ヤオヨロズ29 第8章の4と5 |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

 夜が明けても、空は明るくはならなかった。まだ日蝕がそのままの状態にとどめ置かれているかのようだった。
 曇天の下、あたりはまるで白夜か薄暮の時のような情景であり、それは決してただの曇り空のせいではなかった。
 誰もが異常を感じ取っていた。つい昨日まで迎えていた当たり前の日常ではなく、何か世界全体の空気が大きく切り替わってしまったと感じさせるものだった。
 このままであれば、この世は滅ぶ……。それは突き刺さってくるような嫌な予感だった。

 クシナーダは斐伊川の近くにある小さな平野を、その場所にと定めた。そこには空から見れば豆粒のような杜(もり)がぽつんとあり、そこをスサノヲのあるべき御柱とした。そしてエステルを含む巫女たちを、その周囲に十分な距離を取って、八方に配置した。その周囲にはニギヒの配下たちを共に守りとして置いたが、カガチの時と異なり、人の護衛などまったく意味をなさぬは明らかだった。
 風もなく、静かな朝だった。
 まるで生物がこの世からいなくなってしまったのではないかと思えるほど。
 カガチはその静けさを、近くの小屋の中で感じていた。臥所に横たわる彼は、まだろくに身体を動かせない状態だった。全身の組織や細胞が作り変えられたというだけではない。彼の裡から抜け出て行った悪霊の如き力は、彼の生命力そのものも根こそぎ奪い取って行ったかのようだった。
 そばにヨサミがいた。彼女はずっと付き添っていた。一睡もすることなく。
 小屋の戸板が叩かれた。
「ヨサミ、そろそろよ」
 アナトの声だった。
 ヨサミは音もなく立ち上がると、何も言わず、ただカガチの胸の上に置かれた手に自分の手を重ねた。そして小屋を出て行った。
 すべてがなくなってしまった――。
 ヨサミのいなくなった空間で、カガチはそれを感じていた。根っこにあったものがなくなってしまい、自分が空っぽになってしまっている。かつての怨讐も、今や彼を駆り立てるものにはなり得なかった。その記憶はあるのに、何か実感を伴わず、乾ききっているのだ。
 すべてがなくなったのは、あいつも同じだ――と、カガチは想った。ヨサミもまたかつてのカヤの巫女であった時、そしてその後、カナンへの復讐を心に誓っていた時の、そのすべてを失っている。
 いや、そうではない。ヨサミにはまだ、心を通わせる存在がいた。
 カガチにはもはやそれさえなかった。
 生きる価値もない。
 そう思えたが、では死ねるのかと言えば、その気力さえ湧かないのだ。
 やがて鳴動が聞こえた。キャーンという、あのおぞましい耳障りな叫びが聞こえ、化け物があたりの山々を揺るがせて突き進んでいるのがわかった。
 このまま、ここですべてが滅びれば楽かもしれない。
 カガチはそう考え、動かない身体を起こした。
 戸口まで出るのに、異様な時間がかかった。こじ開けた隙間に彼が視たのは、ヤマタノオロチの巨体が杜に向かって突き進んでいく姿だった。

「頼むぜ」イタケルはそう言って、朱の領布を差し出した。
 スサノヲはそれを受け取り、首に回すのではなく、頭部に縛った。
「おお、それもいいじゃねえか」
「早く避難しろ」
「スサノヲ――」
「なんだ」
「おめえはすげー奴だ。いや、おめえとクシナーダがすげえよ」
 スサノヲは首をひねった。
「俺はな、アワジから頼まれてるんだ。クシナーダを泣かすな。もし泣かしたら、ヨミの国まで行って、ぶちのめしてやるからな」
「イタケル……」
「覚えとけよ」
 イタケルは駆け出し、杜から離れた。その杜に向かって、モルデたちが走って来るのが見えた。そして、その背後には山を越えてきたヤマタノオロチが迫って来ていた。
 あたりに瘴気をまき散らし、それが通過した周囲は、木々がみるみる枯れ、緑色の山は灰色か茶色に変わっていた。
 モルデたちが駆け抜けて行った。
「スサノヲ様――!」
「お頼みします――!」
 彼らは口々に、最後の望みを託して行った。
 スサノヲが背後にしている杜を呑み込むほど、ヤマタノオロチは巨大だった。
 キャ―――――ン!
 焼けただれたような胴体を見せ、八つのオロチの鎌首がもたげられた。その瞬時にスサノヲは飛び出した。フツノミタマの剣を、そのただれた胴体に突き刺し、裂く。
 キャ―――――ン!
 頭が割れるような叫びだった。オロチの首が次々にスサノヲを狙って食らいつこうと迫ってくる。

