ヤオヨロズ22 第6章の2と3 |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

 半月が中天から少し西に傾いたところにあった。
 スサノヲはエステルの幕屋の外で、その月を仰いでいた。柔らかな月明かりが、凍えるような空気の中、あたりを照らしている。彼はふと幕屋の近くにある樹木に花があることに気付いた。
 椿であった。ふわっとした赤い花弁が、月光を浴びて艶めかしいほど美しかった。優しく、凛とした美しさをそこに感じ、それが彼にクシナーダのことを思い出させた。その時、幕屋からモルデとカーラが出てきた。
「お待たせしました。行きましょう」と、モルデが言った。
 彼らが向かったのは少し離れた場所にあるもう一つ別な大きな幕屋だった。そこでは戦いに勝利した男たちの酒宴が催されており、中に入ると乱痴気騒ぎだった。飛び交う野次のようなだみ声、笑い。食事や酒を給仕している数少ない女たちは現地の娘たちだが、嫌がる彼女らを抱き寄せて口説いている者もいる。
「よう、モルデ。ちっとは元気になったか」
「心配するな。おめーがいなくても、ヤイルがいりゃあ、俺たちは百戦百勝だ」
「なんたって、神様がついておられる」
「おお、今日の予言もすごかった! 奴らの侵攻の時期も場所もぴったりだった。おかげで待ち伏せた我らが大勝利!」
 はっはっは、と笑いがはじける。そんな中を進んで行くと、奥の方にヤイルが座していた。隻眼を光らせ、黙々と酒を口に運んでいた。
「ヤイル、話がある」モルデが言った。
「なんの話だ」ヤイルはモルデの顔も見なかった。
「ヤマトの話だ」
 ふん、とヤイルは鼻で笑った。「またその話か。くだらん……」
「くだらぬことはない。このような戦によらずとも、我らはこの国で暮らしていけるのだぞ。エステル様もそれを善しとされた」
「エステル様が?」
「私の国、ヤマトのことをお話申し上げました」カーラが言った。「エステル様はヤマトへ民を率いて向かうのが最良の策とおっしゃいました。ヤマトは良い土地です。四方を山に囲まれ、豊かな水が流れております」
 ヤイルは酒の器を置くと言った。「そのようなこと、神はお望みではない」
「なんだと?」と、モルデ。
「神が求めておられるのは我らの偽りなき信仰の証しよ。我らはそれを自らの命で証明しなければならぬ。この地を我らの力で平定することでな」
「そのためにどれほどの同胞が犠牲になると思うのだ」
「まあ、座れ」
 ヤイルは隻眼を光らせ、周囲の人間を退かせた。側近たちも敬意を持ってヤイルの指示に従った。今やヤイルはエステルをもしのぐ、絶対的な信を集めているのだった。
「この国は乱れすぎておる」ヤイルは自らの器に酒を注ぎ、そしてほかにも三つの器に酒を注いだ。三人に勧める。「ことに怪しげなまじないや祈祷を行う邪教に心を奪われた者ども、神はこれを一掃し、この地を浄めることをお望みだ。汚れたものは焼き払わねばならぬ。でなければ、神の王国が成就せん」
「そう言っているのか、神は」スサノヲが訊いた。
「おおよ。俺のここに」と、ヤイルは自らの頭を指で叩いた。「囁きかけておられる」
「いつからだ」スサノヲは重ねて尋ねた。「いつからその声が聞こえるようになった」
「ずっと前からだ」
「ずっとといっても、そのようなこと、大陸では一度も言っておらなかったな」と、モルデが指摘した。
「はっきりと聞こえるようになったのだ。ああ、この大戦(おおいくさ)が始まったあたりからな」
「つまりは新月の日ということか」スサノヲは確認した。
「うん? ああ、そのようなものだろう。わが祖先にはかの予言者アモスがおられる。おそらくはこの身に流れる予言者の血にこそ、今ここで神は語りかけられたのだろう」
 満足げに酒を口に運ぶ。その言外には、「エステルではなく」というニュアンスがあからさまなほど含まれていた。
「アモスなら俺も同じ祖先だ。言い伝えによればな」と、モルデは言った。
「同じ血が流れていようが、神は自らの御心に従う者にしか語りかけることはなさらぬ」
