その地はちょうど中海と意宇の湖(おうのうみ)の結節点となっており、東から侵攻したタジマを中心とするオロチ軍は、中海沿岸のカナンを退け、現在はそこに陣を張っていた。しかし、不可解な勢いを取り戻したカナン軍によって、さらに西への侵攻は食い止められていた。指揮しているのは、カガチの腹心であるミカソだった。
このミカソの本隊と合流するために、カガチは一度斐伊川に沿って北へ向かい、カナンの勢力圏に接近しすぎる前に北東へ進路を取った。意宇へ向かう道筋は、主に二つあったが、カナンの勢力から距離を置く東寄りのルートは山越えが険しく、やや迂回するものとなる。そのためカガチは、多少の危険はあっても、最短で意宇にたどり着く西寄りのルートを選んだ。
ところが――。
この道行は当初予想されたものより、はるかに厳しいものとなった。未明から降り始めた雪が、一行の足を阻んだのである。出立したころはさほどのものではなかった。が、たちまちそれは豪雪と言えるほどのものへと変貌し、視野と体力を奪い、足を取らせるものとなった。
前新月の侵攻時の雪とはけた違いだった。山野はみるみる真っ白に染まり、分厚い積雪は川沿いの道のありかさえわからなくした。兵たちは足を滑らせ、深みにはまり、転び、ひどいときに川に落ちたり、斜面を滑り落ちたりした。
ヨサミとアカルはそれぞれ輿に載せて運ばせていたが、カガチは彼女らのことを考慮して、一気に踏破することは避けた。峠を越える手前で一夜を明かすことに決め、山あいにあった集落に強制的に宿を求めた。
そのカガチたちにやや遅れて、クシナーダたちも同じ道筋をたどっていた。ただしカガチたちに気取られぬために、川の対岸である西寄りの道を歩んでいた。そして、巫女たちにとってもそれは想像を絶する苦行を強いるものとなっていた。
――ハハハ。
女の狂ったような笑い声が、吹雪の音に混じって響いてくるように思える。それは、巫女たちにとっては錯覚などではなかった。その嬌声は跳梁するヨモツヒサメたちが放つものだ。この世を憎悪や破壊、死や絶望などによって塗りつぶしていく歓喜の笑いである。
「いやな声……」ナツソが耳をふさぐようにして言った。
他の巫女たちも同感の意を表したかっただろうが、今はそれどころではなかった。場所によっては膝まで埋まるような雪を押しのけ、あるいは雪に埋まった足を持ち上げ、降りしきる豪雪に視野もろくに得られない山道を歩く消耗はただならのものがあった。
体力は根こそぎ奪われ、冷え切った身体が動くことさえ拒み始める。老体のナオヒはニギヒの配下の屈強な男たちが交替で背負っているが、彼らでさえ根を上げたいという想いが顔色に見え始めた。
「カガチたちはこの先の集落で一夜を明かす様子だ」という知らせを持ってニギヒの配下のひとりが戻ってきたとき、クシナーダは一同を近くの杜(もり)に誘(いざな)った。
その辺一帯は、比較的なだらかな丘陵が目立つ地帯で、その谷間に集落があった。むろん集落はカガチたちが宿として強制使用したため、近づくことはできない。クシナーダが導いたのは、その集落の民たちが神域としている杜だった。
「ここは……トリカミ周辺にある聖域の一つです。ここならば、ヨモツヒサメたちもよりつけませんから……安全です」
到着したとき、クシナーダも説明するのがやっとという状態だった。
杜には小屋があり、そこには薪なども常備されていた。岩戸の聖域がそうであったように、トリカミ周辺にはこのような場所が至る所にあった。
イタケルとオシヲ、スクナ、それにニギヒとその配下たちを加え、総勢で二十名ほど。火が燃やされ、狭い小屋の中に人がすし詰めになると、それだけで生き返ったような心地に誰もがなった。事前にイタケルたちがトリカミから持ってきていた食料が調理され、出来上がるころにイズミが思い出したように言った。
「あのカーラという男は、無事にコジマの陣に辿りつけただろうか……」
それは独り言のような呟きだったが、そばにいたアナトが応えた。
「きっと、大丈夫です」
イスズという絶対的な主人を失ったカーラは、彼女の最後の命に従い、アナトの従者となった。キビの人質たちを救出するためには、ナツソが巫女として立つコジマ水軍にじかに連絡を取らねばならなかった。そのことを言い含め、アナトはカーラを送り出したのだ。
「わたしたちはもう後戻りはできませんね」ナツソが自分の身を抱くようにして言った。「わかってはいるのですが、とても怖いです」