 笛が鳴った。
 高らかな笛のヒビキがあたりを貫き、それぞれの場所で身を隠していた巫女たちは姿を現した。皆、その胸に勾玉を下げ。
 先頭を切って、クシナーダの歌声が響いた。
 どんな絶望にうちひしがれても
 アナトが追いかけて歌う。
 どんなに濃い闇がたちふさがっても
 二人が声を合わせた。
 心の奥底 消えない火がある

 ヨサミが
 たとえひと時 憎しみ合っても
 エステルが
 たとえひと時 わかり得ずとも
 二人が声を合わせた。
 いつもどこかに信じたい想いある

 ヨサミはクシナーダに言われるまま、もはや心を空っぽにして動いていた。エステルとヒビキを合わせた瞬間だった。ヨサミの心の奥底で、重く閉ざされていたものが開き、動いた。
 そして彼女たちに続いて、すべての巫女たちが、そしてそれを取り巻く人々がヒビキを乗せてきた。
 そうすることで、さらにその閉ざされていたものは大きく開きはじめた。

 さあ、心の岩戸開いて
 呼び出そう
 本当の自分
 本当の気持ち

 さあ、心の岩戸開いて
 手を伸ばそう
 世界に向かって
 愛する人に


 その歌声のヒビキに包まれ、笛を吹くオシヲは、ミツハがかつてなく身近に存在するのを感じた。生きてそばにいたときよりも、ずっとずっと彼女はオシヲと一つだった。明るく無邪気な彼女の魂が、光となってすぐそこに在るのを感じた。彼女は今、オシヲに重なり合うようにして笛を吹いている。
 ――オシヲ、わたし、嬉しい。オシヲがわたしの大好きなオシヲでいてくれて。
 声が聞こえた。滂沱と涙が溢れ、オシヲは何も見えなくなりながら、笛を奏で続けた。

 さあ、心の岩戸開いて
 呼び出そう
 本当の自分
 本当の気持ち

 さあ、心の岩戸開いて
 手を伸ばそう
 世界に向かって
 愛する人に

 手を取り合って


 歌が終わるのと共に、わーっという喚声が湧きおこり、周囲に広がった。カーラが先導し、大勢の民が杜の周囲に押し寄せていた。
「クシナーダ様!」
「スサノヲ様!」
 口々に叫ぶ彼らは、トリカミの里人たちだった。いや、そればかりではなかった。里人が手厚く面倒を見た、オロチ軍の傷病者たちも、動ける者は一緒になってそこへ来ていた。
 小屋を出たカガチは、その人々の異様な光景を眺めていた。彼らは怒涛のような流れとなって、みるみる杜の周囲を取り巻いた。
「わたしたちも!」
「いつものやつですよね!」
「一緒に踊りますよ!」
 彼らはヤマタノオロチという怪物を目の当たりにし、もちろん恐怖を覚えたようだった。だが、その逡巡した彼らの心を鼓舞したのは、巫女たちの歌声とスサノヲだった。怪物に近いところで怖じることもなく歌を捧げる彼女たちの姿。大蛇の化け物と戦い続けるスサノヲ。
 人々は心を動かされた。

