岩戸を抜け出ると、愕然となる光景が目に飛び込んできた。足元を浸している水の冷たさ以上に、スサノヲは心臓が一瞬にして凍りつくような胸苦しいショックを受けた。
二つの横たえられた亡骸(なきがら)――それが死体だということは、血に染まった姿で一目でわかった――。
「アシナヅチ……ミツハ……?」
スサノヲは篝火の中でゆらめくその横顔を認め、周囲を見まわした。亡骸のそばにあるのは、打ちひしがれたイタケルとオシヲだけだった。クシナーダの姿は、むろんない――。
「スサノヲ……」暗い眼をしたイタケルが振り返る。
水を撥ねて駆け寄り、アシナヅチの横にひざまずく。その白髪と白髭に覆われた、深い皺の刻まれた顔は、冷たい空気の中で凍ってしまっているようだった。
――そりゃ、わしがしてもらいたいからじゃ。約束を。
その顔が、あの人を食ったような悪戯好きな老人の笑みを浮かべることは、もうなかった。
隣に横たわるミツハも、その白い顔は今はまったく血の気の失せた仮面のようだった。
――わたしも、とてもうれしゅうございました。
あの愛らしく無邪気な乙女の笑顔は、二度と見ることはできないのだと知らされた。
「カガチがここへ来たんだ……カナンのやつらを追いかけて」イタケルが言った。「クシナーダも連れて行かれちまった。すまねえ」
ぽたっ。
地についたスサノヲの手の甲に、生ぬるい水滴が落ちた。それはスサノヲ自身の涙だった。幾度も生前のアシナヅチやミツハの、生き生きとした言動や仕草がよみがえってくる。そして、それがよみがえるたび、彼らがそれを見せてくれることは、もう二度とないのだと思い知らされる。
「これが……悲しみか」スサノヲは、自らの顔を流れ落ちる涙に触れ、言った。そしてまた、その悲しみの底から突き上げてくるものを感じながら、拳を握った。「これが怒りか……」
「俺は許さない」魂の抜け殻のようなオシヲがつぶやいた。「カガチもオロチの連中も……それにこのワの国を引っ掻き回したカナンのやつらも……絶対に許さない。あいつらがミツハを殺したんだ」
それは今のスサノヲには、わかりすぎるほどわかる感情だった。ヨミで彼にもっとも強く憑依してきた男の生とその死にまつわる怨念。
それと同じものをオシヲは抱き、そう、そしてイタケルもきっと、ずっと抱き続けてきたのだ。守りたい、愛すべき人を奪われた者として。
「イタケル……俺はヨミでアワジという娘に会った」
その言葉は、気落ちしていたイタケルに活を入れた。
「アワジに?」振り返る彼の眼の焦点が合った。
「他の娘たちも、皆、ヨミにいた」
「なぜ、アワジたちがヨミに……」
「役目があったのだと。俺を待っていてくれた」
「アワジが……」
「アワジたちは言っていた。失われる自分たちの命が未来を作り出すと」
スサノヲの顔を見るイタケルの眼に、みるみるまた涙が溢れてきた。
「アワジと俺は……ミツハとオシヲのような関係だった。兄妹同然に育って……そんで、俺はアワジのことが……」
「だから、おまえはアワジの妹のクシナーダのことを見守っていたのだな」
うん、うん、とイタケルはうなずいた。そして、戸惑うようにアシナヅチのほうを見た。「アシナヅチ様も似たようなことを言っていた。失われるものなど何もないと……」
「イタケル、オシヲ」スサノヲは呼びかけた。
オシヲも虚脱したような眼をスサノヲに向けた。
「俺はヨミで自分の過去の多くの人生を知った。今、この身としてある前の数多くの一生だ……。俺はこの一つ前の人生で、カナンの民だった」
「!」二人は度肝を抜かれたように目を見張った。
「国を侵略され、妻や子供たち、母も皆、殺された……。この今の身は、そのときの焼き直しのようなものだ。エステルの亡くなった弟、エフライムに似ているのもそのためだ。もしかすると、どこかで血がつながっているのかもしれない」
