ヤオヨロズ26 第7章の2と3 |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

 クシナーダを抱いて川を渡っていると、「あっ」という甲高い声が対岸から響いた。蔓などを器用に使って山肌を下りてきたのはスクナとオシヲだった。スサノヲは渡りきったところで、抱きかかえていたクシナーダを下ろした。
「クシナーダ様、ご無事で……スサノヲが一緒だったんだね」
 二人は心底安堵したという表情で二人を迎えた。一緒に河原を歩いて行きながら尋ねる。
「他の者たちは?」
「イタケルやニギヒ様は、他の巫女様たちと一緒。それに今、あのカナンのエステル様たちも一緒になって」スクナが答えた。
「そうか。追手からうまく逃げ延びたのだな」
「ニギヒ様たちが追いかけてきたカナン兵を撃退したから」
 エステルたちの逃走経路が、たまたまクシナーダたちの進路と交わったのは僥倖というべきだった。豪雪によって足を止められなければ、こうはならなかったに違いない。
「スサノヲ……」
 オシヲに呼ばれ、スサノヲは横を歩く少年を見た。
「俺……ミツハに褒められるように頑張った」
「そうか」スサノヲは眼を細めた。そして少年の肩に手を回した。

 帰還したクシナーダとスサノヲを、アナトたちキビの巫女たちは眼を見張って迎えた。
 彼女たちはスサノヲを見るのは初めてだったが、一瞥で心を奪われていた。彼にというよりも、彼とクシナーダ二人そろっての存在に魅了されたかのようになった。
 二人の存在はさして交わす言葉もない中で、まるでオーラが重なり合って柔らかな光を放つようだった。たぐい稀な絆で結ばれた者同士の静かな信頼の気配が満ちており、その姿にはある種の息苦しいような妬ましさを感じた。しかし、その感情以上の憧憬さえも覚えるのだった。
 勘の鋭い巫女たちは、二人に愛し合う者だけが持つ共鳴のヒビキを感じ、それが自分たちさえも癒すという事実に驚かされるのだった。ワの民の斎場の広場には多くの者が集まっていたが、二人がその場に入るのと共に場所の空気がさらに清浄なものへと変わるのに気づいていた。
 その瞬間、彼女らは初対面のスサノヲと何の言葉を交わすこともなく、彼の存在をクシナーダとセットで受け入れたのだった。
「スサノヲ……。よく無事で」
 エステルの言葉にスサノヲはうなずいた。モルデの他、カイ、シモンらも無事にたどり着いていた。
 そこへちょうど、ニギヒの配下の一人が戻ってきた。
「どうだ」と、ニギヒが尋ねる。
「カガチが動き始めました。意宇へ向かうものと思われます」と、配下が答えた。
「少し時を置いて、わたくしたちも後を追いましょう」と、クシナーダ。
「その必要があるのだな」と、スサノヲは尋ねた。
「はい」
「説明してくれるか」
「ヨミから放たれたヨモツヒサメを浄化する〝黄泉返し〟を行わねばなりません。そうしなければこの世は滅びます。そのためには八人の巫女と、スサノヲ、あなたが必要です。しかし、先に争いを止めなければ、そのようなことはできません。タジマの巫女であるアカル様が、カガチを止めるためにそのそばに残っております。その時が来たら、わたくしたちは全力でアカル様をお助けしなければなりませんが、そのためにはわたくしたちが自由の身でいること、そして事があったときにアカル様をお助けできるおそばにいる必要があるのです」
「そのためにカガチを追うのだな」
「はい。まずはカガチを鎮めなければなりません」
「カガチは俺の剣を持っている。常人には持つこともかなわぬ〝力〟を持つ剣だ」
「やはり、そうでしたか。その〝力〟にカガチは取り込まれて、鬼と化したのでしょう」
「そのようなものを鎮めることができるのか」
「わたくしはアカル様を信じます」
「ならば俺も信じよう。俺は何をしたらよい」
「その時が来たら、カガチの動きを止めてください」
「承知した」
 スサノヲは疑問こそ提示したが、他は少しの異論も挟まず、クシナーダたちの提案を受け入れていた。
「だが、カナンにも問題がある。エステルたちはそのイスズという巫女の提案を受け入れたが、ヤイルという男が今、カナン軍を牛耳っている。ヤイルは予言者らしい」
「予言?」クシナーダはエステルの方を振り返った。そして、その瞬間に「あらっ」というように目を丸くした。
「ヤイルは先の洪水を予言し、カガチの軍が壊滅することを的中させた」エステルはやつれた顔に苦渋をにじませていた。「今はオロチの連合軍が分裂し、仲間割れすると公言している。五つの地のキビも互いに憎しみ合うようになると」
 その言葉にはっとなったのは、キビの巫女たちだった。
「まさか……」と青ざめたのは、コジマの巫女、ナツソだった。「あのことを……」