「俺も神の御心には従って生きているつもりだったがな」やや自虐的とも取れるような言い方をモルデはした。
「そうかな?」ヤイルは隻眼をモルデに、そして次にカーラに注いだ。「トリカミに潜入させておる密偵から、先ほど知らせがあった。ヤマトの巫女はカガチに殺されたそうだ」
「イスズ様が?!」深甚な衝撃にカーラが声を上げた。瞳孔が開いたようになり、半ばほど開いた口のまま彼は凍り付いていた。
「我らと同じ血を引く者であっても、朱に交われば赤くなる。どうも聞くところによれば、そのイスズという巫女、他のこのワの国の巫女たちと似たような邪教に染まっておるらしいではないか」
「ち、違いまする」カーラが反論したのは、ひと呼吸もふた呼吸も後だった。「我らは真の信仰を捨てたわけではない」
「信じられぬな」嘲笑った。「それならなぜおまえらは巫女などを戴いておるのだ。他のよこしまな神々を信奉する部族となれ合っておるのだ」
「イスズ様は他を否定する必要がないと申されておりました」
「あり得ぬ」ヤイルは断じた。「この世には唯一の神しかおらぬ。ほかを認めるなど、決してあり得ぬ。そのような邪教に堕した者どもの話など、悪魔の誘惑にも等しいわ。その誘いにうかうかと乗るモルデ、おまえの耳に神が囁きかけぬのも道理」
「なにぃ……」モルデの顔色が変わった。
 スサノヲはその肩に手をかけ、モルデを制止した。そして、「ヤイル……なぜトリカミを攻めない?」と訊いた。
「なに?」隻眼がちらっと動いた。
「トリカミにいるカガチの本隊は、今弱っているのではないか。敵の大将がそこにいて、なおかつ手薄な状況だ。普通に考えれば、このカナンの主力を持ってカガチを潰しに行くというのが常道ではないのか。カガチさえ討ち取れば戦は終わる」
 その質問はヤイルの痛いところをついたのは間違いなかった。
「カガチを討ち果たすのは最後の楽しみよ」
「そうしてタジマやコジマの軍勢と一進一退を続けているのか。解せぬ話だな。単なる消耗戦でしかない。時間がたてば、カガチは軍勢を立て直すぞ。キビやヒメジから増援が来るかもしれん。そうなれば不利になる一方だぞ」
「神のご指示がない」むっつりとしてヤイルは、眼をそむけ酒を口に運んだ。
「おまえの神はずいぶんと理不尽な戦術を強要するのだな」
「神の御心は計り知れぬからな」
「怖いのではないか」
「…………」
「あの男が。だとすれば、それを怖がっているのは誰だ? 神か?」
「黙れ!」
 幕屋の喧騒が一瞬にして静まり返るほどの怒声だった。手にしていた器を投げ捨て、ヤイルは立ち上がると脇に置いていた剣を抜いた。女たちから悲鳴が上がる。それをスサノヲに向ける。
「貴様の言うておることは神への侮辱。許さぬぞ」
「そんなつもりはさらさらない」スサノヲは眼を上げて言った。「侮辱を感じておるのは、おまえ自身だろう」
 一触即発の空気が、その場に張りつめた。カナンの兵たちも息を殺すようにして成り行きを見守っていた。
「ヤイル――見せたいものがある」ゆっくりとスサノヲは立ち上がった。そして「ついて来い」と背を向け歩き出した。その場を動かないヤイルを振り返る。「どうした? 不安なら手勢を連れてくればいい。やはり怖いのか」
 憤りをあらわに唸り、ヤイルは歩き出した。剣は鞘に収めず、スサノヲの背後に今まさに斬りつけるような距離でついて行く。モルデやカーラがそれに続き、幕屋にいた何人かも興味を覚えてか、彼らの後を追った。
 スサノヲが導いたのは、先ほどの椿の前だった。
「このような寒い季節にも花が咲く」と、椿の一輪の枝をそっと掌で受けるようにしてスサノヲは言った。「美しいとは思わぬか」
 ヤイルは隻眼を細め、ややあって苦笑めいたものを浮かべた。「何の話だ」
「ヤイル、この花は何色だ」
「赤……」
「この地上に咲く花、他にどんな色がある。おまえは他にどのような色の花を見たことがある」
 答えるのもばかばかしいと思ったのか、ヤイルは沈黙していた。
「白、黄、青、紫……数多くの花を俺はこの地に来るまでに見た。形も色も、香りもそれぞれに異なっていた」
「…………」
「この花を創造したのは?」
「……神だ」