 ア――――。
 クシナーダが浄化のヒビキを送り始めた。
 ア――――。
 少しずつ音階を変え、アナトが、ヨサミが、シキが、ナツソが、イズミが、ナオヒが、そしてエステルがヒビキを重ね合わせ、織り合せて行った。
 彼女たちの胸の勾玉が燦然と輝きを放ち、それぞれの場所から杜を中心とする一帯をドーム型に包み込んだ。
 ヤマタノオロチは巫女たちを認識した。そして猛然と、まずクシナーダへ襲い掛かろうとした。スサノヲはそれを察知して回り込み、クシナーダへ向かって伸びて行く大蛇の首に光の太刀を振り下ろした。
 首は切断された。
 キャ――――ン!!
 巫女たちの調和のヒビキがかき乱されるほど荒々しくおぞましい叫びを上げ、のたうちまわった。斬りおとされた首から、真っ黒な霧のようなものが立ち昇る。
 もう一つの大蛇の首が大口を開け、瘴気を吐き出した。スサノヲはそれが直接巫女に襲い掛かるのをふせぐため、フツノミタマの剣に浄化の〝気〟を集め、それを送り出してぶつけることで祓った。
 怒り狂った大蛇は、スサノヲを呑み込もうと向かってくる。
 上段から渾身の〝気〟を込めて振り下ろしたその太刀が、オロチの頭を正面から断ち割って、その付け根まで引き裂いた。
 またあの金属的な叫びを上げ、オロチが苦悶する。
「これで二つ」
 スサノヲはさらに攻撃を加えようとして、胸に異様な苦しさを感じた。喉がつまり、咳き込む。血の塊が吐き出された。
 祓いつづけてはいたが、ヤマタノオロチの瘴気はじわじわと彼の肉体そのものを蝕んでいたのだ。
 左右から大蛇の首が襲い掛かり、スサノヲは跳躍し、それを避けようとした。が、すでに思うほどの力もスピードもなく、彼の右太腿に一体の牙が食い込んだ。
「!」
 スサノヲは叫んだ。痛いとか熱いとかいう以上の、そのまま脚がもげて落ちるような心地がした。剣を大蛇の頭に突き立てる。
 フツノミタマの浄化の〝力〟が、そのオロチの頭部を焼き、死滅させた。
 しかし、残る大蛇の牙が肩に、そして腕に噛みついてくる。
 スサノヲは絶叫した。全身が痺れ、意識が真っ暗になっていく。大蛇の牙には人を簡単に殺傷する禍々しい毒のようなものがあった。
 ア――――。
 巫女たちが捧げる調和のヒビキ。それが遠のく彼の意識を引き戻した。
 そして全身に回る毒を中和した。彼は吠えた。まるで自身が竜巻と化したようだった。荒々しく舞いながら、彼はまとわりつく大蛇の首をずたずたに切り裂いた。



 浄化のヒビキを送ったのち、巫女たちは両手を上方へ捧げるような姿勢で止まっていた。
 オシヲの笛からあらたな調べが送り出されてくる。クシナーダは閉じていた目を開いた。
 ――さあ、皆さん、参りましょう。
 クシナーダの思念が広がった。そして彼女は祈りのような、祝詞のような歌を口ずさんだ。そして巫女たちはいっせいにゆるやかな舞を踊り始めた。

 風の神 山の神 川の神 火の神
 海の神 星の神 ヤオヨロズ すべてと
 太陽と月の下

 尽きることない暖かな光
 すべてを潤す恵みの雨
 この天地に生まれた命よ
 ヤオヨロズ 集い来て さきさいたまえ


 彼女たちの舞に合わせ、取り囲む人々が同じ舞を演じはじめていた。それは中央で演じられている、荒々しく激しい死闘とはまったく位相を逆にしたものだった。
 だが、その周囲が作り出す穏やかで調和的なヒビキが、スサノヲを支え、そしてヤマタノオロチの禍々しさを封じ込めようとしていた。
 それは誰にでもできる簡単な舞だった。しかし、それはその場に大きな変化が生み出さしめていた。
 その変化は意外にも、エステルを真っ先に打った。
 クシナーダから伝授された舞は、今や無意識にさえ踊れるほどだった。もともと体を動かすのが得意なエステルには、むしろ静かすぎる舞。
 その静かな動きを同じくする人。人。人。
 その所作がシンクロをすることで、意識がいつの間にかシンクロしていく。通じて行く。
 そして人とつながれることで、いきなりエステルの意識と視野が広がった。見えてくる風景。そしていつの時代かの体験。
 はたと彼女は悟っていた。
 わたしはこれを知っている――。
 みなと共有して舞う、この体験を彼女は知っていた。
 いつの時代にか、エステルはこの舞をこの地で舞ったことがあると、明確に思い出したのだ。その時の情景がありありと見える。今よりもさらに古代のどこか……エステルはその時代にこの地に生まれ、そして当たり前のように舞っていた。多くの仲間がいた。その人々はもちろんエステルにとっては見知らぬ人たちばかりである。そのはずなのだが、しかし、皆、知っている者ばかりだった。モルデ、カイ、シモン、ヤイルもまたその中にはいた。なぜかそうだとわかるのである。
 ――そなたらは還るさだめ……。
 メトシェラの言葉が脳裏をよぎり、今本当の意味で胸に落ちてきた。
 魂は生まれ変わるのだ!
 それはエステルのそれまでの観念を粉々に打ち砕くほど、強烈な認識だった。
 エステルはカナンの民としての存在だけではない。この地上に幾多の人生をすでに刻み、まるで違った宗教や風習の暮らしを、数え切れぬほど積み重ねてきていた。カナンのエステルは、その中のたったひと粒に過ぎなかった。
 なんということだ。なんという……。
 その真実の前には、カナンが神に選ばれた唯一の民だとか、そのような思い込みは、まったく無意味だった。それは失望どころか、エステルに笑いの衝動を起こさせた。
 ハッ……なんだ、これは。なんで、こんなことがわかる。いや、なんでわからなかったのか。わたしはなんという……。これでいいのではないか! 皆、あるがままで! ハッ……アハ……アハハハハハ!
 エステルは踊りながら、心の中で笑っていた。