あの強大な国家(ペルシャ)の侵略を受け、無残に殺され、母親とわが子も殺害され、妻を凌辱された男の人生だった。
「守るべき家族……妻や子を守れなかった、その悔いがたぶん、今もこの身には焼き付いている。どうだ、オシヲ、俺が憎いか? 前の人生でカナンの民だった俺が」
オシヲは眼を見開いたまま、凝固していた。
「俺は数多くの人生を、数多くの民の中で生きてきた。このワの民だったことも、幾度もある。おまえたちとこうして会うのも初めてじゃない」
静まり返った岩戸の前の聖地に、しばし、時間だけが流れた。
「俺が……他の民だったこともあるのかな」いつもは大きなヒビキのオシヲが、かすれた声で言った。
「ある」と、断じた。
スサノヲの瞳の中で、イタケルもオシヲも殺されたわが子たちだった。それは過去世の記憶を持つ今のスサノヲには、疑いようもない自明の理だった。彼らの姿を見ると、過去の子供たちの面影が重なって見え、得も言われぬ懐かしさが湧いてくる。
「おまえたちも前の人生では、俺と一緒に過ごしていた」
そしておおぜいの侵略兵に凌辱され、そのさなかで息を引き取った妻。
それはクシナーダだった。
「俺はもう二度と自分の愛する者を失いたくない。おまえたちと同じように、アシナヅチやミツハを殺された悲しみも怒りも、俺の中にはある。だが、これから俺が行うのは、復讐ではない。ただ愛する者を守り抜くための戦いだ」
オシヲとイタケルは、圧倒されたように無意識に身を引いていた。
あの静かだったスサノヲが……と、驚きがオシヲを満たしているのがわかった。それはスサノヲの眼の中にあるもの、全身からみなぎらせているものに感応してのことだった。
「おそらく今こうなっているのは、前世の影のようなものだ。俺やおまえたちは愛する者との暮らしが理不尽に奪われる記憶を持ち、その記憶がここでまたもう一度影のように蘇えってきている。しかし、同じことを無意味に繰り返すのが人生ではない」
「変えられるのかな……」ぽつりと、オシヲが言った。
「かならず俺が変える。いや――」スサノヲは両手で二人の肩をつかんだ。「俺たちが変えるんだ」
まずイタケルが、スサノヲの手をつかみ返してきた。
「アシナヅチ様が昔、言ってたよ。未来はそれぞれの心が作り出すと。一人じゃなく、たくさんの心が集まって未来を作るんだと」
「俺一人では未来を変えることはできない。だから、力を貸してくれないか」
オシヲの手がそろそろと昇って来て、迷った後、自分の肩にあるスサノヲの手をつかんだ。
「俺、ミツハに褒められる男になりたかった……」
「…………」
「だから、悔しいけど……」オシヲの目から、ぼろぼろ涙が溢れ、こぼれ落ちた。「あいつら、どいつこもこいつも殺してやりたいけど……」
息を詰めるような時間の後、オシヲは血を吐くように言った。
「……スサノヲに預ける。そうする……。俺が復讐に狂ったら、ぜったい……ミツハ、俺のこと、褒めてくれねえもん……」
わあああ、とオシヲは泣き出した。絶叫するようにスサノヲにすがりつき、苦悶し続けた。
岩戸の聖地に、また雪が降り始めていた。
それは彼らの悲しみも憎しみも、静かに覆い隠すような雪だった。
「来たようじゃな」
トリカミの里でナオヒが閉じていた目を開けた。
それは、後退を余儀なくされたカナン軍と、追い打ちをかけてきたオロチ軍が、トリカミの里へ雪崩を打って侵攻してきた瞬間でもあった。
トリカミは斐伊川の中流から上流にかけて、その周辺に広がる一帯である。その中心の里は現・雲南付近にあった。オロチは東から日本海沿いに進行する主力部隊と、それから枝分かれして現・鳥取の日南市付から峠越えをする部隊があったが、その枝分かれ部隊はキビからの連合軍と合流、万才峠を抜き奥出雲へと侵攻を果たした。
