ヤオヨロズ 16 第4章の4 |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

◇◆◇第4章 闇満ちる時 ◇◆◇


「こっちだよ。早く」
 小さな体のスクナが、山野を駆けて行く。ニギヒはそれについていくだけで精いっぱいだった。薬草取りのため、周辺の土地の獣道や抜け道のことも知り尽くしているというスクナは、時に子供でしか通れないような木々が折り重なった穴を抜けたりもした。華奢な少女とは思えぬほどすばしっこく、体力もあった。
 いい大人のニギヒのほうがむしろ息が上がりそうになったが、里をかなり離れたところでようやく沢に沿った歩きやすいルートに変わった。どうやらスクナは散り散りになったカナン兵やオロチ兵に遭遇する危険を考えて、およそ人が歩くような場所でないところをあえて選んでいたらしい。
「岩戸はこの川の上流にあるんだよ」と、スクナが言った。
「スクナはそこへ行ったことがあるのか」荒い息を整えつつ、ニギヒが訊いた。
「うん。まえに薬草取ってて、たまたま迷い込んじゃったんだ。あとでアシナヅチ様に言ったら、そこが岩戸だって教えてくれた」
「どれくらいかかる」
「半日――ああ、もうちょっとかかるかもしれない」スクナは何気なくニギヒの足もとあたりを見ていた。ニギヒの足ではもう少しかかりそうだと踏んでいるのだ。
「私のことなら心配するな。ついて行くから」
「でも、スサノヲが戻ってきているんだったら、もしかしたらどこかで会えるよ」
「なるほど。そう願いたいな――」
 茂みが騒ぐ音が二人の会話を中止させた。斜面の上方から鎧の立てる音とともに、男たちの話し声も聞こえた。
 ニギヒとスクナは顔を見合わせ、沢に転がっている大きな岩の背後に回った。
 カナン兵たちだった。五人いた。彼らは警戒しながら山の斜面を下ってきた。
「大丈夫だな」
「ああ、オロチのやつらはたぶんもうトリカミのあたりまで進んでいるはずだ」
 彼らはもともと峠を防衛していた部隊だった。しかし、戦況があまりにも不利だったため、一度戦線を後退させたところで、夜陰に道を見失った者たちだった。
「ここからもう少し西へ迂回して、イズモのエステル様に合流しよう」
「…………」
「どうした?」
「いいのか、それで」
「何を言う」
「この戦、俺たちは負けるぞ。あのオロチの大将の戦いを見たか。あの化け物には誰もかなわない」
「なんだって……」
「いや、シモンの言うことはもっともだ」
「ヤコブ、貴様もか!」
「いいか、カイ、冷静になれ」
 彼らは沢へ降りてきたところで口論を始めてしまった。
「数だって違いすぎる。おそらくイズモも落とされる」
「じゃ、どうするんだ。ここは俺たちのために神が下された土地だぞ。ここ以外にどこで生きるというんだ」
「半島に戻り、もう一度、戦略を練り直すのだ」
「馬鹿な、ここまで来て……」
 彼らが早く通り過ぎてくれれば何も問題はなかった。が、彼らは足を止めてしまった。このままでは目に留まってしまう危険を感じ、スクナとニギヒはさらに岩の裏側へ回ろうとした。そのとき、スクナのつま先が小石を突き動かし、これが転がり落ちた。
「誰だ!」
 神経過敏になっていたカナン兵たちの反応は素早く、彼らの眼は岩陰に二人を見出した。
「オ、オロチだな!」
 五人は剣を抜き放ち、いっせいに詰め寄ってきた。
 ニギヒも剣を抜き、岩陰から出た。背後にスクナをかばいながら。
「われらはオロチの者ではない」と、ニギヒは言った。
「オロチでもないのに、なんでこんなところにいる」そう叫んだのは、カイだった。
「私はツクシの者だ。この戦いに巻き込まれたに過ぎぬ」
「なんでもいい。俺たちがここにいたことを報告されたら困る」
「ただの民がそんなご立派な剣を持つかよ」
「きっとカガチの連合国の者だ」
 死の恐怖と戦い続け、ひと夜を逃げ延びた者たちは、保身しか頭になかった。喚き声をあげ、斬りかかってくる。ニギヒは剣を合わせ、押し返した。と思うと、すぐ別な者が剣を突きだしてくる。あわやというところでかわすが、岩場に足を取られ、尻餅をついてしまう。