沈黙が落ちた。その重さを払うように、イタケルがわざとらしい大きな声を上げた。
「さあ、栗が焼けたぜ! 食おうぜ!」
「皆さん、頂きましょう」と、クシナーダが言った。
カガチが傷病兵以外、何も残さぬ状態でトリカミを発った以上、巫女たちはトリカミに戻ることさえ可能だった。しかし、彼女たちはそうせず、距離を置いてカガチたちの後を追った。
それは巫女たちがトリカミでの軟禁状態を抜け出すと決めた直後、申し合わされていた行動だった。
「クシナーダ様、一つお伺いしてよろしいでしょうか」アナトが言った。
「はい。なんでしょうか」
「アカル様が申されていたようなこと……本当に可能なのでしょうか」
「わかりません。アシナヅチ様からも、そのようなことは聞かされたことがありません」
「そうですか……」
「ただ、カガチをなんとかしなければこの戦は終わりません。それは明らかなこと。であれば、今はアカル様のお言葉を信じて、わたくしたちはどこまでもアカル様のお力になるしかないと思います」
「それはもちろん。――ね、みんな」アナトは同じキビの巫女たちを振り返った。
キビの若い巫女たちは、みな、うなずいた。そして焼き栗をほおばりながらナオヒが続けた。
「憎しみ合い、争いを続けたまま、浄化することはできぬ。まずは争いを止めることじゃ。その上でなければ、〝黄泉返し〟などとうてい行えぬ」
「ヨモツヒサメをヨミに返す業ですね」シキが言った。「それはどのようなものなのでしょう。わたしたちも話に聞くだけで、一度もそれを目にしたことはありません」
「むろんじゃ。わしとて代々の語り草として話に聞くだけ。それは岩戸を守ってきたトリカミの民とて同じじゃろうが……しかし、クシナーダはわかっておるのではないか」
ナオヒの視線を受け、クシナーダはうなずいた。
「皆様もよくご存じのことと思いますが、わたしくしたちは歌と踊りという〝マツリ〟で〝体験〟を伝えてきた民です。〝マツリ〟には型があります。その型を演じることで。わたくしたちは過去の先人たちの体験も実感することができます」
「そういう感覚を抱くことはわたしたちにもあります」シキが言った。「ですが、それはとてもおぼろなもの。たぶん、ここにいるだれも、クシナーダ様と同じような体験ができていないと思うのです」
「うむ。この老いぼれでさえ、〝黄泉返し〟のことはよくわかっておらぬ。話してやってはくれぬか」
巫女たちのみならず、熱い視線がクシナーダに集まった。
「アシナヅチ様から伝え聞いたことと、わたくしが遠い過去の出来事から受けた印象をつなぎ合わせますと……たぶん、一万年ほどの昔、ヨモツヒサメは世に出ています。大きな時代の節目であったと感じます。その当時、地上にはわたくしたちには想像もつかないような文明が繁栄していましたが、その爛熟期にヨモツヒサメはやはり悪意あるものの扇動によって、世に放たれたようです。そしてその文明は滅びました。今は沿岸の海になっているところの多くは陸地でした。ところが、巨大な水をもたらす星が迫り、洪水が起き、ほとんどの都市は水没してしまいました。かろうじて生き残った人々が、この島国にも逃れ、そして一部の叡智ある人たちが真(まこと)の道を伝えてきたのです。それは共に生きる道です」
そのとてつもないスケールの物語に、一同は引きこまれた。巫女たちだけではない。スクナや、他の男たちも残らず聞き入っていた。
「その時代、やはりわたくしたちと同じような巫女たちがいました。そして巫女たちの核となってくれる存在がいました。その核となる者と巫女たちの力によって、〝黄泉返し〟が行われたのです」
「その核となる者とは……スサノヲか?」
ナオヒの言葉にクシナーダは大きくうなずいた。イタケル、オシヲ、スクナ、そしてニギヒらも衝撃を受けた。
「正確にはその時代に存在したスサノヲ様です。今のあのお方そのものではありません。ですが、おそらくスサノヲの〝力〟は、時代の節目に世界を死と再生に導くためのもので、常に二面性があるのです」
「二面性?」シキは強く関心をそそられているようだった。
「破壊と創造です」
その言葉は、アナトはすでにクシナーダから聞かされていたものだったが、多くの者に衝撃を与えた。