それはヒバの脇を抜けて峠越えをしたカガチ部隊との合流を意味したが、それがスムースに進んだのは、いうまでもなく険しい山越えを行い、敵の背後をカガチが突くことに成功したからである。
カナンは当初、山間部のいくつかの峠(現・島根県と鳥取県の境界線付近)で防衛線を張っていたが、カガチが南から防衛線を破り、北からはタジマと児島の水軍が攻めてきたことによって、戦線を維持することができなくなった。最前線の指揮官たちは撤退命令を出し、イズモに主力を構えるカナン本隊への合流を図ろうとした。
その結果――。
山間部のカナン軍が後退する場所は、必然的にトリカミになってしまったのである。
瓦解したカナンの軍は、斐伊川の上流からしゃにむに後退をし、トリカミの里を荒々しく通り過ぎようとした。だが、このときすでにカガチが率いる部隊が、大挙して押し寄せていたのである。
里の中心部は、打ち建てられた柱と、里の周辺に幾何学的に配置された巨石によって、長く守られてきた。それらが里を守る結界としての機能も果たしてきたからだった。しかし、この巨大な土石流のような情勢の前には、もはや現実的な守りを果たせなかった。
里人は知る由もなかったが、守りの要であったはずのアシナヅチの命が失われた今となっては、なおさらに――。
わずかな時間に、静けさに包まれていた里の空気が一変した。甲冑を身に付けたカナンの部隊が、ふらふらになって里に迷い込んできた。それは、少し前にあった出来事の裏返しだった。かつてオロチがカナンによって攻められ、逃げ込んできた。その意趣返しのように、今回は後退するカナンをオロチが追いかけてきた。
喚声が湧いた。怒涛のようにオロチ兵が侵攻し、カナン兵に襲い掛かった。
里は血で染まった。
カナン兵は鎧や、金属を縫いつけた防具を有していたが、この雪と寒さが災いした。重い装備は、深いものではなかったにせよ積雪の戦場では、移動にも戦いにも有利に働かなかった。むしろ兵の体力と体温を奪い、動きを鈍くする足かせだった。
理性を失ったカナン兵は、やみくもに里の住居に逃げ込んだ。それを追いかけるオロチ兵は場合によって火矢をかけ(カヤを落とされた時のように)、炙り出されてきた敵を殺した。だが、その家にトリカミの里人がいて、逃げ出してきたとしても見境なく殺害した。
「ナオヒ様、このままでここも危険です」山の天候のように、瞬く間に急変した情勢に、ニギヒは老巫女に強く言った。「われらに戦わせてください」
「だめじゃ」
「なにゆえに――このままでは、里人が皆殺されます」
「そなたの手勢は十名ほど。そのような戦力でいかほどことができようか。無駄死にするだけじゃ」
「しかし!」
「剣で立ち向かえば相手を逆上させ、争いが広がり、よけいに里人の命が殺められる。それがわからぬか」
ニギヒは言葉に詰まり、拳を握り固め、震わせた。
「なら、せめて、守らせてください」血気盛んな皇子は、言葉を食いちぎるように発した。「里人を集め、われらに守らせてください」
「よかろう。じゃが、ニギヒ、生きるより辛い思いをする覚悟はあるか」
「なにを言われます……」
「クシナーダが言うておったろう。立派な心がけじゃと、じゃが、言葉で言うほど簡単ではないと」
「あ……はい」
「そなたにそれができるかどうか、わしに見せてみよ。クシナーダはそなたよりずっと若い乙女の身でありながら、それを為してきた。そなたにそれができるか?」
「どういうことでしょうか」
「スクナという子がおるであろう」
「スサノヲのそばにいつもいた……」
「あの子を連れて、そなたは逃げよ。そしてスサノヲを迎えてまいれ」
「!」
「里人をここへ集め、そなたの手勢にここを守らせるように言い、そしてそなたはスクナと共にここから逃げよ」
「なにを馬鹿なことを……そのような仰せには従えませぬ」
ふ、とナオヒは笑った。「――ならば、そなたもそこまでの器」