 斬られる、と思った瞬間、ニギヒに迫ってきていたカイの顔面にこぶしほどの石が命中した。スクナが投じたものだった、頬骨のあたりを押さえるカイがひるんだ隙に体勢を立て直し、ニギヒは巨岩を背に剣を構えた。
 武装も違う。相手が五人もいては、どうにもならなかった。
「スクナ、そなただけでも逃げろ。スサノヲを迎えに行け」
「だめだよ、そんな!」
「スサノヲだと……?」カイはなおも顔面を片手で押さえながら、ふと正気に返ったような反応を示した。
 その時、風が吹いた。山の斜面を風が茂みをざわつかせ、駆け下りてくる。それにつれ、木々に残る雪が舞った。
 その風は二人がよりどころとする巨岩の上に降り立った。
「スサノヲ!」スクナが頭上に立つ影に叫んだ。
 スサノヲは抜刀すると、剣を無造作に一閃させた。その剣圧がとてつもない〝気〟となって、五人のカナン兵全員に強烈な衝撃波を叩きつけた。剣に触れるわけでもなく、彼らは残らず吹っ飛ばされていた。
 カイは沢に背中から倒れ、一瞬にしてずぶ濡れになった。
 ニギヒが驚嘆の眼差しを送る中、スサノヲは剣を鞘におさめ、二人の前に降り立った。
 やや遅れ、斜面をイタケルとオシヲが下りてきた。そして現場の状態を見て、目を丸くした。

 ヘックショイ! ヘックショイ!――と、幾度もカイはくしゃみを連発させ、鼻水を垂らしていた。しかも左頬は青あざを作って腫れあがっている。
「ちくしょう、踏んだり蹴ったりだ」と、恨めしそうにぼやく。「スサノヲの知り合いだっていうのなら、先に言ってくれよ」
「命があっただけでもめっけものだと思うのだな」スサノヲは冷たく言った。「五体をばらばらにすることもできたのだからな」
 カイが大げさに震えたのは、寒さのせいか、あるいは恐怖を感じたのか。
「モルデ兄さんが言っていたよ。絶対にスサノヲと事を構えてはならぬと。よく分かった」
 彼らは沢の岩場で、しばし、話し合っていた。
「アシナヅチ様とミツハが亡くなったなんて……」スクナがショックをあらわに、力なくつぶやいた。目に涙がある。
「あのままにしておけなくてな、岩戸の近くに弔ってきた。それで戻るのに時間がかかっちまった。すまん」と、イタケルが言った。
「トリカミは今どうなっているんだろう。父さんや母さん……それにナオヒ様も」
 オシヲの言葉に、ニギヒが答えた。
「私が最後に見た時には、逃げ込んできたカナンはほぼ討ち取られていました。私の連れてきた兵たちは、祭殿に里人を集め、それを守っている状態だった。あのまま戦いが終わったのなら、ナオヒ様も、あるいは多くの里人も助かっているやもしれませぬが……」
「しかし、それ以前にかなり里には被害が出ていたんだろう?」と、イタケル。
「はい。里人は逃げてきた傷ついたカナン兵を助け、それが仇となったようです」
「カナン側に付いたと思われたってことか」
「かもしれません」
「カガチのやつ……」オシヲの眼に暗い炎のようなものが揺らめいた。「クシナーダ様にトリカミには触れぬと約束したのに……」
 空気が変わった。
 沈黙が生じた。重い沈黙であり、それはその場に居合わせたカナン兵たちの胸にも、鋭く突き刺さって来るものだった。
 その静けさの中、一羽のカラスが彼らの頭上の木の枝に止まった。スサノヲは眼を上げ、しばらくその黒い影を見つめていた。
「スサノヲ……?」スクナが気づいて、声をかけた。
 やおらスサノヲは、自分が首にかけていた朱の領布(ひれ)をつかみ、それをオシヲに差し出した。きょとんとして、オシヲは見つめ返した。
「オシヲ、この領布を預かっていてくれ」
「え……なんで?」
「いいから。預かっていてくれ」
「うん……」
「未来を信じろ。この世を去ったミツハが、いつかおまえがこの世を去るとき――ずっと先だろうが――そのときには必ず迎えてくれるはずだ。そのときにおまえが、ミツハに誇れるおまえでいるのだ。そのことだけを考えろ」
「ああ……」オシヲは戸惑いながら領布を握った。