 ヨサミは、まったく違った光を感じていた。
 舞の中に立ち現われてきたのは、亡くなった母だった。巫女としてカヤを導いてきた母。そしてこの舞を幼かったヨサミに教えてくれた人だった。彼女は今、ヨサミのそばで一緒に舞っていた。そしてさらに、その母の隣に重なり合って、父の光があった。
 ――ヨサミ。
 声がする。
「お父様……お母様……」
 ――よく頑張ったね。
 二人から暖かいいたわりが感じられた。
「ごめんなさい、お父様、お母様」
 いいんだよ、と彼らは伝えてきた。それどころか、今までのヨサミのすべてを許していた。そしてこの場にエステルがいて、カナンの民がいることを、彼らが喜んでいた。
「これでいいの……?」
 これで良い――そう伝える二人の背後から、さらに眩い光が現れてきた。
 アカル様だ、とヨサミは感じた。
 ――あなたに託します。ヒボコのこと……カガチのこと、お願いいたします。わたしの〝力〟をあなたにお預けいたします。
 アカル様! とヨサミは心の中で呼びかけた。わたしはあなたに嫉妬していました。あなたはあまりにも眩しかった。それにわかっていました。あなたがなにゆえにか、カガチを愛していることを。
 ――あなたもカガチを素直に愛してください。
 アカル様!

 その同じ光は、カガチにも見えていた。
 彼は大勢が輪となって舞うその現場を見下ろす丘にいた。樹木に寄りかかって、かろうじて身体を支え、その場に膨れ上がる光とヒビキを感じていた。それはますます強くなり、彼の視野を覆い尽くしてくるように思えた。
 ――カガチ。
 二つの光が並んでいた。そして、その中に良く似た面差しの女が二人。
 アカルと、そしてもう一人は彼の実母であった。
 その二つの光に彼は抱きしめられた。
 彼はその場に崩れ落ちた。幸福感という酒に酔い――。


「あと一つ……」
 スサノヲの前に大蛇の首が一つだけ対峙していた。その恐ろしい眼の中に、スサノヲはあのヨモツヒサメの存在を感じていた。


 赤は赤 青は青 白は白 黒は黒
 空は空 海は海 風は風 人は人
 太陽と月の下

 愛を形に咲き誇る花
 愛を届けて飛び交う虫
 この天地に回る命よ
 ヤオヨロズ 結び合い イワイたまえ


 クシナーダの歌声は祈りとなり、空に澄み渡るように響いた。
 ヒビキは踊りと一体となり、その場を満たした。
 その中でクシナーダは視ていた。

 はるかな太古、始源の時よりこの地球という星に生み出された生命の数々。
 人類という種。
 その膨大な歴史と、人が積み上げてきた体験。
 文明の盛衰。
 時のリセット。
 その中でつながる、命という螺旋。
 回る。
 回る。
 命が回る。
 そしてクシナーダも回る。
 巫女たちも回る。
 民たちも回る。
 彼らが一人一人体験し、接している無数の情報。それがクシナーダの中に流れ込んできた。そこから、クシナーダはどこへでも、いつの時でも、今すぐに飛び渡っていくことができた。いつの時代も、どの世界も、今ここで身体と心を通じて共有することができる。
 一体となることができる。
 人は皆、地球の子――。
 命はつながり。
 命は回る。
 それは喜びの現れ。
 