 ちょうどその頃――。
 意宇の湖に近いコジマ水軍の陣に急報がもたらされていた。
「タジマの水軍が攻めてきました!」
 カーラはコジマの本陣の中、指揮官のそばでその報せを聞いていた。彼がもたらした人質となっているキビの家族救出のナツソからの密命。それに沿って、計画が練られている最中のことだった。
「どういうことだ!」コジマの指揮官は顔色を失って叫んだ。
「わかりません! ただ……」
「ただ?!」
「タジマは我らが反乱を起こしたと……」
 指揮官は絶句し、カーラを振り返った。その瞬間、カーラは人質救出の企てが、根底から崩壊する予感を味わった。


「そのお話が本当なら、ヤイルという方は予言者としてのお力をお持ちなのかもしれません」クシナーダはむしろそっと言った。「人には多かれ少なかれ、動物と同じように危機を察知する能力があります。洪水を予知したのは事実かもしれませんが、このような時にもっとも危惧すべきなのは、その方が予言の成就に固執することです」
「固執?」エステルが尋ねた。
「じつは危機的なことを予知することのほうが簡単なのです。出方も際立っていますし、気配もあります。本当に難しいのは、善き未来を提示することなのです」
「善き未来……」
「それは本当の意味での叡智なくしてはかないません。この世が滅びるという予言者は、かつて多く存在します。そうではありませんか、エステル様」
「たしかに……。我が一族にも名だたる予言者はそれを伝えてきた」
「それはたしかに神の如き眼で見たものもあったかもしれません。しかし、人は必ず自分個人の想いによって、その見たものを歪めてしまうものです。どのような貴い人であれ、それをまったくゼロにはできない。真っ白ではないのです」
「真っ白ではない……? どういうことだ? 予言者は神の言葉や神の見せてくれたものを我らに伝えているはず」
「たとえば……このわたくしです」
「え?」
「正直に申し上げます。わたくしは、じつは皆さんの半分くらいしか、色が見えておりません」
 その告白は、巫女たちだけではなく、イタケルやオシヲらにも衝撃をもたらした。
「色が識別しにくい眼なのです。皆さんの感じておられる赤や青、緑や黄、紫……そのような色合いが、わたくしの眼にははっきりと判別しにくいものがあるのです。でも、わたくしの眼にはそれがわたくしの知る世界なのです。わたくしの眼がもっと問題があるものであれば、もしかしたら白と黒しかわからないかもしれません。皆さんと同じものを見ていても、わたくしには違って見える。でも、それがわたくしの見ている世界なのです。が、じつは人それぞれに同じ色でも見るヒビキが違うのです」
 静まり返った。
「見る人によって違う……」エステルが呟いた。
「わたくしは感応する力で、人それぞれが受け取っている赤をヒビキとして感じることができます。だからわかるのです。同じ赤でも、エステル様の見る赤とスサノヲが見る赤は違っています。予知や予言も同様なのです。この世界にはある種のヒビキが強く流れることがあり、それをわたしたちは受け取って、その年の気候やこれから起きることを予見することができますが、それは受け取り手によって解釈が違うのです。またそのヒビキがどこから発せられたものなのかということもあります」
「どこからというと……」
「光なのか魔なのか、というようなこともあるのです」
 カナンの者たちは、顔つきがこわばってきた。
「エステル様、未来はこの瞬間にも無限に変化し続けるもの。それは今のわたくしたちが創造するもので、じつは確定的な未来などない。ましてヨモツヒサメが世に出た今、それを判断することは、わたくしにもできません。ただ……悪しきことの予知を的中させた者は、往々にしてその次の悪しきことの予知を的中させることに固執するようになります。自分が予言する悪しきことが起きることを望むようになるということです」


