ヤオヨロズ25 第7章の1 |  ZEPHYR

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ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

 自分一人で逃げるのなら、たやすいことだった。が、とくに身重のエステルは折からの豪雪もあり、行動が鈍かった。まる一昼夜、いくつかの山野を越え、彼女らの逃亡を助けるため、常にスサノヲはしんがりで敵を撃退し続けなければならなかった。
 たった五人の逃亡者を討つために、ヤイルは百を超える追手を波状的に放ったようだった。かつては主君と仰いだ人物を殺害せしめるための強い決意がそこには現れていた。
 成行き的な進路でしかなかったが、エステルたちは東へ逃げた。そしてスサノヲはほとんど休む間もなく、彼女たちを守るために闘い続けた。むろん降りしきる雪と寒さが体力を奪ったということもあっただろうが、それ以上にヨモツヒサメから与えられたダメージが、じわじわと傷口を広げるように彼の力を奪って行った。
 相手をことごとく斬り捨ててしまうのなら、いっそそのほうが楽だったろう。あるいはそうしていれば、圧倒的なスサノヲの力を思い知り、ヤイルも追撃を思いとどまった可能性もあったのかもしれない。
 が――。
 クシナーダは喜ぶまい、と思った。その考えは、彼自身、奇異なものだった。身を守ること以外、スサノヲも好んで人を斬ったことなどなかった。地上に降りた瞬間から、自分と常人との間にはあまりにも不公平な力の差があることを知った。そのため、あまりにも脆い命である人を斬るつもりにもなれなかった。だから、大陸を踏破してくるときも、害をなす者でさえ特別な理由がない限り適当にあしらってきた。
 今殺さないのは、その時の理由とは根本的に違っていた。
 クシナーダの顔が浮かび、その意識の中での彼女が殺すことを善しとしないからだった。そう言われたわけではない。ただ、それが伝わってきて、わかるのだ。
 相手を動けなくさせるだけの加減をするのは、ただ斬るよりよほど神経を使う作業だった。自分でも馬鹿ばかしいことをしていると思いながら、それでもスサノヲは心の中にいる彼女の反応に従っていた。
 そうすることが、なぜか心地よかった。
 と同時に、そうすることで彼は次第に窮地に追い詰められていた。おそらくこの山を越え、そして南西へ進路を取ればトリカミへたどり着けるだろうという、その峠を越えたあたりでとてつもない脱力感に見舞われ始めた。
 ――やせ我慢もここが限界か。
 山の斜面を駆け下り、さらに追ってくるカナン兵を引きつけながら、スサノヲが思ったときだった。
「スサノヲ!」
 その声が降りしきりる雪を、ふっと断ち割ったように思えた。その隙間にクシナーダの顔と、彼女の赤い衣が見えた。だが、次の瞬間、彼女の身体が倒れ、山の斜面を滑り落ちるところで、視野が吹雪に塗りつぶされた。
「クシナーダ――!」
 彼女のほうを見ながら、スサノヲはカナン兵が打ち下ろしていく剣と槍を、次々に弾き返した。
「邪魔をするな!」
 瞬間的に湧いた怒りが彼に力を回復させた。彼の降った剣が、見えない刃となって、山の斜面を這い上がった。その流れに沿って、十数本の樹木が揺らぎ、降り積もった雪を降らせ、しばし視野は完全に真っ白になった。
 その隙を見て、スサノヲはクシナーダのいたほうへ走った。いまだ生々しい滑落の後が残っていた。辿って行けば、斜面に突き出した岩の上を通り抜け、その先は真っ白な宙だった……。
 岩のすぐそばに小ぶりな滝があり、流れ落ちていた。その滝の音と川の流れる音が、吹雪に混じって聞こえる。が、視野が利かず、どれくらいの高さなのかも見えない。
 スサノヲは剣を収め、迷わず飛んだ。自由落下の時間は長かった。足が水に落ちたのを感じた後、おそらくそこが滝壺だったのだろう、しばらく水の中を潜った。濡れた衣や剣の重さに抗い、水中から浮上する。恐ろしいまでの冷たさだった。老人だったら、その一瞬でショック死したかもしれない。
 冷たいというよりも痛い。そして手足の感覚もすぐになくなった。指や足も、ただ自分の身体とつながっている棒のような一部としか思えなくなった。
「クシナーダ!」
 ざぶざぶと歩きながら、スサノヲは何度も叫んだ。吹雪のため声もろくに通らず、視野も利かなかった。探そうにも何も見えないのだ。
 スサノヲはあてどもなく歩き回り、呼び続けた。焦りが全身をさらに冷やした。見つけることのできないこの一分一秒ごとにクシナーダの命が失われていく予感が強くした。
「サルタヒコ! クシナーダはどこだ! 教えろ!」焦りが次第に憤りに変わり、スサノヲは怒鳴った。「俺を助けたように、クシナーダを助けてくれ! 頼む! 頼む!」
 スサノヲは川の中で両手をついた。全身が震えていたが、その震えが寒さのためなのか、それとも恐怖のためなのか、区別がつかなかった。だが、吹雪の大音量以外、返答などなかった。
「くそッ!」
 スサノヲは立ち上がり、またやみくもに歩き出した。そして、はたと自分が間違った選択をしていることに気付いた。吹雪で奪われた視野のため、彼はいつしか川上へ向かっていたのだ。川の流れはかなり強い。
 反転する。そして川の流れだけを見て歩いた。
 そのとき、ふっと吹雪の勢いが弱まった。まるで台風の目にでも入ったように、視野を塗り潰していた真っ白な降雪が開かれ、その隙間に赤い色が見えた。
「クシナーダ!」張り裂けるほど叫んだ。そして走った。
 彼女は滝壺から流され、大きな岩場の間で止まっていた。半ば水につかった横顔は、白いという表現以上に血の気のないものだった。