「スサノヲは常にヨミの扉を開く者であり、そしてそこから再生を促す者なのです。ですから、現に今のこの時も、スサノヲがヨミへ行くということがきっかけになって、ヨモツヒサメが世に出てしまったのです。ですが、その責はスサノヲにあるのではありません。スサノヲは単に役目を果たしているにすぎません。いえ、むしろヨモツヒサメがこの世に出現するのは、この世界がいかに澱を積み重ねてきたかということに関わっています。たとえば、この水……」
クシナーダは眼でナオヒの許可を得て、彼女の器を手に取り、そしてそこに足元の土をかき集めて入れた。その濁った水を自分の器に注いだ。すぐに水は溢れ、こぼれ出た。しかし、その時はまだ水は上澄みのきれいなものだった。次にクシナーダはアナトの器も同様に濁らせ、注いだ。やがて濁った水が溢れてきた。
「ヨモツヒサメが世に出るということは、このようなものなのです。わたくしたち人間が自分だけの想いにとらわれていれば、憎しみや悲しみ、怒りや絶望、虚無といった澱が蓄積され、やがてこの地に蓄えられる器を超えて溢れ出してきます。今がその時だったのです。スサノヲはそのような時に現れるのです」
「この世を壊すために現れるのですか」蒼ざめたような声で言ったのはナツソだった。
「いや、そうではない」と、理性的な声音で言ったのはイズミだった。「つまりそれは……風を入れるためということでしょうか。カビの生えてしまった家の中に、風を入れて良い状態にするために」
パッとクシナーダは大きく目を開いた。「それは、とてもよいたとえです。イズミ様はとても理に優れたお方ですね」
イズミは戸惑い、赤らんだような顔になった。
「そうなのです。わたくしたちの澱が淀み、淀んだものが増え、器を溢れ出してしまうとき、スサノヲはその澱を取り除くためにも現れるのです。ですが、澱を取り除くためには、それと一度、正面から向き合わねばなりません。このように……」
クシナーダは自分の器に残った泥を見て、そして器を傾け、それを足元に落とし、指でも掻き出した。
「澱をきれいにしてしまうには、新しいきれいな水をまた注ぎ――」すでに意を察したシキから器を受け取り、その水を泥の少なくなった器に注ぎ、また流した。「こうしたことを繰り返さねばなりません。それはじつは、わたくしたち一人一人がなさねばならないことなのです。わたくしたち個人の想いは、ちっぽけなようでいて、じつは世界の命運を作り出しているのです」
「スサノヲはそのための力になってくれるということでしょうか」ナツソはまだ用心しながらという風情で尋ねた。
「はい。わたくしたち巫女は、ものを受容する力には長けていますが、苦手なこともあります」
「取り除くこと?」と、イズミ。
「はい。押し出す力というのか、対抗する力というのか……わたくしたち巫女の本質は、そのようにできておりません。陰と陽の力が合わさることで、ようやく〝黄泉返し〟は可能になります」
「具体的には何をすればよろしいのでしょうか」と、イズミ。
「おそらく……これを成し遂げるためには、スサノヲ以外に、最低でも八人の巫女と勾玉が必要です。それも胆力の備わった、強い霊力を持つ巫女です」
「八人……」ショックを受け、イズミはすぐ落胆するような表情になった。「しかも霊力に優れた巫女となると……」
「イズミ様」
「は、はい……」
「あなた様は十分にその力をお持ちです。アナト様や、他の巫女様と自分を比較なさらないことです」
「え……はい」イズミはと胸を突かれたようになった。
「クシナーダ様、今ここには巫女が六人しかおりません」と、頭数を数えていたシキが言った。「〝黄泉返し〟を行うには数が……アカル様を入れても七人です」
「皆さん、誰かお忘れではないですか」
はっとしてアナトが声を上げた。「ヨサミ?!」
「え……でも……」ナツソが戸惑ったように言い、キビの巫女たちは顔を見合わせた。誰もがわかっている周知の事実があるからだった。そして、言いにくいことをイズミが代弁した。
「クシナーダ様……。ヨサミ様はもう巫女としての力も資格も失っております。トリカミの里の他の巫女の方では……」
クシナーダは首を振った。「ミツハが生きていれば、きっとお役目を果たせたはず……。けれど、残っているトリカミの巫女たちは、いずれも若すぎます。胆力ということを申し上げましたが、皆さんはこの今の事態を受け止め、乗り越えようとなさっています。その意志こそが重要なのです。トリカミに今残されている巫女たちは、あまりにも未熟すぎますし、まったく準備ができておりません」