 同刻――。
 意宇の湖の向こう側で起きた混乱を、ヤイルは黙って眺めていた。満足げに、腕組みをしながら。
「ヤイル様」一人のカナン兵が、ヤイルのそばに来て囁いた。「仰せのとおり、地元のワの民を使って、噂を流してきたことが功を奏したようですな。コジマがオロチを裏切ると」
 うむ、とヤイルは唸った。そして首を左右にゆっくりと振り、周囲に人気がないのを隻眼で確認した。そして剣を抜きながら言った。
「すべては我が予言通り。予言は成就されなければならぬ」
 カナン兵はその剣の光るのを見て絶句した。


「悪しきことを待ち望み、より多くの人がそれを受け入れれば、その出来事が起きることは容易となります。人の意識が大きな力となるからです。立場によっては、もっと具体的に予言を成就する方向へ誘導することさえできるでしょう」
「では、ヤイルは……」
「わかりません。すべては時が証明すること」


「見よ! 我が予言は成就した!」群衆に向かい、ヤイルは叫ぶ。「オロチの結束は乾いた石くれのごときもの! ここよりオロチの崩壊は始まるのだ!」
 沸騰する群衆。しかし、ヤイルの背後には常に冷たいものが貼りついていた。それは綱渡りを休むことなくし続ける者が抱く、胸の悪くなるような恐れだった。
 ヤイルの頭上には、ヨモツヒサメがいた。そのヒサメは嘲笑っていた。
 コジマの反乱の可能性を見抜いたカガチの警告。それが意宇のタジマに本隊にもたらされるのと、奇妙なほどにリンクしてヤイルは策略を巡らせた。ヤイル自身はその発想とタイミングがどこから湧いたのか、知る由もなかった。