「神はなぜ花を一色(ひといろ)だけにしなかったのか、なぜ多くの形を作ったのだと思う」
「…………」
 ――全部が同じ色になってはつまらないと思いませんか。赤や青や緑や黄、黒や白……いろいろあるから楽しいし、面白いものです。
 スサノヲの脳裏にクシナーダの言葉がよぎった。
「この世を彩る花にもいろいろなものがあったほうが、神も良いと思われたからであろう。いろいろあるから楽しめる。何もかも同じではつまらぬ――そうは思わぬか」
「何が言いたい……」
「この地上に肌の色や言葉や風習が違う多くの民が存在しているのも花と同じこと。神がそれを善しとされたからだ」
「何を言い出すかと思えば……」ヤイルは嘲笑い、そして手にしていた剣を一閃させた。
 スサノヲの近くで花弁を広げていた一輪が落ちた。
「花と人間は違うわ。我ら以外のすべては、神の道から外れた堕落した民どもよ!」
 どうでも動かぬ、頑迷そのものの傲岸さがヤイルの言葉、表情に滲み出ていた。スサノヲはじりっと片足を前に出しながら、憤りを発して言った。
「花も人も神の創造物に違いあるまい」
「笑止」
「そなたらもこの花のように、ただこの地に根付き、あたり前に咲けばよいだけのこと」ヤイルが切り落とした椿を拾い上げ、スサノヲはそれを突き出した。「なぜ、それがわからん。それが許されるのだぞ」
「我らは神に選ばれた民。同じ花であったとしても、そのあたりの道草に咲く花とはわけが違う」
「同じ命であろう!」
「同じではない。神に使える我らの価値ある命と、他は無価値な命よ!」
「聞け! そなたたちも!」スサノヲは幕屋からついてきたカナンの兵士たちにも語りかけた。「本来、このワの島国はそなたらのものではなかった。後から来たそなたらは、このワの民たちに受け入れてもらわねばならなかったのだ。それが可能だった。アシナヅチがそう告げたように。だが、そなたらは受け入れてもらう努力ではなく、逆のことをしている。他を否定し、自らの存在を誇示し、他を支配下に置こうとしている! それが間違いの始まりなのだ!」
 いつの間にか、中にいたはずのエステルやカイの姿も幕屋の外にあった。彼女もスサノヲの言葉を聞いていた。

「この花のように、そなたらは切りとる必要のない花々を散らせているのだ。この地の民も、そしてそなたらの命もだ! 半島でいまだ待つそなたらの家族のことを思い出せ! 家族と一緒にこの地で安らかに暮らせるのだぞ! なぜその選択をしない! 共に和となり生きろ! それこそが神の道だ!」
「このような者の言葉にたぶらかされるな!」ヤイルは怒鳴った。「我らは受け入れてもらう必要などない! 我らの主たる神が、すべてを我らに与え給うからだ! 愚昧な者どもは滅ぼしてしまえばよいのだ!」
 スサノヲとヤイルの間に明瞭な殺気が走った。この瞬間、スサノヲの心にもはっきりとした殺意が生じていた。この男を排除しなければ、人は死に続け、悲しみは蔓延し続ける。そのためには――。
 スサノヲはほとんど腰の剣に手を動かしかけていた。実際、抜きたかった。その誘惑は熾烈なものであり、ほとんど抗いがたいものへと一気に高まった。
 ヨモツヒサメから受けたダメージは、まだ回復には程遠かった。が、ヤイル一人を斬り捨てることくらい、できぬ俺ではない――。
 ぴくっと手が動いた。その瞬間にヤイルは反応して剣を構えた。
 が、スサノヲはその自分の手に先ほど拾った椿があることを意識し、その一輪が彼を思いとどまらせた。クシナーダの面影がふっと脳裏をよぎる。やめて、と彼女が声なき声で言ったように思えた。
 危ういところでスサノヲは殺気を体内から追い払った。背筋に冷たいものが走る。それは隙あらば付け込もうとするヨモツヒサメの気配だった。ヤイルに向けて踏み出していた足を引く。
 ふうーっという吐息と共にヤイルも剣を引いた。
「よけいな口出しは無用。邪魔をするなら、いかにお前でも容赦はしない」ヤイルは踵を返し、自分がいた幕屋のほうへ向かった。通りすがりに右の隻眼がエステルを捉えたはずだが、臣下の礼も取らず、足早に去る。部下たちに「座興は終わりだ。さあ、呑み直しだ!」と声をかける。