「カイ――」スサノヲは身を乗り出した。「カナンは償いをせねばならぬ」
「償い……?」
「〝殺すなかれ〟〝盗むなかれ〟〝隣人の家を欲しがるなかれ〟――おまえたちは、おまえたち自身の存在意義に背いている。おまえたちはいったい、この島国の何百、いや、何千人を殺した? どれほどのものを盗み、そしてどれほどの隣人の家をわがものとした?」
「な、なぜ、十戒を……」カイは真っ青になった。
「そんなことはどうでもいい」
「そ、それは……。その教えは、わが同じカナンの民の中でだけで存在するもので……」
「つまり異教徒の民には適用されぬというのだな」
「そ、そうだ」
「おまえらのいう唯一の神は、いったいどこまでを創造したのだ!」
 スサノヲの怒号は、その場の全員の体を地震のように動かした。
「この地上のすべてではないのか! ならば、このワの国、おまえらが執着する豊葦原瑞穂の国も、おまえらの神が創造したということではないのか! でなければ、この国の権利を主張することなどできぬぞ!」
「…………」
「異教徒ならば殺してよいのなら、おまえらの神はこの地上のすべてを創造していないことになる」
「い、いや、しかし、神は常に信仰に背く者は滅ぼし、選ばれた者だけを救ってきた」
「かの洪水やソドムとゴモラのときのようにか」
「そうだ。神はこの地すべてを創造されたが、神の教えに背く者がいるだけのこと」
「つまり神の教えに背く異教徒なら殺してもよいと?」
「そ、そうだ……」
 そう言ってから、カイは、そして他のカナンの兵士たちは、スサノヲやその場にいる、ニギヒ、スクナ、イタケル、オシヲらの顔を見た。動揺しきった眼差しで。
「それで良いと本気で思うのか――と、エステルに伝えよ」スサノヲは静かに言った。「自分たちだけが選ばれた民、神に愛されていると者だと、世界中に声高に叫んでみろ。そして望むところすべてを手に入れてみようとしてみろ。未来でも同じような者たちが必ず現れ、いたるところに船出し、その土地を神の名のもとに得ようとするだろう。だが、おまえらと同じように、自分たちの神と信仰こそが唯一のもので、他は認めぬという民がもしおまえらとは別に現れ、おまえらに対峙したらどうなる?」
「…………」
「どちらかを完全に滅ぼすまで、その戦いと憎しみは消えることがなくなるのだぞ。それが神の意志だとでもいうのか? 何も知らぬ赤子や、善良な人々を、おまえらがこの地でいかほど殺したか。この先もそれを続けることを、おまえらは人としてそれを望むのか」
「…………」
「神ではない。人として考えよ。そのようにエステルに伝えよ」
「わかった……」
「ならば、行け」
 カイは周囲の様子を見ながら、ゆっくりと立ち上がった。同調したように、他の四人のカナン兵も立ち上がった。
 彼らは去って行った。
「スサノヲ?」スクナが、今一度、不審げに言った。
「みんな、先にトリカミに戻ってくれ。たぶん、そこはオロチ軍が占拠しているだろう。気を付けて、中の様子を探ってくれ」
「スサノヲは?」
「俺はここで一つやることができた。必ず追いかけるから、先に行ってくれ。イタケル、それにニギヒ、オシヲとスクナを頼む」
 スサノヲは上空を見ていた。誰もがその様子に不審を感じていた。今は一刻も早くトリカミに戻らねばならぬはずだった。それ以上に重要な使命はないはずだというのに、スサノヲは何か違うものに意識を向けていた。
 まさか――イタケルは立ち去りながら、嫌な予感に胸をつかまれ、思わず振り返っていた。
 その胸騒ぎ、嫌な感触は、アシナヅチとミツハが殺されたとき、岩戸の前で感じたそれを思い起こさせた。


「これは……どうしたというのだ」
 トリカミに残存するカナンの兵士たちをあらかた血祭りにあげ、戻ってきたカガチは不審と戸惑いを隠せなかった。巫女たちは一カ所に集まり、気を失っているクシナーダとアカルを介抱していたからだ。親衛隊もこの異常な事態に、巫女たちの行動に制限をかけ続けることはできなかった。意識をなくした二人はまるで死人のような肌の色をし、冷たくなっていたのである。血の気というものがなく、かすかに上下する胸が呼吸があることを伝えてくるだけだ。