「クシナーダ!」呼びかけ、彼女の頬を叩いた。
 だが、意識は戻らなかった。かろうじて、呼吸があることは分かったが、もはや死人と変わらぬような状態に思えた。
 スサノヲは彼女を水の中から抱き上げた。彼女の衣から流れ落ちる水は、そのまま氷柱になってしまうのではないかさえ思えた。
 彼女の安全を確保するために、スサノヲは本能的に落ちてきた場所とは対岸に向かった。川の東側の河原に入り、登れる場所を探し、道があるところまでたどり着こうとした。だが深い雪のためにそれは何度も失敗した。ようやく彼女を抱きかかえたまま、川沿いの小道に登ったときには、彼自身、もはやこのまま死ぬのではないかと思えるほど消耗していた。一度、彼女を下におろした。
「クシナーダ……」あえぎながら呼びかける。
 彼女からは何の返答もなく、真っ白な顔はさらに蒼ざめていくようだった。
 気力を振り絞り、スサノヲは彼女を抱き上げた。どこか暖を取れるところを探さねばならなかった。
 吹雪は少し弱まって来ていた。そのおかげで目の前に真っ白な小山が聳えるようにかすかに見えた。濃くなった夕闇の中、そこに小さな光が一つ、灯っているように思えた。
 人が住んでいることを祈りながら、彼は歩き続けた。喉が焼けるようだった。ずぶ濡れで、全身冷え切っていたが、なぜ熱いように思えた。それも錯覚かもしれなかった。
 小山の裾に雪におおわれた巨岩が並んでいた。その間を彼は通り抜け、細い山道を登った。雪に覆われてはいたが、その下に石段のようなものが組まれている個所もあった。明らかに人の手が入った道だったが、スサノヲは幾度もその坂で足をもつれさせ、転びそうになった。
 登りきった場所は、ワの民の祭祀場の一つだった。大きな磐座があり、しめ縄が張られていた。その脇にクシナーダたちが使っていたのと同じような小屋があった。人がいる気配はなかった。さっき見えた光のようなものはなんだったのかと疑うよりも、スサノヲはその小屋の中へクシナーダを運び込んだ。
 岩戸の祭祀場にあった小屋と同じく、そこには薪なども常備されていた。それに秋に収穫された稲の藁が奥に山積みにされていた。クシナーダを藁の上に横たえると、スサノヲは火打石を探し出した。震える手でそれを打ち、藁に火を移し、小枝や薪を組み合わせ、火を大きくした。
 クシナーダのところに戻った。呼びかけるが、意識は戻らない。スサノヲは胸に耳を押し当てたが、心臓の鼓動は探すのを苦労するほど弱く思えた。
 わずかに逡巡したが、彼はクシナーダのずぶ濡れの衣を脱がした。美しい玉のような裸身があらわになる。脱いだ自分の衣を絞り、彼女の身体を拭いた。そして奥にあった藁を引っ張り出し、寝床のようなものを作った。自分も全裸のまま、彼女の身体を抱きかかえ、そして藁で自分たちの身のまわりを覆うようにした。
 自分自身、体温が下がってしまっていたが、それでも抱きしめるクシナーダの身体の方が断然冷たく感じられた。彼は休む間もなく、彼女の身体を、手を足を、さすり続けた。
「頼む……生きてくれ。頼む」
 祈るようにつぶやきながら、彼はずっとさすり続けた。火が衰えないよう、時折藁床を抜け出し、薪を燃やし、そしてまた戻り、互いの体温で暖を取るということを繰り返した。やがて、わずかながら身体が温められる感覚が生じてきた。クシナーダの手足にも血の気が戻ってきたように思えた。
 いつしか吹雪は止んでいた。小屋の隙間から吹き込んでくる風も、嘘のようにぴたりと止まって思えた。
 長い夜だった。
 静寂の中、スサノヲはクシナーダを抱き続けていた。そして、小屋の隙間に黎明の明るさが確認されるようになるころ……。
「う……うん」と、小さくクシナーダが彼の腕の中で声を漏らした。
 はっとしてスサノヲは、彼女の顔を見ようとした。
 薄く開いた彼女の眼が、そこにあった。
「スサノヲ……」
「よかった……よかった!」スサノヲは彼女を強く抱きしめた。
 あ……と抱きすくめられながら、クシナーダは今の状況を漠然と察したようだった。互いに一糸まとわぬ姿のまま、肌を接していることに。
「わたくし……川に落ちて……」
「ああ、でも、もう大丈夫だ。あ、いや」スサノヲは彼女の身を少し離した。「大丈夫か。どこか痛いところはないか」
「あ……」彼女は恥じらうように目を泳がせ、胸の前で手をかき合わせ、みるみる頬を紅潮させた。「たぶん……はい。大丈夫です。どこも痛くない……」
「よかった……。そなたが死んだら俺は……」
 ふいにクシナーダは覚悟が定まったように眼を上げ、二人は見つめ合った。
 目合(まぐわい)が生じた。二人の間に甘く痺れるような霊的な交感が通い合い、自然と口づけを交わした。胸を隠していたクシナーダの手がほどかれ、彼の胸板に、そして腕に回された。
「あたたかい……」口づけの合間にクシナーダが洩らした。「嬉しい……」
 二人はさらに深い口づけを交わし合った。手が互いの身体を求め合った。
 もう二人を止めるものは何もなくなっていた。彼らの間には、隔てるものは何もなかった。
 愛おしい、とスサノヲは思った。これほど他人に深い愛情を感じたことは一度もなかった。その想いがそのまま彼の愛撫となった。手が、唇が、あらゆるところを這いまわり、クシナーダは全身でそれに応えた。
 長い時を待ち焦がれた存在同士がようやく一つになれる。その悦びが二人を貫き、その中で二人は身も心も互いに溶けて混ざり合った。
「あなにやし……えをとめを」
 スサノヲは自分が彼女の中に埋没して、自分がなくなるような心地の中、彼女の眼を見つめて言った。
「あなにやし……えをとこを」
 クシナーダは自分のすべてで彼を受け入れながら、同じように眼を見て応えた。