「すべてはわたしの責任だ」近づいてきてエステルは重い口を開いた。月光に照らされることで、やつれたその顔の頬がよけいに落ちているように見えた。「すまない、スサノヲ」
「俺よりも、カーラや亡くなったイスズという巫女に詫びるべきだろう」
「亡くなった? イスズという者は亡くなったのか」
「カガチに殺されたそうだ」
「イスズ様は後からきっとこの地に到来する仲間を、命かけてお導きするお心積もりでした。モルデ様を逃がすために、きっと身を挺されたのだと思います」
 モルデも沈痛な面持ちだった。それを見てエステルは、さらに濃い苦渋をにじませた。
「すまない、カーラ」
 カーラは俯いていたが、「いえ」と顔を上げた。「エステル様、それにスサノヲ様、私は一度トリカミに戻ります。イスズ様はこれより後、私はアナト様にお仕えするよう命じられました。きっとイスズ様は深いお考えあって、そのように命じられたはず」
「そうだな。トリカミに囚われている巫女たちのことも気になる」そう言いながら、スサノヲも自分が戻りたいほどだった。だが――。
「場合によっては、命に代えてお助けいたします。途中で会ったイタケル様やニギヒ様ともそのようなお話を致しました」
「頼む……」
 カーラは頭を下げると、すぐにその場を離れた。歩み去っていくというよりも、風のように消えた印象だった。
「エステル様、ここはお寒うございます。兄さんも、みんな、中に入って話そう」と、カイが言った。
 エステルもモルデも、幕屋の中へ引き上げていく。スサノヲもそれに続きかけ、一度足を止めた。振り返った夜空の月は、すでに西へ沈みかけていた。
「サルタヒコ……見ているのだろう」スサノヲは空に向かって言った。「俺にここで何をさせたいのだ。ヤイルを打ち倒せというのか」
 夜空は沈黙したままだった。
「教えてくれ」
 羽音もなく、風の音だけが聞こえていた。



 夕方、いつものように巫女たちに食事を運ぶと、スクナは家屋を出てきた。
「ご苦労さん」と見張りの兵が声をかけてくる。以前にはなかった気安さだった。それに対してスクナは、にっこり笑顔を返した。
「おじさんたちのも、すぐに持ってくるから」
「ああ、頼むよ」
 イスズが抜け出して以来、見張りの兵は増員され、五人になっている。しかし、彼らはトリカミの里人たちが仲間の傷病者たちの回復のために働いたことで、かなり気を許すようになっていた。その見張りが交替するのは夜半――時間はたっぷりとあったが、問題はタイミングだった。
 スクナは、夕餉に集まる里人たちのところへ戻ると、作られた食事を五人分、別な土鍋に分けてもらった。それをあらためて火にかけ、乾燥した植物の葉をそれに加えて煮た。日が暮れて行くのを見つめる彼女の眼は、里人の中にこっそりと紛れ込んだイタケル、オシヲの姿を確認した。夕闇が濃くなってきたので、抜け道から入り込んできたのだ。
 トリカミの里自体、かなり広範な土地である。主だった道筋にはオロチ軍の兵が警備しているが、至るところに隙間がある。里人にとってはこっそり出入りすることは難しくなかった。
「どうだ?」イタケルは近寄ってきて言った。
「大丈夫。二人はあれ持って、ついてきて」
 スクナに言われて、イタケルとオシヲは用意されていた薪や枯葉などを担いだ。すべての段取りは、スクナによってなされていた。
 スクナが食事を運んでいくと腹を空かせていた見張り兵は嬉々としたが、ついてきたイタケルとオシヲが荷物を下ろすのを不審げに見ていた。
「ねえ、ここで焚火してもいい?」と、スクナが訊く。
「あ、ああ」彼らは顔を見合わせた。
「栗を焼くんだ。巫女様たちに差し上げたいし、おじさんたちも食べるでしょう?」
「ああ、そういうことなら」「この寒さだ。むしろ大歓迎だ」などと、兵たちは笑顔になった。イタケルとオシヲが荷物を置くと去って行ったので、彼らはよけいに気を許した。
 篝火から種火をもらうと、集めた枯葉はすぐに燃え上がった。小枝、そして大きめの薪という順で火を大きくしていく。その間に兵士たちは焚火のまわりで暖を取りながら食事をし、談笑した。
「俺たちの里でも、栗は冬の間の大事な食糧だからなあ」