 スサノヲは裂帛の気を放った。
 急迫する大蛇の首が粉々になり、霧散した。
 そこには濃厚な闇の気配が残された。
 あのヨモツヒサメの元の意識だけが漂っていた。そこへスサノヲはフツノミタマの剣を突き入れた。以前とは異なり、浄化の力を帯びた剣は、ヨモツヒサメの芯を完全に捉えた。
 剣に貫かれ、身動きも霧散もできず、釘づけにされたヨモツヒサメは苦悶した。が、逃げられぬと悟ると、その闇の顔で笑った。
 ――オマエハ人柱トナル。黄泉ヘ連レテ行ク。
 闇の人型は、愛おしげにスサノヲの顔を撫でた。
「上等だ。貴様らを道連れにできるのなら」


 ――クシナーダ。
 懐かしい声が聞こえた。
「お姉様……」
 カガチに殺められ、ヨミへ旅立ったアワジだった。そして姉巫女に重なり合うようにして、これまでクシナーダを守ってきた他の年上の巫女たちの意識が現れた。
 彼女たちは天女さながらに宙を舞い、暖かい賛美の想いを寄せてきた。よくやったね、頑張ったね、と。
 ――良い子、良い子。おまえは良い子だ。
 さらに大きなヒビキが愛となってクシナーダに降りてきた。
 ウズメ様だ、と感じた。過去、どのような神事や、どのような舞の時にも感じたことのないような、全面的な一体感が生じた。愛と喜びが、クシナーダの身体の隅々、指先やすべての毛先にまで溢れるほどに広がり、その波動は彼女を通じて波及し、舞い踊る巫女たちすべてに伝播した。そして彼女らは、クシナーダが視ているものの片鱗を共有した。
 そしてまた声が聞こえた。
 ――時が至ったぞ! 皆、目覚められよ!
 天より大きなヒビキだった。サルタヒコ様の声だと感じるクシナーダの認識は、そのまま他の巫女たちのものとなった。

 空が震えた。山野も震えた。

 直後、見渡す限りの天地(あめつち)から、荘厳な光が湧き立ち、ありとあらゆる神々と精霊がはじけ飛ぶように生まれ出でるのを巫女たちは感じた。
 それらが光の渦となって、まるで星雲のように回った。ぐるぐるぐるぐる。
 大きな力がその中心に注ぎ込まれていった。

 この天地を満たす命よ
 ヤオヨロズ 共に在り 歌いたまえ

 ヤオヨロズ ヒビキあい わらいたまえ


 クシナーダの歌声の終わりと共に、静寂が訪れた。
 巫女たちは向き合い、中央の上空へ両手を捧げていた。そして取り巻く大勢の人々も。

 轟いた。
 まるで巨人が腹の底から発する空が割れるほどの哄笑が誰の耳にも聞こえた。
 わっはっはという、ものすごい轟きの笑い声に続き、いっせいに無数の笑い声が湧きあがった。子供の笑い声。女の笑い声。老人の笑い声。赤ん坊の笑い声。
 それは長く続いた。
 そして鎮まった。

「天の岩戸が……」アナトが。
「開く……」シキが。

 見上げる上空の闇が切れた。
 そして扉が開かれるように、そこから眩い光が差しこんできた。

「日が戻った……」イタケルが。
 その光は地上を照らしたかと思うや、まるで生き物のようにうねった。光り輝く竜のようだった。それは躍動し、クシナーダの捧げた手へと集まった。
 眩しい光の塊は、彼女の手の中で鏡となった。
 それを掲げると、天を割った光が鏡を通じ、その場をまるで焼き尽くすように照らした。スサノヲとヨモツヒサメが対峙する、その場所を。
 まだ浄化されぬままその場にとどまっていたヨモツヒサメが悲鳴を上げた。
 それはこの世の中に存在する、ありとあらゆる怨念的な喚き声を集めた断末魔の悲鳴だった。
 彼らの足元に、黄泉の口が開いた。真っ黒な淵のようなものの上にスサノヲは背を見せて立っていた。ヨモツヒサメを剣で貫いたまま。
 