「言っておられることの意味が分かりませぬ」
「よいか、ニギヒよ。失われるものなど何もない」
老巫女の前にかしずき、その顔を見上げるニギヒの表情に不安定な戸惑い、逡巡が色濃く浮かび上がっては入れ替わった。
「失われるものなどないとしてもな、この世で生きておる者は失ったように錯覚する」
「錯覚……」
「命は錯覚ではない。無意味なものでもない。それを知るためにこのネの世界はある。すべては知るためじゃ」
「知るため……」
「実感するためといってもよい。錯覚の上に成り立つ……そうじゃな、これは遊戯じゃ」
「遊戯……」
「じつは失われるものなど何もない。それでもそなたは失われたと思うであろう。そなたの部下である兵たちを。彼らは死ぬやもしれぬ。しかし、クニの長たろうとするのなら、何を生かし、痛みを伴っても何を選択するのか、考えねばならぬ。時には自分の命を大切にせねば、多くの命を救えぬ時もあるぞ」
「ナオヒ様、すみませぬ……。私には何をおっしゃられているのか……」
「わからぬでも良い。わしの言いたいことは、痛みに耐える勇気を持てということじゃ。わしの言うことを信ぜよ。クシナーダ……あのような若い娘でさえできたことが、そなたにはできぬと?」
「いえ……。クシナーダ様がなされたことなら、私もやってみせましょう」
「なら、スクナと共に一刻も早くここを去り、スサノヲを迎えに行け。里人をここに集めよ。しかし、戦ってはならぬ。ただ、守るのじゃ。そのように兵たちに申し伝えておけ」
「わかりました」
「案ずるな。わしも、そなたの部下たちも、意外にしぶといものよ。生きておるやもしれぬ」にっとナオヒは笑った。
先行するカガチが率いる先鋒部隊からやや遅れて、ヨサミや巫女たちがトリカミに近づいた。
近づくにつれ、真っ白な雪が覆った河原、丘、そして森林で、悲惨な光景が目につくようになった。
トリカミの里へ近づくにつれ、黒煙が空に立ち上っているのも目に入った。クシナーダは事態を悟り、囚われの身でありながら、むしろ先を急いだ。そして目の当たりにしたのは、美しかった里が無残に踏み荒らされ、多くの死体と血が作り出す無残な光景だった。
そこではまだ戦乱が続いていた。山境の防衛線から後退してきたカナン兵と、追い打ちをかけたオロチ軍が入り乱れての殺し合いが続いていた。そして、その中には足の遅い巫女たちを置いて先行したカガチの姿もあった。
「カガチ、やめさせてください! トリカミの里には手を触れぬという約束です!」
ヨサミはそのクシナーダの絶叫に、あのカヤを焼かれた時の我が身の悲嘆を重ね合わせた。
カガチはその声を聴いたかもしれなかった。が、かすかに笑みを浮かべただけで、戦闘をやめようとはしなかった。
襲い掛かるオロチの兵。逃げ惑うカナンの兵。
乱入してきた兵士たちに吠えるトリカミの里で飼っている犬。その犬たちも兵の罵声を浴びながら、場合によっては凶刃の被害を受ける。
里人たちは逃げ隠しているのか、姿はほとんど見えなかったが、おそらくオロチ軍は火を使ったのであろう。里の家屋の数棟から、燃え盛る音と黒煙が上がっていた。その中から逃げ出してくるカナン兵、そして里の人々。
「殺(や)れ殺れ! 殺っちまえ!」
嬌声が上がり、殺到するオロチ兵たちは、傷を負ったカナン兵たちも、また善意から負傷兵を助けていたであろう里人も、次々に凶刃の餌食にした。それを目の当たりにしたクシナーダは、兵士によって拘束された身をもがきながら、殺される里人の名を一つ一つ絶叫する。
「ミナト! ヤヒコ! ミナワ!」
クシナーダの叫びを聞いたのであろう、逃げ遅れている里人はすがる思いで、住居を出てきた。そのためにまた矢を浴び、剣で切りつけられる者が続出した。クシナーダは目をそむけ、そしてまた戻し、叫んだ。
「出て来てはなりません! 皆、中にいるのです!」