「しかし、ヨサミ様はもう霊力をほとんど失っておりますし、今のままではとても協力してくれるとは……」
クシナーダはそれには応えず、アナトを見た。ヨサミともっとも近しい間柄であるアナトを。その視線を受けたアナトは拳を両ひざの上で握り固めた。
「……この頃、昔のことをよく思い出します」
誰も口を挟まず、アナトの言葉に耳を傾けた。
「キビの皆は周知のことですが……わたしとヨサミは幼馴染です。カヤとアゾは隣国として、古くから深い交流を持ってきました。わたしたちはよく国を行き来していました。たしかあれは……わたしたちが九つくらいの頃だったと思います。ちょうど今ぐらいの季節でした。コジマからナツソ様がアゾに見えられ、わたしは一緒に年初めの神事に使う曲を考えていました」
ナツソはアナトの言葉を受け、はっと思い出したような表情になった。
「そのときヨサミが、ご両親と共にアゾにやって来ました。ヨサミといつものように過ごせればよかったのですが、わたしはその頃からやがては国をまとめる巫女として立つように、周囲から求められていて、その……余裕がなかったのです。とくに両親の期待に応えねばと、ヨサミと一緒に遊んだり、お話をしたりすることよりも、立派な巫女になることのほうを選んでしまっていたのです」
クシナーダは静かな表情で耳を傾けていた。
「ナツソ様と曲作りに没頭しているわたしを見て、ヨサミはきっと寂しかったのでしょう。アゾにいる間にいなくなってしまい、大騒ぎになりました。わたしもそれを聞いて慌てて、ヨサミのことを探し回りました。そのときには……」アナトは頭(かぶり)を振った。「いつもはあれほど当てにしていた霊感も働かなくて、ヨサミをどうしても見つけられないのです。だけど、少し時間がたち、当たり前のことを考えました。ヨサミはわたしと遊びたかっただけ。なら、いつも遊んでいたアゾの中州にいるのではないか……。行ってみたら、ヨサミが岩の陰で泣いていました。そして……」
――どうしてもっと早く見つけてくれないの!
「……だけど、ヨサミはそう言いながら、わたしに抱きついてきました。あのときのことが、なぜか今、思い出されてならないのです」
そのとき、小屋の扉が激しく音を立てた。吹雪の風が扉を叩いたのかと思われたが、そうでなかった。
小屋の扉を打ち、こじ開けようとしているのは人間の手だった。男たちは敏感に反応し、一斉に立ち上がった。イタケルとニギヒはいち早く剣を抜いた。
戸口の隙間に覗いた顔は、彼らを驚かせた。それはモルデであり、彼が支えているのはエステルだった。
モルデはそこにいる顔ぶれを見て戸惑いと落胆を表情に浮かばせた。とりわけキビの巫女たちの顔を確認し、おそらくはここがカガチの息のかかった勢力の一部と接触してしまったと思い込んだのだろう。だが、イタケルやオシヲ、ニギヒの顔を見て、逡巡の箍(たが)が外れた。
「スサノヲ様を助けてあげてくれ!」
「なに?」イタケルが気色ばんだ。
「独りで追手と戦っている! スサノヲ様は怪我をしていて……あのままでは、いかにスサノヲ様でも!」
男たちは小屋を飛び出した。逆に精根尽き果てたように、モルデとエステルはその場に崩れ落ちた。その二人を飛び越えるようにして外に出たのはクシナーダだった。
「スサノヲ!」クシナーダは吹雪の中、叫んだ。
すでに夕闇が濃くなっていた。視野はほとんど利かない状態だが、クシナーダの耳は超常的な能力で剣の響きを聞きつけていた。走り出す。
「クシナーダ様!」
背後の男たちの声は吹雪の中に埋没する。クシナーダは元来た道を走った。途中から雪をかき分けるようにして斜面を這い上がっていく。
男たちの喚き声が聞こえた。なおいっそう、剣戟の響きが強く耳朶を打つ。
クシナーダはそこに見た。斜面を駆け下りてくるスサノヲと、彼に迫るカナンの兵士たちを。
「スサノヲ!」
吹雪を貫いて、クシナーダの叫びが届いた。スサノヲが振り向くのが、横殴りに降りしきる雪の中、見えた。
次の瞬間、クシナーダは「あッ」と声を上げた。柔らかい雪を踏みしめていた足が滑り出し、止まらなくなったのだ。彼女は手をスサノヲに差しのべながら、ついた勢いを止めることもできず、滑落した。
そして、気が付いたときには身体が宙を舞っていた。
眼下は川だった。
凍りつくような水が、衝撃と共に全身に突き刺さった。
――第6章 了
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