「あのバチバチ弾ける音がたまんねえよ」
「いや、楽しみだ。ここの里の栗は実が大きい」
 炎を大きさを見て、スクナは乾燥した植物の束を放り込んだ。
「なんだ、そりゃ」と尋ねる兵士。そのときには、すでに頭がぐらぐら揺れていた。
「これを燃やすと良い灰ができてね、栗がうまい具合に焼けるの」
「へえ~、なんて草だ」
 スクナは答えたが、彼らが覚えることはなかっただろう。もうもうと上がる煙が、風にまかれて彼らの気管に吸い込まれた。スクナは息を止めたり、風上に回ったりするなどして、煙を吸い込まないようにしていた。
 もはや立っていられる者はいなかった。
 すでにあたりは闇が濃厚で、半月の月明かりだけが頼りだった。この異変に気づく者もいない。
「ごめんね」と、スクナは兵士たちに詫びた。

 その夜、クシナーダは他の巫女たちにいつでも抜け出せるように身支度を整えさせていた。
「クシナーダ様、本当にここを出られるのでしょうか」アナトが尋ねた。
 その問いにもクシナーダは笑顔で応えた。「スクナが必ず迎えに来ます」
「あのような子供がいったいどのようにして……」
 戸板を叩く音がしたのはその時だった。動かされた戸口の隙間から覗いたのは、そのスクナの顔だった。
「来たよ、クシナーダ様」悪戯っ子みたいな笑顔でスクナが囁く。
 巫女たちは唖然として顔を見合わせた。
「さあ、行きましょう」クシナーダが呼びかけ、彼女らは外に出ていく。
「あ、あの女性(ひと)は……」と、スクナは動こうとしない一人の巫女を目に留めて言った。
「良いのです。行きましょう」クシナーダがやんわりと肩を押す。
 そのクシナーダは家屋を出るとき、残った女性に対して深々と頭を下げた。女性もこうべを垂れていた。スクナはクシナーダの表情に悲しみとも苦しみともつかぬものが浮かんでいるのを見た。
 外に出た巫女たちは、寝転んだりしゃがみこんだりしている見張りの兵士たちの姿に驚き、立ちすくんだ。寝ている――と思ったら、かならずしもそうではない。彼らはぐらぐら頭や体を揺らし、まるで酒に泥酔して酩酊しているような状態だった。巫女たちを見てもにやにや笑い、自分の妻の名前を呼んだりしている。
「また、お酒を――?」と、アナトは尋ねた。
 しかし、前回イスズが抜け出したときのことがあるので、兵士たちに同じ手が通用したとは思えない。
「夕餉に、ちょっとね。それにあの煙も吸わせたから」
 巫女たちが囚われていた家屋の近くには、まだ煙を立ち上らせている焚火があった。
「あの煙を吸わないようにね」と、スクナは警告した。
 巫女たちは慌てて袖で口をふさいだ。
「スクナは様々な薬草の効用とその知識に長けているのです」クシナーダは説明し、スクナの肩に手をかけた。「ありがとうね。スクナだったらきっとなんとかしてくれると信じていました」
 えへ、とスクナが笑う。そこへイタケルとオシヲが走ってやってきた。
「イタケル、オシヲ……よく無事で」クシナーダは感嘆をにじませた。
「行こう。ぐずぐずしていたら気づかれる」と、イタケル。
「西の磐座のところでニギヒ様と、ニギヒ様の部下が集まってる」と、オシヲ。
 イタケルたちの導きを受け、巫女たちは夜陰に紛れ、里を抜けて行った。その姿をこっそり家屋の中から見ている里人たちもいることに、クシナーダは気づいていた。彼らは今宵の企てを知っていて、皆、クシナーダたちが無事に脱出できることを祈っている。いや、もしほかの兵士たちに察知されるようなことがあれば、身を挺してでも守ろうとしているということが伝わってきた。
 彼らの祈りと期待が、夜の大気を通じて流れ込んでくる。
 ――これでは、もしかしたら……。
 クシナーダは危惧を抱いた。
 西の磐座は斐伊川にもっとも近い、里の境界線になっている場所だ。里を聖域化している結界の要ともなる機能を有している巨岩の一つだ。そこが近づくと住居もなくなり、森の茂みも深くなってくる。
 明かりも使わず、沈みかけた月明かりだけを頼りに移動できるのは、地理を熟知しているからこそだった。里の周囲を警戒する兵士たちの場所もスクナが事前に調べていた。彼女しか知らないような抜け道を使い、隙間を縫うようにして移動する。