発声の限度を超え、声帯が破れてしまうような悲痛な叫びだった。家の中にいたからといって、助かるとは限らない。オロチ兵たちは逃げ込んだカナン兵を捜索し、次々に住居に踏み込んで行き、乱暴を働き続けている。土器の壊れる音や悲鳴が後を絶えない。
ヨサミはその光景を呆然と眺めていた。なんの感情もなく。
なにもかもがゆっくりと、時間が粘ったように見える。剣を突き立てられるカナン兵。絶叫。血しぶき。
逃げ惑う人。人。子ら。あるいは動物たち。
武器を持たぬ者でさえ、背後から無慈悲に切りつけられる。
子供であっても、蹴られ、殴られ、そして踏みにじられる。
泣き叫ぶ声。涙。恐怖。震え。
そして――
憎しみと絶望。
ある時、ヨサミの感情のスイッチが入った。まったく無味乾燥な、白けた情景に見えたそれらが、いきなり色彩を帯び、生々しい現実感を伴って、五感すべてを覆ってきた。阿鼻叫喚が聴覚を満たし、生々しい真っ赤な鮮血が、積もった雪に飛び散るのが目に飛び込んでくる。
「やめて……」震える声がひとりでに口を突いて出た。
ヨサミは人形のようにぎこちなく、二、三歩前に踏み出した。今また戦闘の巻き添えになり、子をかばって抱いている母親の背が切りつけられるのが目に入る。火がついたように泣き叫ぶ赤ん坊。
「やめて……こんな……」
高熱を発した時のようにガクガクと全身が震えた。恐怖が全身を這いまわる。そしておぞましさと鋭い嫌悪が胸を鷲掴みにする。
「こんなのをわたし、望んでない……。わたしは……」
おぞましいのは自分だった。嫌悪を感じているのは、自分自身に対してだった。自らの憎しみと呪いが、この現実を生んだ。すべてではないにせよ、この現実の一部に、ヨサミは自分が根深く関与してしまい、自らの手を血に染めている自覚をはっきりと持った。
ヨサミは叫んだ。カガチを呼び続けた。やめて、もうやめて、と。
だが、戦いに没頭するカガチは、そのような言葉を聞き入れる耳を持たなかった。情け容赦なくカナン兵を殺戮して行く。
ヨサミとクシナーダは叫び続け、そしてやがて力尽きて崩れ落ちるようにその場に腰を落とした。どちらの泣き顔も憔悴しきったものだった。
二人の背後には、夜を徹する山越えを行ってきて、やはり疲弊した巫女たちがいた。彼女らもこの無残な光景の目撃者となることしかできなかった。
彼女ら巫女は、いわばカガチの連合軍をまとめ上げる人質のようなもので、親衛隊によって守られているというよりも、事実上は拘束されていた。彼女らはそれぞれ打ちひしがれたクシナーダやヨサミのところへ行こうとしたが、その親衛隊に押しとどめられてしまっていた。
「ヨサミ……」アナトらの目にも涙があった。
ヨサミの受けている悲しみと衝撃。そして自責。
それはすべてアナトらキビの巫女たちが共有するものでもあった。この戦闘に参加している多くの者も、キビの国から招集された兵士だからだ。その兵たちがいかに情勢とはいえ、トリカミの里人たちをも傷つけている。命を奪っている。幼子を槍で突き刺し、残忍に高笑いする。女を犯し、欲望を満たす。そして物を奪い、悦に至る。
その狂気の連鎖がこのトリカミの里で演じられていた。それまでまっとうに生きてきた男たちであっても、殺し合いという恐怖と高揚の中で、狂わずにはおれないのだ。
長く穏やかな暮らしを保ち、そしてカガチによる支配と横暴にもかろうじて耐えてきたこの里の平和が、ついに破られていた……。
「アナト様」と、声をかけてきたのは、キビの中でもっとも年若いイズミだった。周囲の親衛隊の耳をはばかりながら小声で言った。「申し訳ありません」
「イズミ……?」
イズミの横顔には苦渋が浮かび、そして鋭い怒りのようなものが立ち上っていた。