 その時、エステルはお腹に異常を感じた。痛みと共に、生暖かいものが腿を伝うのを感じた。あっと叫び、エステルは両手でお腹を押さえた。だが、直感的に知らされるものがあった。
 今の彼女には視えていた。
 光の珠が彼女の腹部を抜け出てきた。その光の中に、小さな胎児が勾玉のように見えた。
「あ――。待って!」
 光の珠は彼女を慰めるように、目の前でくるくると回った。
「待って……わたしの……」
 すうっと離れていく光の珠。ここまで彼女を支え、役目を終えて去っていくのだとわかった。それは加速して、クシナーダが照らす場所へ向かい、そしてスサノヲの足元に開いたヨミへ通じる淵へと飛び込んで行った。
 するとそれに引っ張られるように、ヨモツヒサメがその淵へと吸い込まれていった。

 闇の淵は消えた。
 そして空はみるみる雲が割れ、明るい日差しに満たされた。

「やった……」呆然とイタケルが呟いた。
「やった……」スクナも、そしてオシヲも似たように呟いた。
 そのざわめきは群衆の中へ広がって行った。
「やった!」叫びが上がる。歓喜の叫びが。
 歓喜が広がっていく。小躍りして喜ぶ者。抱き合う者。

 ヨサミはアナトの元へと駆けていた。一度、途中で転んだ。それでもすぐに起き上がり、向こうからやって来るアナトとぶつかるように抱き合った。
 二人とも涙でぐしゃぐしゃだった。
 そこへシキとナツソ、イズミも飛びついて行く。

「エステル様……?」モルデは彼女のそばにしゃがみこんだ。
 まだ自らのお腹を抱いたままエステルは泣いていた。悲しいのと、寂しいのと、それでもこの歓喜の中での共有と……そのすべての涙だった。

「ナオヒ様、やりましたな」
 ニギヒがかける言葉が耳に届かぬように、ナオヒは視線を杜に釘付けにしていた。杜はすでにヤマタノオロチの瘴気で、すべての木々が立ち枯れていた。彼女の場所からは、その前に立つスサノヲの横顔が見えていた。
「ニギヒよ、あそこへ連れて行っておくれ」

 クシナーダもまた全力で駆けていた。
 杜の前で背を向けているスサノヲの元へ。
 人々が集まってくる。彼の元へ。
 クシナーダはその先頭を切って彼の元へたどり着いた。息を切らしながら、呼びかける。
「スサノヲ――」
 その瞬間だった。
 剣を持っていたスサノヲの腕が、肩の付け根からもぎ取れた。剣は音を立てて地面に落ちた。
 キャア、とクシナーダは、それまで誰にも聞かせたことのないような悲鳴を上げた。
 次の瞬間。

 ざ、という音を立てて、スサノヲの身体は崩れ落ちた。

 人々は信じられぬというようにその場に凍りつき、眼を見張った。
 そこには白い砂のような山が残され、その砂の中に彼が身に付けていた衣と、そしてクシナーダの朱の領布が半ば埋もれて残されていた。
 風が吹いた。
 その風は白い砂を動かした。
「スサノヲ……」
 ふらふらとクシナーダはおぼつかない足取りで歩いて行った。そしてその砂の中に手を入れた。
「スサノヲ……」
 その中をかきまわすようにする。
 巫女たちが、ナオヒが、そして遅れてエステルたちもその場にやって来た。
「塩だ……」白い砂を指先で確かめ、イタケルが洩らした。
 スサノヲの肉体は塩と化していた――。
「みずから浄めの塩となったか……」ナオヒが呟いた。
 クシナーダは、朱の領布を握りしめ立ち上がった。
「そんなはずない……そんなはず……」思いつめたように繰り返した。そして彼女はどこかあらぬ方を仰ぎ、視線を送った。
「スサノヲ……?」
 また違う方へ歩き、呼びかけた。
「スサノヲ……」
 その姿はあまりにも痛々しく、眼を背けずにはおれなかった。

 スサノヲ――!!

クシナーダの叫びは、蒼穹に吸い込まれていった。





※次回、最終話 エピローグ~国の乙女の花~



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