「何があった」
 巫女たちは沈黙を守っていた。カガチは苛立ち、声を荒らげた。
「アカル……アカル!」
 怒声のような言葉に、アカルは薄く目を開いた。だが、それだけだった。唇は震え、声を発することもできず、また目は閉じられた。
 カガチはみずから手を伸ばし、巫女たちの輪の中からアカルの華奢な体を抱き上げた。
「おい、クシナーダも連れてまいれ」
 巫女たちは連合軍をまとめ上げるための人質のようなもの。死なせてしまっては元も子もない――という打算以上の動揺が、カガチには見られた。みずからアカルを抱き上げ、運ぶ横顔をヨサミはずっと見ていた。
 さきほどまでの、戦場での悪鬼の如きカガチではなかった。トリカミの里の中心部にある家屋の一つに運び込むと、カガチは部下に向けて怒鳴った。
「火を持って来い! 暖めろ」
「カガチ、わたくしたちにお二人を見させてください」イスズが言った。「男ではどうにもなりませぬ。今は一刻を争います」
「……わかった。任せよう」
「衣を着替えさせます。お出になってください。それからここの里人に言って、着替えを持ってこさせてください」
 カガチは床に横たわった二人の巫女を見、それから家を出た。ヨサミはカガチのそばへ、ほとんど本能的な動きで近寄った。
「なにがあった」
「…………」
「答えよ」
「はっきりとはわかりませぬ……」ヨサミは枯れたような声で、ようやく言葉を返した。「なにか恐ろしいものが里を覆っていました。それを二人は……いえ、皆が押し返したように感じました」
「恐ろしいもの? お前は見てはおらぬのか」
「わたしはもう……〝力〟をすべてカガチ様に捧げておりますゆえに」
 チッ、とカガチは舌打ちした。そして向かったのは、少し離れた場所にある大きな祭殿だった。その前にある広場にトリカミの里人が集まっていた。数はざっと百名近く――。子供の泣き声や怪我人の呻き声が聞こえる。戦闘に巻き込まれ、ここへ運び込まれた者も大勢いるのだ。
 その里人の集団を十名ほどばかりの屈強な男たちが守っていた。たまたま逗留していたイト国の客人だという話だったが、いずれも優秀な兵士であり、オロチとカナンが入り乱れた混乱時にも、集まった里人を守って戦い、犠牲者を最小限に留めた。そのような手練れの兵がこの場にいたことに、カガチは胡散臭さを感じていた。
 その兵士たちも含め、里人の集団を、今はオロチ連合の兵たちが包囲していた。
 里人たちはカガチが近寄ってくると、恐れおののきながらも身を乗り出すようにする者もいた。彼らはクシナーダたちが運び込まれたのを見ていて、自分たちの巫女のことを案じていたのだ。
「巫女の着替えを二着、用意しろ」と、カガチは誰にともなく命じた。「聞こえぬのか! 貴様らの巫女が死にかかっておるのだぞ」
 クシナーダ様が……と里人に動揺が走った。女が一人、群衆の中から抜け出てくる。
「衣を取りに行ってもよろしいでしょうか」おずおずと尋ねる。
 カガチは顎をしゃくり、促した。女は駆け出して行った。
「そなたがカガチか」群衆の中から出てきた老婆が言った。「わしも行ったほうが良いと思うが」
「何者じゃ」
「ツクシのアソの巫女、ナオヒという」
「ナオヒ様……?」ヨサミはその名を聞き、少なからぬショックを受けた。
 カガチはそんなヨサミをわずかに振り返り、老巫女に向き合った。
「アソの大巫女様か。お初にお目にかかる」
「わしもクシナーダとアカルの手当てをしたいが、よろしいかのぉ」
「アカルのことを知っておるのか」
「親戚筋じゃからな」杖を頼りにナオヒは歩いてきて、カガチの前に立った。「アカルはその〝力〟と引き換えに、体は極めて虚弱じゃ。それはそなたも知っておるのではないか」
「治療ができるのだな」
「アカルを癒したいのなら、わしを行かせることじゃな」
「癒せなかったら?」
「こんな老いぼれ、いつ命を取ってくれてもかまわぬぞ。アシナヅチを殺めたようにな」