「わたしはカガチからキビが離れることに消極的でした。わたしのワケは、カガチの直接支配するヒメジなどからも近いがゆえに……。しかし、わたしは今、自分に腹が立っています。わたしは憶病でした。トリカミのこの様は、わたしたちの責……」
「イズミ……」
「策を練りましょう。きっと何か道があるはず」
その時だった。アナトたちの背後で、イスズの声が上がった。「アカル様……いかがなされました」
見ると、イスズがその肩に手をかけているアカルは、真っ青になって脂汗を浮かべていた。両手で胸元を押さえて、苦悶に表情をゆがめている。身体が強くないのに山越えを強行したためかと思われたが、そうではないことがすぐにアナトたちにもわかった。
彼らが踏破してきたヒバの山を遠くに見た瞬間、アナトはぞくりとする戦慄を覚えた。その山の姿そのものが、異様な鬼気をはらんでいたのだ。同時にうっと呻き声を発し、シキが両手で頭を抱えるようにした。アナトも激しい嫌悪感と頭痛に襲われ始めた。
「あれは……」霊視能力に秀でているナツソが指差した。
曇天の空は、今は降雪を止めていた。その空に、ヒバの山のほうから言うに言われぬ、真におぞましきものが近寄って来ていた。
すうっと血の気が引いた。これほどの嫌悪を、かつていかなる毒虫や毒蛇にも覚えたことがなかった。アナトは瞬間的に嘔吐するほどのむかつきを感じ、かろうじて耐えながらその気配を自分の周囲から追い払った。が、それは闇の気配の濃厚さに対して、あまりにもか弱いものでしかなかった。
「いや……いや! 来ないで!」ナツソが悲鳴を上げる。
巫女たちはこのとき、一人の例外もなく凍り付いていた。
触れてはならぬもの。
開けてはならぬもの。
ワの国の巫女たちの間でひそかに伝えられてきた絶対の禁忌――このトリカミが封印してきたもの――が、すでに解き放たれてしまったと知った瞬間だった。
「ヨモツヒサメ……」口にしたくもないその名をアナトの震える唇が発した。
巫女たちの動きや視線に、なんだ? というふうに親衛隊も空を仰ぐが、彼らにはその姿を確認することはできない。だが、巫女たちには〝それ〟の存在は現実そのものだった。
ヨミから解き放たれた禍津神――その中でも、もっとも恐るべき〝死の使い〟であった。悪霊の集合体のようなものが、今やトリカミの上空に忍び寄り、漂っていた。それはただ一体でさえ、抗いがたいほどの強烈な〝負〟の磁場を放射しているのに、その数は八体を数えた。彼らは地上に発生する悲しみや憎しみ、そして絶望の想念を吸い上げていた。
そして――
笑っていた。
その笑みを目撃した瞬間、アナトは発狂しそうになった。
「アナト様!」
声と共にシキやイズミが腕をつかまなければ、そのまま意識を飛ばされてしまったかもしれない。危ういところでそのがけっぷちに留まり、アナトはどっと放出した汗が一挙に凍りつく感触を味わった。
「何を騒いでいる」親衛隊が不審げに言った。だが、そういう彼らにも、否定しがたい不調感が生じているようだった。顔が青ざめている。
「アナト様、このままでは……」シキがおそらく無意識にだろう、勾玉を握りしめて言った。「この里の人は死に絶えます」
頷きながらアナトは、自分も勾玉を握りしめた。
「皆、心を強く持って。この里に結界を張りましょう」
「アカル様、大丈夫ですか」
イスズに支えられながら、アカルもなんとか身体を保持する。
巫女たちは勾玉を掲げ、その光を空に発し、結界を広げようとした。だが、ヨモツヒサメのあまりにも濃密で強烈な闇は、それをみるみる押し包み、呑み込んでしまおうとした。
――イイ餌ガアル。
――ゴ馳走ダ。
巫女たちの存在に焦点を合わせたヨモツヒサメの意識が飛んでくる。それは飢えた獣が、餌食となる生き物を目の前にして、涎を垂れ流すようなものだった。その邪悪さ、欲望の根深さは、巫女たちを残らず震え上がらせた。
――コヤツラノ恐怖ハ美味。
――ハハハハ!