「クシナーダ」スサノヲは言った。「そなたはいつも衣を染めていたな」
「はい。それは色をヒビキとして感じることができたからなのですが、わたくしはこの眼で鮮やかな色の美しさを感じることが少なく……だからせめて」クシナーダはにっこり笑った。「他の方の眼を通してその色を感じたかったのです。染めた衣を着たオシヲやミツハが、うわあ、きれいな色だと、そう言って笑ってくれるのがうれしかったのです」
 聞いていたオシヲは、ふと自分の隣にミツハがいるかのような錯覚を覚えた。
「なればこそ、わたくしはこの世にヤオヨロズ――たくさん――の色があることを望みます。それぞれの色が、それぞれのヒビキで輝くこと、そしてそれが高い空から見たときには、大きな一つの美しい風景となるような、そんな世界であってほしい」
 静まり返っていた。
 その中、スサノヲは言った。「それはつまり――それぞれに違う者たちが共に生きる世界ということだな」
「はい――」
「承知した。ならば、俺はそなたの望む世界を守る戈(か)となろう」※戈=剣
 エステルたちは不思議な想いにとらわれていた。クシナーダとの語ることと、カナンの本陣でスサノヲが語ったことが、そのまま同じものだったからだ。
「エステル……おまえはどうする?」スサノヲは尋ねた。「おまえたちカナンの民も、同じ地の上で咲く花の一つとなるのか。それともカナンの花だけでこの地を満たしたいのか。おまえの胸の内を今ここで、皆に語ってくれ」
 視線がエステルたちに集まった。
「愚かであった……」ややあってエステルは言った。「そのような望みを抱いたことと、このワの島国の民たちをおおぜい殺めてしまったことを……わたしは心から後悔している。本当にすまないことをした。許してくれるとは思わない。だが、どうか、この争いを収めるため、我らにできることがあるのなら、協力させてくれないか」
 クシナーダは歩き出し、エステルの前に進んだ。「エステル様、この地で命をお授かりになりましたね」
「え? な、なぜそれを……」反射的にエステルはみずからのお腹に手をやった。
 クシナーダは彼女の前にしゃがみ、そっと腹部に手をかざした。「この子はきっと男の子で……とても強い〝力〟を持つ子です。悪阻がひどいのではないですか?」
「あ、ああ」
「それはこの子がお腹の中にいて、エステル様を浄化してくれているからです」
「わたしを……?」
「はい――」クシナーダは立ち上がり、笑顔を見せた。「母は子を救い、子は母を佐(たす)けるものです。この子はずっとエステル様の苦しみを浄化し続けていました」
「この子が……」エステルの双眸が呆然と見開かれ、涙が溢れた。彼女はお腹に置いた両手を中心に、身体を丸くする。
 モルデがその背にいたわるように手を伸ばした。
「ただ……ちょっと不思議です」クシナーダは戸惑ったように首を傾げ、そしてスサノヲを振り返って見た。
 そのときだった。
 祭祀場につながる山の斜面に甲冑の触れ合う音や男たちの声が下りてくるのが伝わってきた。その気配にはスサノヲはとうに気づいていた。だが、彼は先刻からまったく動くつもりもなかった。
 ニギヒの配下たちが過敏な反応を示し、剣を手にした。撃退したカナン兵たちから奪った剣だ。
「慌てなくていい」と、スサノヲは言った。
「そのようですね」クシナーダも同調する。
 二人が落ち着き払っているので、一同はその場を動くことなく、男たちが斜面を下りてくるのを待つことになった。
「いた! いたぞー!」声が上がる。「エステル様だ!」
 彼らはカナン兵だった。エステルの姿を木立の間に見つけ、勢いを増して駆けつけてくる。彼らに害意がないことを、スサノヲはなぜかわかっていた。まるでクシナーダの持つ霊感が宿ったかのように、彼らの意識がふっと心の中に入ってきたのだ。
 彼らはエステルを探し求めていたが、それはヤイルに討伐を命じられたからではなかった。人数はおよそ三十名ほど。
「戦う意志はない! 我らはエステル様に従う者! ヤイルの元を離れてきたのだ!」
 エステルとモルデは顔を見合わせた。カイやシモンの曇っていた表情にも、にわかに生気のような喜びがにじみ出た。
「エステル様! いかにヤイルが予言を為すとはいえ、エステル様を殺めよなど、もはやとうていついて行けませぬ! どうか、我らもご一緒に!」