「大丈夫ですか、ナオヒ様」と、クシナーダは小声で気遣った。
「年寄りにはきついわい……」ナオヒはさすがに息が上がっていた。
「もう少しですから頑張ってくださいね」
「年寄りを鞭打つ、お優しい言葉じゃな」
 磐座が月明かりの中にシルエットで見えた。すでに兵士たちの包囲の外である。
 巨岩の周囲にはニギヒと招集をかけられた配下たちが待機していた。屈強な男たちの存在は、巫女たちを安堵させた。
「クシナーダ様、それにナオヒ様、ご無事で何よりです」ニギヒが言った。
「言った通り、なかなかしぶといじゃろ?」と、からかうようにナオヒが言った。
 そのときまで、彼らのだれも気配を察知することはなかった。いつの間にかそばに来ていた人影が声を発することで、彼らは飛び上がるほど驚かされた。
「皆様……」その男は、カーラだった。
 彼は食い入るように凝視し、巫女たちの顔をゆっくりと確認して行った。その中に彼の主であった女性の貴い姿がないことを、あらためて確認するように――。
 その眼に涙が滲み、口はへの字に歪んだ。
「なんなりとお申し付けください」
 彼がそう言って膝を折ったのはアナトの前だった。


「カガチ様!」イオリの取り乱した声が響いたのは、それからしばらく後のことだった。
 カガチは祭殿の一角で、ヨサミに給仕させ、酒を呑んでいた。
「巫女どもが逃げました! み、見張りがおかしなもので眠らされッ――」血相を変えてやってきたイオリは、報告を聞いて眉一つ動かさないカガチに、一瞬、言葉を詰まらせた。「す、すでに追手をかけております。すぐに見つけ出し――」
「捨て置け」ぼそりとカガチは言った。
「は?」
「捨て置けと言った」
「い、いや、しかし」
「あの巫女どもも、もはや用済み。連れて歩いても足手まといなだけ」
「は、はあ」イオリはカガチの真意を測りかねていた。怒り狂ったカガチに殺されるかもしれない覚悟で来たのに拍子抜けしたというのもあろうし、何よりもどっと安堵したためか、真っ青だった顔に血の気が戻ってきた。
「道草の花、むしり取ったところでもはや何の益にもならぬわ。のう、そうであろうが、ヨサミ」
 話を振られ、ヨサミは黙って見つめ返した。
「あ、ああ、あの、しかし、カガチ様」イオリはさらに顔色を窺いながら続けた。「ただ、一人だけ、巫女が残っております」
「なに?」カガチはむしろそのことに驚きに打たれたように反応した。
「アカルが残っております。一人……」
「アカルが?」
「は、はい」
「呼んでまいれ」
「わかりました!」
 部屋を飛び出して行こうとするイオリを、カガチは今一度呼び止めた。
「イオリ、心しておけ。我らは明日、ここを出立する」
「え? イズモに進軍されるのですか」
「タジマのミカソらと合流する。そしてカナンとの最後の戦いに備える。よけいなことに気を回さず、兵たちもゆっくり休ませておけ。よいか」
「は、はい。しかし、このトリカミや動けない傷病兵はいかがなされます」
「この地はもはやどうでも良い。守備兵も残さぬ。動けぬ者はここに残す。わかったな」
「は!」イオリは頭を下げ、その場を足早に去って行った。
 その足音が聞こえなくなった頃、ヨサミは言った。「お気づきだったのですか」
「おまえがくれた〝力〟だろう。今夜、おかしな気配があるのは感じておった。イスズが抜け出したときと同じようなものだ」
「なのに見逃された……」
 カガチは酒を呷った。「……俺も馬鹿ではない。クシナーダが言うには、この里が封印してきた〝力〟は解き放たれた。アカルにせよ、キビの巫女どもにせよ、このトリカミを禁忌としてきたのはそれが理由であろう。しかし、その禁忌が破られたとあれば、巫女どもが俺の言うことに従う理由はなくなる。半分はな」
「半分?」
「ことキビからはクロガネ作りのためという名目で、多くの者をタジマやイナバに人質に取っている。それが残り半分。おっと――お前の国からも取っていたな」