光の結界がたわみ、ぼろぼろに腐って行くのが見えた。その穿たれた結界の穴から、ヨモツヒサメの禍々しい〝力〟がどろどろと注ぎ込まれてくる。それはみるみる勢いを増し、土砂崩れのように襲い掛かってきた。
食われる!
アナトは死を覚悟した。
その瞬間、事態に変化が生じていた。打ちひしがれていたはずのクシナーダが、いつの間にか立ち上がっていた。そして勾玉を掲げ、光を放っていた。
その眩い光はヨモツヒサメたちの圧力を押し返し始めた。
「すごい……」シキが感嘆の声を上げた。
クシナーダは眼を閉じ、そして歌っていた。花の歌だった。
゚・*:.。..。.:*・゚命は昇る陽(ひ)
゚・*:.。..。.:*・゚光となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの大地を温める
゚・*:.。..。.:*・゚命は巡る月
゚・*:.。..。.:*・゚影となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの道を照らす
゚・*:.。..。.:*・゚命はそよぐ風
゚・*:.。..。.:*・゚息吹となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの身を生かす
゚・*:.。..。.:*・゚命はうるわし花
゚・*:.。..。.:*・゚愛となりて
゚・*:.。..。.:*・゚われらの心を満たす
゚・*:.。..。.:*・゚花よ花よ花
゚・*:.。..。.:*・゚咲き誇れ
゚・*:.。..。.:*・゚おまえの命のヒキビのまま
゚・*:.。..。.:*・゚花よ花よ花
゚・*:.。..。.:*・゚見せておくれ
゚・*:.。..。.:*・゚愛がこの地を満たすのを
その歌声がヨモツヒサメの邪気をみるみる中和して行った。
「わたしたちももう一度」アナトは呼びかけた。
巫女たちは〝力〟を合わせ、結界を今一度押し広げた。そのさなか、クシナーダの歌のヒビキとともに宙を舞うものをアナトは見た。
天女? 一瞬、そう思った。宙を舞い踊るその女たちの姿は、羽衣をまとった天女そのものに思えた。が、アナトはすぐに気づいた。彼女らはこの里の巫女たちの御霊だと。
その数は七つ――。
すでに肉体を失ったトリカミの巫女たちの霊が、今も生まれ育った土地を守り続けているのだった。その巫女たちの舞いとクシナーダの歌声に勇気づけられたように、この地に息づいている草木、花、川、石や土の精霊たちが、地に姿を見せ始めた。それぞれの愛らしい姿で。
彼らもまた、あらんかぎりの助勢を行っていた。悪しき猛毒の侵入を防ぐため、それぞれの光で、それぞれのヒビキで――。
結界は拡大し、里全体を包み込んだ。そして、それはもともとこの里が持っていた清浄な〝気〟を維持するために巧妙に配置されたいくつかの巨石と中央の柱とリンクして、強力な結界を構成した。
ヨモツヒサメたちはその外へ追いやられ、結界内には侵入できなくなった。
「やった……」思わず巫女たちから声が上がる。
その直後。
「アカル様!」イスズの声。
ぐったりと力尽きたように倒れかかるアカル。それをイスズが危うく支え、今にも二人とも倒れそうだった。アナトたちも慌ててアカルを支え、昏倒して怪我をするような事態は避けられたが――。
「クシナーダ様!」シキの叫び。
アナトが振り返った時、勾玉を捧げ上げていたクシナーダの姿はそこになかった。
彼女は雪原に横たわっていた。
ポチしてくださると、とても励みになります。ありがとうございます。

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