 その日のうちに、クシナーダたちは佐草と呼ばれる集落にたどり着いた。そこはやはり古くからのワの民の居住地の一つであり、そばには清らかな泉と冬でも緑が生い茂る森の中にある、身をひそませるには格好の場所だった。意宇の中心地からもほど近く、オロチ本隊に合流したカガチたちの動向を見張ることもできた。※現・八重垣神社付近。
 クシナーダが訪れると、民たちは喜んで寝泊まりする場所を提供してくれた。トリカミの巫女としての威光というよりも、彼女が愛されているからこその対応ぶりだった。カナンからの合流組も含めると大世帯になっていたが、彼らは与えられた家屋で身を休めることができた。
「良いところです、ここは」クシナーダは周囲を見まわしながら言った。
「そうだな」二人で歩きながら、スサノヲも同じように感じていた。
 ワの民の祭祀場は、どこも清浄な空気に満たされている。が、この里のそれはトリカミのそれに近い清浄さで、しかも何か不思議にあたたかいものに満たされていた。
「あら、素敵」クシナーダはある樹木のそばで立ち止まった。
 椿が二本、地から生えていた。が、それは途中ですうっと寄り添うように幹を一つに合わせ、そのまま一本の樹木として成長し、頭上にまで葉を生い茂らせ、花を咲かせていた。根は別々でありながら。
 しばらくクシナーダはその姿に見入っていた。
「面白い椿だな。一つになっている」スサノヲはそう言いながら、その椿の姿に触発されて、自分の中にクシナーダへの愛情が深く湧きおこるのを感じた。
「スサノヲ……」
「なんだ」
「愛しています」クシナーダは椿を見つめたまま言った。
「…………」それは今、彼が感じたものとまったく同じ想いだった。
「わたくしはあなたとこの世界で生きて行きたい。この椿のように」
「俺もこの椿のように、そなたと生きて行きたい」スサノヲは椿を見上げた。「そなたと見たあの雲海と虹……俺は生涯忘れぬだろう。あの雲海の広がりのように、俺はそなたを取り巻いて守りたい。そなたという虹を」
「クシナーダ様――!」スクナが呼びかけながら走ってくる。彼女の背後からキビの巫女たちやオシヲも小走りにやって来る。「すごいものを見つけたよ。あっちに二本の椿が一つになっているのを――あれ?」
 スクナは二人が見ている椿もまた、同じようなものであることに気付いた。
「これもそうだ……」
「こんな椿を他にも見つけたのか」
 スサノヲの問いにスクナはうなずいた。「すごいや……。こんな不思議な木が二つも……」
 巫女たちも到着して、眼を見張る。だが、それは二つではなかった。エステルたちが奥の泉のほうから戻ってくると、声をかけてきた。
「泉がすごくきれいだった。スサノヲ、この地は気持ちが良いな」
「そうだな」
「そうだ。泉のほうに面白いものがあるぞ。椿の木が根では二つなのに、途中で一つに――」エステルは絶句し、目の前にある椿に目を止めた。
「すごいや。三つもあるんだ」と、スクナ。
「え? こんなものがまだほかに……」
「どうしたのじゃ」ニギヒを伴って、その場を通りかかったナオヒが声をかけた。
「こんな不思議な椿が三つもあるんです」スクナが言った。
「ほう。これは面白い。この地には命を結びつける特別な〝気〟があるようじゃな」
「皆さん」唐突にクシナーダは言った。「歌を作りましょう」
 そのあまりにも飛躍したように思える言葉に、他の巫女たちでさえ口をぽかんと空けた。
「クシナーダ、歌なんか作っている場合じゃないじゃろう」と、ナオヒが苦笑した。
「いいえ。今だから歌が必要なのです」
「ほう?」
 クシナーダは、巫女たちと、そしてエステルたちを見渡して言った。「皆さんが心を一つにできる歌を作ってください」
「心を一つに……?」アナトは呆然とつぶやいた。
「はい。アナト様たちはもはや心を一つにされていると思います。ですが、わたくしたちがこれからしなければならないのは、すべての民が心を一つにすること。それができるような歌をこの地で作ってほしいのです」
「わたしたちが作るのですか」
「はい。もちろん。エステル様も協力してください」
「え?!」と、エステルは大きな声を上げた。「わ、わたしがっ?」
「はい。アナト様たちと協力して作ってください」
「む、むりむり! わたしはそんな……そんな柄じゃない」エステルは真っ赤になった。そんな彼女を見るのは、誰もが初めてだったかもしれない。
「できることがあるのなら、協力するのではなかったか」スサノヲがぼそっと言った。
「……いや、しかし」
「エステル様も参加してもらわなければ困ります。カナンの民も共感できないような歌になってはいけないからです」
「しかし、なんのためにそのような歌なんか……」
「ですから、心を一つにするためです」クシナーダはにっこりとした。「キビの皆様……そう、とくにナツソ様は調べをお作りになるのがとても上手なのですよね」
「は、はい。あの、でも、あまり自信が……」ナツソは物怖じしたように言った。「それに、調べを作るのでしたら、何か鳴り物がなくては……。ここには何も持ってきておりませんから」
 それを聞いていたオシヲが、はっとした。腰紐に差していた一本の笛を手に取る。少し迷ったが、彼はそれをナツソに差し出した。
「あの……これ……」
 それは岩戸の祭祀場でオロチ兵の手にかかって亡くなったミツハの笛だった。
「……使ってください」
「ありがとう、オシヲ」
 クシナーダに代わりに礼を言われてしまい、ナツソはやむもなく笛を受け取った。
「では、皆さん、お願いいたしますね。スサノヲ、他の椿も見に参りましょう」
 クシナーダとスサノヲはその場を立ち去った。
 その二人の背中を見送りながら、うっとりとナツソが言った。「いいなあ、クシナーダ様。あのようなスサノヲ様がおそばにいて……」
「ほんとう……」同じような憧憬の眼でシキも漏らした。
 それにほとんど同調しかけ、アナトはいきなり厳しい表情になって咳ばらいをした。
「な、何言ってるの! さあ、クシナーダ様の言われる歌を作りましょう」そう言って巫女たちを促して歩き出した。が、その場で動かないエステルに気づき、きつい眼で振り返った。「エステル様もです。さあ」
「わ、わかった……」
 エステルがぎくしゃくと歩き出し、ついて行く。
 そんな娘たちの有様を見て、ナオヒは腹を抱えて笑い出した。


