた。すでに日も暮れているはずの時刻だが、日隠れ以来、ずっと夜が続いているように思われた。
川の水を飲み、わずかばかりの休息を得た彼らの間で、ようやく言葉を交わす余裕が生まれた。この瞬間に至るまで、誰もが生きた心地がしていなかったのだ。
「大丈夫ですか、エステル様」クシナーダが、カナンの集まりの中にやって来て声をかけた。
「ああ、なんとか――」エステルはモルデの持ってきた水を飲み、荒い息を整えて言った。
「……あれはいったい、何なんだ」カイが呆然と、魂が抜けたように言った。「あ……頭が八つもある化け物のような大蛇だった」
姿を思い出すだけで、彼は震えていた。
「ヨモツヒサメがモノとなった怪物です。いわば、ヤマタノオロチ……」
「ヤマタノオロチ……」
「ヨモツヒサメはヨミの世界に存在する、人の澱が凝り固まったものです。本来、それはモノではなく、精神的存在なのです。意識、情報――そんなふうに言ってもよいでしょう。ですが、そうした意識の力も、ある限度を超えてしまうと、モノと化すのです。あれはあの戦場に満ちていた欲望や憎しみ、絶望や悲しみを集め、人の悪しきものがそのまま形となった姿です」
「人の欲望や憎しみ……」エステルは苦々しい表情だった。
火が熾された。身体を休め、暖を取るために、数カ所で焚火が燃やされた。ワの民が、巫女たちが、カナンの民たちが、そしてカガチらも――。
カーラだけがその場にいなかったのだが、彼もやがて姿を見せた。
「カーラ、どこへ行っていたの」アナトがほっとしたように尋ねた。
「近くの里へ食料を分けてもらいに行っておりました。わずかですが――」
彼は背負っていた籠を下ろした。これには誰もが喜んだ。食事が作られ、それが分けられた。カガチとヨサミのところへも。
持って行ったのはイタケルだった。「食えよ」と、ぶっきらぼうに告げる。しかし、二人はそれに手をつけなかった。それを見て、立ち去ろうとする彼を、カガチが呼び止めた。
「なぜ俺を助けた」
イタケルはわずかに振り返った。
「アシナヅチや、これまでトリカミの巫女を殺し続けてきたのは俺だ。なぜ助けた」
「――うるせえな。たまたまだよ。たまたま。勢いっていうか」そう言い、イタケルはわざとらしく舌打ちした。「てめえのこと、ぶっ殺してやろうと思ってたのに……。助けちまったら……ああ、なんか、殺せなくなっちまった」
イタケルは立ち去った。カガチは膝の間に頭を落とすような格好で、動かなかった。そのそばでヨサミは、じっと遠目に見つめている存在があった。
エステルだった。
あるとき、とうとう思い余ったようにヨサミは立ち上がった。エステルたちのそばへ行くと、座って食事をとっていたエステルを見下ろした。むろん彼女がやって来るのに、エステルのほうでも気づいていた。
「なぜ、あんたがこんなところにいるの」冷ややかという以上の鋭さが、ヨサミの声音と視線にはあった。
エステルは腰を上げた。向き合うと、エステルのほうがやや目線が上になった。
その顔にヨサミの平手が飛んだ。乾いた空気の中、それはひどく響いた。
気色ばんだのはカナンの者たちだった。「よい!」と、エステルが叫ばなければ、彼らはヨサミを取り押さえたに違いなかった。だが、そんなことには一切お構いなしに、ヨサミは二度、三度とエステルを打ち据えた。四度目には拳になった。
エステルは口を切り、鼻血を流した。
「エステル様!」
「自分たちが何をしたか思い出せ!」エステルはモルデたちにそう言い、ヨサミと対峙し続けた。
ヨサミの行動はますますエスカレートし、歯止めが利かなくなっていった。眼が吊り上り、一撃一撃に憎しみを込め、喚きながらエステルを打った。
「おまえなんかッ! おまえなんか、わたしがッ! わたしが殺してやる!」
「ヨサミ……」
アナトが、そしてキビの巫女たちが彼女の元へ行こうと動き出した。
が、その前にヨサミの手は宙に挙げられたまま止まっていた。
二人の間にスクナが割って入っていた。
「お願い……。もうやめて」スクナの眼が、ヨサミを見上げていた。「この人は、赤ちゃんがいるの。だから今は、やめてあげて」
ヨサミは動揺したように眼をエステルの腹部へ、そして顔へ、また懇願するスクナのほうへ戻した。挙げた手が下せぬまま震えた。そのまま宙で指を揉みしだくように動かし、自分の目の前に持って行った。その手は血で汚れていた。
ヨサミの脳裏に、トリカミの里で目の当たりにした惨劇がよみがえってきた。罪もない里人が殺されゆくさまが。
みずからの手が、ヨサミに囁いた。お前の手も、すでにもっともっと血で汚れている。
う……と呻きを漏らした。「こんな……こんなところで……卑怯者!! お前も戦え!」
投げつけるようにエステルに叫ぶ。
「わたしと殺し合え! そうしたら、わたしがお前を殺してやるのに……卑怯者……」
ヨサミは震えていた。泣きながら震えていた。膝を折り、両手を大地についた。しばらくそのままでいた彼女は、やがて堪えきえなくなったように唐突に叫んだ。泣きながら。子供のように。