 固唾を呑み、聞き入っていたトリカミの里人を深甚な衝撃が襲った。アシナヅチ様が?! とざわめきが動揺と共に広がる。
「アシナヅチもミツハももはやこの世におらぬであろう? そなたらが命を奪ったのではないか」
「結果的にはそうだな」
 この瞬間、剣呑な空気が里人の間に流れた。いかにトリカミが穏やかな民だとしても、ここに至るまでにカガチの暴虐は、忍耐の限界に達していたと言っていい。その上、首長まで殺されたと聞いて、殺気立つなというのは無理な話だった。
「アシナヅチはカナンとの戦に巻き込まれた。ただ、それだけのこと。今も好んでこの里の者を殺すつもりはない。――だが!」カガチは鋭い眼光と威圧的な声を民の頭上に投げた。「われらの邪魔をするというのなら話は別だ。俺に目障りだと思われぬことだ。あのクシナーダを生かすも殺すも、おまえら次第――」
「ずいぶんと弱々しい言葉じゃ」
「なに?」
「人を信じられぬから、安心するための材料が欲しいのであろう。それにしがみつき、声高に叫ぶ。それはそなたが弱いからじゃ。今までもそのようなやり方をしてきたようじゃが」
「貴様……」カガチは剣を抜き放ち、ナオヒに向けた。
「はっはっは」と、ナオヒは刃の下で笑い声を立てた。「この枯れ木のような老いぼれ一人、殺すことでしか憂さを晴らせぬか。弱い弱い」
 ぶるっと剣が上下に震えた。が、カガチはわずかな葛藤の後、剣を引き、鞘に収めた。
「年寄りには口では勝てぬわ」
 にっとナオヒは皺だらけの顔で笑い、里人たちを振り返った。「――皆、わしの言葉をアシナヅチの言葉と思うて聞いておくれ」
 里人の目が、ナオヒに集まった。
「かように弱き者の脅しに怯え、絶望することなどない。皆、真の強さとは何か、考えるのじゃ」
 そう言うと、ナオヒは里人に背を向け、クシナーダたちが運び込まれた棟へ歩き出した。
 しばらく沈黙があったが、一人の男の里人が動き出した。カガチのそばを通り過ぎ、オロチ兵の包囲の外へ出ようとする。むろん兵士は剣を向け、出すまいとした。
「どけ。まだたくさん怪我人がいるんだ」里人が決然として言った。
「そうだ。亡くなった者も弔わせてくれ」そう言いながら、また別な里人が立ち上がった。
 次々に同調した里人がいっせいに動き出した。
 兵士たちはどう対処していいものか、困惑した。もの問いたげな表情で、自分たちの王を見る。カガチはまた舌打ちした。武器も持たない者たち――しかし、断固として動き出した彼らを押しとどめる術はなかった。あるとすれば殺してしまうことだけだが、それをするのはあまりにも億劫に感じられた。殺意がそこまで掻き立てられないのだ。
「好きにさせてやれ。クシナーダがこちらの手にある限り、こいつらは言うことを聞くしかない。だが、そのイト国の連中からは武器を没収しろ」
 カガチの命令で兵士たちは動いた。イト国の兵はそれに従った。
 祭殿のそばから人が広がっていく。怪我人も、それぞれの家へと運ばれていく。子供たちもそれにつき従った。
 やがて広場には誰もいなくなった。
 そうなるまでカガチは、動かずにそこに立っていた。彼には民たちのことは、何一つコントロールできてはいなかった。
 その背中をヨサミは見続けていた。喉元まで出かかった言葉が出なかった。
 ――アカル様はあなたのいったい何なの。
 そう尋ねたかったのだ。


 ――良イノカ。
 大きなカラスを媒体に、サルタヒコが告げた。
 ――アノ領布ナクシテ、よもつひさめニ対峙ハデキヌゾ。イヤ、タトエ領布ガアッタトコロデ、焼ケ石ニ水デアロウガナ。
「あの領布がなければ、オシヲや他の者が危険にさらされる」スサノヲはつぶやくように応え、そして剣を抜いた。
 ――馬鹿者ガ。一人デ何ガデキヨウカ。
「黙っててくれ」
 ――来ルゾ。
 スサノヲは見た。
 無数の蛾が覆い尽くすように、空が闇に塗り替えられるのを。





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