 意宇のタジマ本隊に到着したカガチは、しばらくまったく動くそぶりを見せなかった。ある意味、不気味なほどの沈黙ぶりだった。
 意宇の湖で戦いがあったらしいという噂を耳にし、とりわけキビの巫女たちを不安にさせた。その不安の的中は、三日後、帰還したカーラによって知らされた。
「コジマの水軍はほぼ壊滅的な状態です」
 カーラは戦乱の中を生き延び、報告のために戻ってきたのだ。クシナーダたちが移動していたこともあり、場所を探し出すためにかなり苦労したようだった。
「コジマが壊滅……」
 非常に大きなショックを受けたのはコジマの巫女であるナツソ、そしてイズミだった。今回の人質救出の立案を行ったのは、他ならぬイズミであったからだ。
「申し訳ありません、アナト様、ナツソ様……」そうつぶやくと、イズミはがくんと膝を折って、地に手をついた。「人質を救うどころか、さらにもっと多くの者を死なせてしまいました。わたしがよけいな計画を立ててしまったばかりに……」
 イズミは責任感と悔しさのあまり全身を震わせていた。
「いえ……そういうことではないのかもしれません」カーラは言った。
「というと?」アナトが尋ねた。
「わたしたちは慎重に事を運ぼうとしていました。ナツソ様が絶対の信頼を置く方々と、隠密に船を出してタジマやイナバに赴こうと謀ってはいたのですが、その計画自体、知る者はまだほとんどなかったのです。わたしがコジマの陣に到着して、ほんの短い時間しか経過しておりませんでしたので」
「ということは?」
「オロチがコジマを切り捨てようとしたか、あるいは何かコジマとオロチを分裂させるための策略があったのかもしれません。タジマ水軍はこちらに反乱の疑いありとして攻めてきましたが、そのようなことになる理由もまだなかったのです」
「ヤイルかもしれぬ」と、エステルが言った。「ヤイルはもともと知略に長けた男だ。こちらに有利な状況を作り出すために、意図的に噂を流して敵を分裂させるのはヤイルの常套手段だ」
 隣でモルデも頷いた。「じつは先日のクシナーダ様の話を聞いたとき、わたしもゾッとしました。まさにヤイルがやりそうなことを言っておられたからです」
「だとすれば、もうほんの少しだけ猶予があれば……」カーラは残念そうに頭を垂れた。
「くそっ」イズミは小さな拳で地面を叩いた。
 しばらく沈黙があった。
「どうする、スサノヲ」エステルが口を開いた。「キビの人質を救出することは、絶対に必要なことなのだろう」
 その問いに答える以前に、エステルは続けて言った。「我らを行かせてはくれないか」
「なに?」
「ここにいるのはカナンの中でも精鋭ばかりだ。甲冑を捨て、身軽になれば、イナバやタジマへもそう時間はかかるまい。天候さえよければ、三、四日でたどり着いてみせる」
「エステル様はいけません」モルデが言った。「大事なお体です。我らが参ります」
「しかし、そのキビの人たちが囚われて働かされているっていうタタラ場がどこなのか……」カイが疑問を呈した。
「よし、わかった」パン、と両手を叩いたのはイタケルだった。「俺も行く。そのアカルっていう巫女の情報から、俺ならだいたいの場所はわかる。鉄穴流しをしている川は見ればすぐにわかるしな」
「陸路、タジマへの道のりは危険だぞ」スサノヲが言った。
「だが、タジマもほとんど全軍で意宇に集結しているんだろ? なら、むしろ背後は手薄だぜ、きっと」
「そうかもしれぬが……」
「では、我らも」ニギヒが申し出た。
「いや、あんたらにはこの巫女さんたちを守っていてほしい。カナンの連中より、よっぽど信用できるからな。俺はこいつらを見張るためにも行くんだ」イタケルはわざとらしくエステルたちを指さして言った。
 なんだと、というふうな反応をカイは示したが、それはエステルによって抑えられた。
「良いのだ。そのように思われても仕方のないことを我らはしてきた……。モルデの言う通り、わたしがここに残る。おかしなことがすれば、このわたしの命を好きなようにしてくれてかまわない」
 イタケルは眼を細めた。そして小さく、何度か頷いた。
「決まりだな」