 ヨサミはそのことには何も返さず、ただカガチの手の中の器に酒を注いだ。そのことは今言われるまで、ヨサミ自身、ろくに思い出しもしなかったことだった。いや、考えるのを避けていたのかもしれない。タジマにはヨサミの従兄に当たる人物も人質に取られていた。
「キビから徴収した兵士たちも、洪水でほとんど死ぬか、動けぬ状態だ。このような有様に至り、キビの巫女たちが俺から離れようとするのは必定であろう」
「なぜ、お見逃しになったのですか」
「この戦が終われば、カナンという最大の邪魔者はいなくなる。キビにしてもこの戦に兵力の大半を差し出した」
「つまり弱体化したキビなどいかようにもできると? 巫女を人質にする必要もない……」
「そういうことだ。幸いにも洪水で損失したのはキビとヒメジなどから集めた兵力がほとんど。タジマの本隊はカナンの東に温存されておる」
 たしかにカガチの支配するタジマの主力は、まだ残されているのだった。ある意味、カガチには現状でさえ好都合なのかもしれなかった。
「封印されしものが解き放たれたのなら、もはやこの里の巫女を盾にとっても、あいつらを意のままにすることは難しかろうしな」カガチはまた酒を口に運んだ。「俺にとっても手元に置いておく価値がなくなったということだ」
 しかし――。
 それだけだろうか、とヨサミは考えた。以前のカガチならクシナーダを含む巫女すべてを殺してしまい、もしそれでこの里人たちが反感を抱くなら、この里すべてを滅ぼしただろう。言葉の上では微妙な違いでしかないようだが、よくよく突き詰めれば彼の変容はきわめて不可解なものに思えた。彼自身、言葉にしたような理由で自分を納得させているようにも聞こえる。
「しかし、となれば、問題はタジマやイナバにおるキビの奴隷どもだ。あの巫女どもはそれをなんとかしたいはず……」
 カガチが独り言(ご)つのも、ヨサミには筋が通ってないように思えた。ならば、よけいにキビの巫女たちを捉え、動きを封じなければならないはず。
「そうか……読めた」カガチはふっと笑った。
 そのときイオリがアカルを連行して戻ってきた。その彼にカガチはすぐに告げた。
「イオリ、コジマ軍の動きに注意しろ」
「え? コジマですか」
「コジマはカナンの北側に侵攻しておるな」
「はい。現在は意宇の湖(おうのうみ)を挟んだ場所に陣を張っております」※意宇の湖=現・宍道湖
「すぐに使いを出し、反乱の動きがないか、タジマの水軍に見張らせろ。妙な動きをするようなら討て。コジマ内に潜らせている密偵にも伝えておけ」
「わかりました」
 カガチは顎を動かし、イオリを追い払った。その場にはアカルとカガチ、そしてヨサミだけが残された。
「なぜ逃げなかった」
 そう問いかけるカガチに、アカルは伏し目がちのまま応えた。
「わたしはタジマの巫女。わたしがいなくては、軍の統率に影響が出ましょう」
「笑わせるな……。キビなどと違い、タジマは俺が直接支配しておる地だ。お前がいようがいまいが、影響はない」
「十六年前のあの日より、ずっとあなたのことを見てまいりました」アカルは眼を上げ、カガチをまっすぐに見た。そして、彼の前に跪いた。「どうか、最後までおそばにいさせてください」
 その姿と言葉は、ヨサミに激しい嫉妬を掻き立てさせた。自分が顔色を失っているのがわかる。
「どういう風の吹き回しだ」
「わたしの命はもう長くありませぬ」
「…………」
「わたしはあの日、あなたの命を救いました。その時の借りを返していただきとうございます」
「借りと言うか」
「はい。なれば、どうか、最後までわたしに事の成り行きを見届けさせてください。それがわたしの最後の望みです」
「そんなことのために、一人残ったのか」
「そんなこと、ではありませぬ。そのことのためにだけ、わたしは生きてきたのです」
 アカルの青白い額のあたりから、なにか鋭いものが立ち上っていた。ヨサミはめまいを覚えた。アカルの思いつめた、必死な何かに、圧倒されながら、同時に嫉妬もし、そしてさらに――。
 憧れさえ覚えた。
「よかろう」カガチはそう言い、無表情に酒を呑んだ。




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