「アナト! アナトォ!」
キビの巫女たちが弾かれるように走り出した。そして、ヨサミの元へ殺到し、四方から抱きしめた。
「アナト……わたし……わたし……」
「いいのよ、もう。いいのよ、ヨサミ」
キビの巫女たちは、また一つになった。
「あのような化け物を、どうにかできるか。その……〝黄泉返し〟とかいうもので」顔を腫らしたエステルが尋ねた。
食事を終えた彼らは、焚火の一つの周囲を取り囲んだ。
「いえ、エステル様。もう〝黄泉返し〟は難しいかもしれません」と、アナトが言った。「巫女が八人必要なのですが、アカル様を欠いた今、数が足りません」
「クシナーダ様」シキが言った。「胆力のない巫女ではできない業だと申されておりましたこと、今ようやくわかりました。アカル様の時でさえ、わたしたちは心を乱してしまいました。そのためにアカル様を……ふがいない……」シキは自らを責めるように頭を振った。
「それはわたくしも同じでございます」クシナーダも沈痛な面持ちだった。そして焚火越しに、エステルのことを見つめた。
それを横で見て、ナオヒが言った。「もしかすると数は足りておるのではないか」
「え?」巫女たちは驚いた。
「エステルに教えておったろう。天の御柱の舞を……」
「ナオヒ様にはお見通しですね」うっすらとクシナーダは微笑したが、それは悲しげにさえ見えた。
「あ……佐草で」アナトは思い当たったように言った。
「エステル様、舞をお願いできますか」クシナーダはエステルを見つめた。
「わたしのできることなら、なんでもすると約束した。やれというのなら、やる」
「で、でも、クシナーダ様。エステル様は巫女としては……」ナツソが疑念を呈した。
「はい。エステル様には巫女としての素養はまったくありません。そのような生き方もなさっていません」クシナーダははっきりと断じた。「ですが、今だけ、エステル様は巫女として働くことができるかもしれないのです」
「なぜ?」
あっとイズミが声を上げた。「もしかして……腹のお子が?」
クシナーダはうなずいた。「エステル様のお腹の子は、大変に強い〝力〟を持っています。男の子ですが、この子の〝力〟が母体を媒体にして巫女として働いてくれるように思うのです。あくまでも可能性ですが」
「クシナーダ様、〝黄泉返し〟で使うのは天の御柱の舞なのですか」アナトが尋ねた。「あのような初歩的な舞で、〝黄泉返し〟が行えるのでしょうか」
「もっとも基礎的なものにこそ大きな意味があるのです。皆さんはトリカミの里をご覧になったでしょう。トリカミの里はこのように――」クシナーダは小枝を拾い、地面に図を描いた。「東西南北の四方とその中間に磐座となる石を八つ配置し、里の中央には御柱を立てております。これがトリカミを聖域化する仕組みでもあるのですが、この〝黄泉返し〟では中央の柱にスサノヲがなります」
クシナーダの視線を受け、スサノヲは頷いた。
「そしてわたくしたち巫女は、この場合、それぞれの磐座となります。この時の舞は、かならず天の御柱の舞でなければならないのです」
「わたしたちが磐座に……」ナツソが畏れ多いというように周囲を見まわした。
「大丈夫です。すでに皆さんはもう、アカル様の時に同じことをやりました。今度はそれを踊りで行うのです」
「それはつまり、あの化け物を中心に呼び込まねばならないということでもあるな」スサノヲが言った。
「そうなります」
「なにか方策は?」
「ヤマタノオロチと化していようとなんであろうと、あれの本性はヨモツヒサメです。ヨモツヒサメが好むものを見せれば引きつけることができるでしょう」
「憎しみや悲しみ……」
「恐怖?」と、スクナが言った。
「それ、いけるかもな」イタケルが乗ってきた。「あの化け物を見て怖がらないやつはいない。要は怖がって、あいつから逃げてくればいいんじゃねえか」
「危険な役回りだが」と、スサノヲが言った。
「なら、我らにやらせてほしい」モルデが言った。「うまくひきつけて見せる」
他の者は顔を見合わせたが、承諾するしかなかった。
「エステル様、今夜のうちに天の御柱の舞を、他のカナンの方々にもお教えしてくださいますか」
クシナーダの申し出に、エステルは戸惑った。
「あ、ああ。それはかまわないが、男たちにもか」
「踊り手は一人でも多いほうが良いのです。もともとそのためにお教えしたのです」
「わかった。モルデ、カイ――」
エステルの促しを受け、二人の男は彼女と共にその場を離れた。カナンの民たちが集まっている焚火のほうへ戻っていく。
「あとは鳴り物ですが、ナツソ様にも踊っていただかなければなりません」
「それなら俺が――」と、オシヲが言った。「天の御柱の舞の調べなら、いつも吹いていたし、それにこの間作った歌だって、ずいぶん聞かされたから吹けるよ」
「ミツハもきっと喜びます」クシナーダが笑顔になった。
ナツソからオシヲへ、ミツハの笛が戻された。
それを見守りながら、「ニギヒ様」とクシナーダは呼びかけた。「皆様も天の御柱の舞を、アナト様たちから教わっておいて頂けますか」