 そうしてモルデとイタケルが率いる一団が、その日のうちに発つことになった。
「オシヲ、イタケルに領布を渡してください」彼らを見送るとき、クシナーダが言った。「その領布には魔を祓う力があります。ヨモツヒサメに対しても、多少なりとも効果があるはず」
 オシヲから引き継いだ領布を首にかけると、イタケルは「じゃな」とあっさりと手を挙げて歩き出した。
「モルデ……くれぐれも気を付けて」
「ご心配なく、エステル様」
 言葉を交わしたのち、モルデもまたイタケルを追って歩き出す。
 カーラはアナトたちを守るため、そして彼自身が偵察の能力に長けていたため、意宇の動向を監視するために残された。
 歌が出来上がったのは、その日の夜のことだった。
 キビの巫女たちと、カナンの中で一人残ったエステルは、その歌を携えてクシナーダの前にやって来た。ナオヒは「若い者に任せる」と言って、歌作りには参加しなかったようだが、その歌を聴くために同行してきた。
「歌の言葉は、皆で考えました」と、アナトが言った。
「調べも降りてきたのですが……」ナツソもためらいがちに言った。「このようなもので本当によいのか……」
「聞かせてください」と、クシナーダが言った。
 スサノヲやニギヒも見守る中、ナツソの笛が高らかに鳴り響いた。前奏の後、巫女たちとエステルが歌い始めた。慣れていないエステルは、顔を紅潮させ、それでも巫女たちに指導されたのか、懸命に声を上げていた。
 今まで一度も耳にしたことのないような調べだった。巫女たちが日常の神事に使う、雅やかで緩やかな調べとはまったく異なる曲調だ。それは力強いヒビキに満ちていた。
 歌が終わった。
「いかがでしょうか……?」恐る恐るという感じで、アナトが尋ねた。
「や、やっぱり、だめですよね」と、ナツソも狼狽しながら真っ赤になった。
 しかし、クシナーダはにっこりと笑顔を見せ、自分の拳を胸に当てた。
「なにか聞いていて、心が鼓舞されるような、すばらしい曲です。胸が熱くなりました」
 巫女たちはほっとした表情を、互いに確認し合った。
「心の岩戸を開いて……。これで、わたくしたちはきっと心を一つにできます」
 クシナーダはスサノヲに眼をやった。スサノヲは頷いた。
 ――あとは、とスサノヲは考えた。
 あとは、時が至るのを待つだけだった。




ヤオヨロズ第一部(プロローグ~4章)、FC2ブログにおいて一括公開中。
 ↓
こちらが目次になります。

鑑定依頼の方はこちらへどうぞ→<占星術鑑定に関して>
ほかで受付をすることはございませんので、ご注意くださいませ。

ポチしてくださると、とても励みになります。ありがとうございます。

人気ブログランキングへ