 そうして二人は、一つになった。


 鳥の鳴き声が聞こえた。
 朝の光があたりに満ちているのが戸板の隙間に見えた。

 二人はこれ以上はないというほどの深い快楽(けらく)の余韻の中で、無限に引き延ばされたような時間を過ごしていた。
「このままがいい……」クシナーダはスサノヲの胸元で囁いた。
「うむ」と返しながら、スサノヲは、しかし、現実の時が自分たちの元に戻ってきたのを感じていた。彼女の背を愛撫しながら、わずかに身を起こそうとして、気づいたことがあった。
「どうなさったのですか」クシナーダは彼の戸惑いを察して顔を上げた。
 スサノヲは自分の胸元を見ていた。ヨモツヒサメから受けた傷が、跡形もなくなっていた。傷みもまったくなかった。
「癒えている……」
 不思議な現象だった。スサノヲは本来、多少の怪我ならすぐに治癒してしまう肉体を持っていた。しかし、ヨモツヒサメに受けたダメージだけはいつまでも残りつづけ、彼を苦しめていた。
 どうやっても拭い去れない汚れが、きれいに洗い清められてしまったかのようだった。
 二人は甘い時を惜しみつつ、衣を身に付けた。焚火のそばに置いてあったので、あらかた乾いてしまっていた。
「戻ろうか、皆のところへ」
 スサノヲはそう言い、クシナーダは「はい」といつものように応えた。
 小屋の戸板を動かし、二人は外に出た。小山の上から見下ろす風景は幻想的だった。
 真っ白な山々の裾野には、雲海が溜まり、ずっと広がっていた。そこに朝陽が当たり、輝くようであり、さらにその上空に目を奪われるほど鮮やかな虹がかかっていた。
「なんと清々しい……」
 スサノヲはつぶやき、彼女に手を差し伸べた。その手を取り、クシナーダは微笑を浮かべた。




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