「承知しました」
「このようなことに巻き込んでしまい、本当に申し訳ありません」
「何をおっしゃいますか。ご案じなさいませんよう」
「こやつを巻き込んだのはわしじゃよ」ナオヒは、ひゃひゃと笑った。
各自の為すべきことが分担され、自然と散開するような空気ができた。ヨサミはその場にずっと、アナトに肩を抱かれるようにして居合わせていた。一言も発さず。
だが、その場を離れかけ、彼女はクシナーダの元へ戻ってきた。そしてその前で手をついた。
「クシナーダ様、これまでのこと、お詫び申し上げます。とても許していただけるようなことではございませんが、本当に申し訳ありませんでした」頭を下げ、そして続けざまに言った。「ですが、クシナーダ様。わたしは自信がございません。〝黄泉返し〟なる業を、わたしなどがとうてい担えるとは思えません。わたしはもう巫女としての力も資格も、何もかも投げ捨ててしまった者です」
「エステル様と同じようなことをおっしゃられるのですね」
「え?」ヨサミは顔を上げた。
「でも、エステル様はあなたとは違います。自分のできることならなんでもする。あの方はそうおっしゃいましたよ。あの方にはお覚悟があります」
ヨサミはカナンの民のほうを見た。
「人は過ちを犯します。それは、わたくしも同じです。でも、道を一度踏み外したからと言って、道に戻れぬわけではありません」クシナーダは優しく告げた。「可能性を見せてください」
「ごめんなさい、クシナーダ様。わたしは……」表情を歪めながらヨサミは言った。「あの者たちを、どうしても許すことができないのです。あの者たちと心を一つにすることなど、絶対にできません。そうすべきだとわかっていても、どうしてもできないのです」
泣きながらヨサミは顔を伏せた。
「考えるのをおやめなさい。頭であれこれ考えず、ただわたしたちは自分のできることを一人一人為せばよいのです」
「できること……」
「許せないのなら、それでも良いのです。でも今のわたくしたちにできるのは、ただ歌い、踊ることだけです。それしかないではないですか。違いますか」
「はい……」
「だから、何も考えず、今はただ為すべきこと為しましょう」
「はい……」
涙をこぼしながら、ヨサミはアナトに支えられ、その場を離れた。
そのとき、ヨサミはカナンの者たちに天の御柱の舞の振りを教えているエステルを見た。
唯一の神を信奉するカナンの者にとって、それは邪教の業に違いないというのに――。
「アナト……」
「なあに、ヨサミ」
「力及ばなかったらごめんね。でも、わたし、やる」
肩を抱くアナトの手が、強く抱きしめてきた。
彼女らを見送ってから、スサノヲはクシナーダのそばに来て腰を下ろした。その様子を見て、イタケルやオシヲ、スクナもその場を離れた。ぼーっとしていたが、ナオヒもあらためて気づいたように、その場をそそくさと離れて行った。にたにた笑いながら。
二人だけが残った。
「俺の役目は、カガチの時と同じと考えてよいか。ヤマタノオロチの動きを封じる……」
「はい……」
「承知した」
沈黙が流れ、焚火の爆ぜる音だけが響いた。いつかと同じように。
トリカミの里に初めて来たときと同じように、スサノヲはクシナーダの横顔を見つめていた。と、ふいにクシナーダが両手の中に自分の顔を隠した。
「どうした?」
クシナーダの背が震えていた。
「どうした、クシナーダ」
「怖いのです……」両手の指が開かれたが、その指も震えていた。
スサノヲは彼女の震える手をつかんだ。
「お願いです、スサノヲ……」見返すクシナーダの双眸は凍り付くようだった。「絶対に死なないでください。わたくしはあなたに会うためだけに生きてきました。姉や両親や、多くの里の巫女たちを見送り、今もイスズ様やアカル様や、アシナヅチ様やミツハも……わたくしはいつもいつも見送り続けてきました」
クシナーダは本当に、心の底から恐怖していた。その怖れが、瞳の中にありありと見えた。
「愛する者を見送りながら、わたくしはあなたに出会い、共に生きることだけを願って生きてきました。ずるい女です。わたくしには、あなたしかいないのです。お願い……」
クシナーダは彼の衣を両手でつかみ、必死に懇願してきた。
「死なないで……。これ以上、わたくしを独りにしないでください」
「わかった。約束する」
「本当ですか……」
「ああ」
「あの瘴気を浴びたら、あなたでさえ無事では済みません。必ず避けてください」
「ああ」
「いかにその剣が強くても侮らないでください。剣ではヨモツヒサメを完全に浄化することはできません」
「ああ、わかっている」
「それから……それから……」
クシナーダはそれ以上、喋れなくなった。スサノヲがその口を塞いでしまったからだった。二人の姿は焚火の明かりの中で、一つの影となって揺らめいていた。
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