その日、紗与里は寝坊した。
ハッとして目を開き、枕元の目覚まし時計を見た瞬間、さーっと血の気が引いた。
隣の布団はもぬけの殻だった。
扉を開け、階段を降りて行く。最後の二段で踏み外し、くるぶしのあたりをしたたかに打ち、
「いった――い」
と叫びながら、足を引きずりながら、それでもリビングに辿り着くと……
不機嫌そうな母・希代子が、子供にご飯を食べさせている図が目に入った。
「お母さん、おはよう」
無邪気な息子の声。
「おはよう……」
「おはよう……」
最後の「おはよう」は、むろん母の声だ。
「おはやくないけどね」
冷ややかな一言が付け加えられた。
「お、起こしてくれればいいのに」
首をすくめながら紗与里は言った。
「起こしましたよ。三回も。目覚まし時計にスマホのアラームも入れたら、計五回、あなたは起こされています」
「や、やっぱり?」
「翔君のママはほんとにお寝坊さんだよねー」
母は別人のような笑顔になって、溺愛している孫に話しかけた。
「だよねー」
「にちゃいの翔君はすぐ起きられるのに、にじゅうきゅうちゃいのママがお寝坊さんなんて、おかしいよねー」
「よねー」
と、二歳になったばかりの翔が、かわいらしく小首を傾げながら同調する。
かわいいだけに、怒りよりも涙しか出ない…(T_T)
自己嫌悪にさいなまれつつ、洗面所で顔を洗い、歯を磨き、お化粧を……あー、もうする時間もないっ 髪もぼさぼさだあ
とにかくポニーテールにして、まとめてしまおう。
うん、そのほうが仕事もしやすい!(と自分を納得させる)
服 あー、どれもこれもアイロンが当たっていない! どど、どうしよう。
結局、先日通販で買ったプルオーバーと、昨日もはいていたジーパンでごまかすことにする。
「もう時間ないっ 翔、行くよ」
焦りまくって呼びかけながら玄関に行くと、すでに身支度を整えた翔が、にっこり笑って
「行くよ」
……自己嫌悪がいや増す。
翔を車に乗せて、保育園に連れて行き、元来た道を戻り、自宅に車を戻すと、今度は自転車で出勤する。
勤め始めて四日目の、あの占い師の研究所へ。
自転車を研究所と隣のビルの間へこじ入れ、扉を開ける。
ジャスト9時。
ほ――っと、深いため息が出る。
那智は奥の給湯室から、自前のコーヒーカップを持って出てくるところだった。
「お、おはようございます……」
「おはよう」
那智は眼を合わせながら言い、自分のデスクに腰を下ろした。
紗与里も自分のデスクに着いたが、すでにこの時点でどっと疲れが押し寄せていた。
「今日の予約は何時からだっけ」
と、那智が訊いてくる。
「あ、はい」
慌て手帳を開く。この仕事のために百均で買った手帳だ。
「今日は午後からですね。13時の方が最初です。あとは20時の方が最後ですけど、それまではぶっ続けです。先生、大丈夫ですか?」
「なにが?」
「いや、だいたい、50分くらいずつの鑑定時間ですけど、これだと8人も連続で、ほとんど休憩する時間もありませんけど……」
「10件を越えなければ、べつに問題ないよ」
「これから予約を受けるときに、少し間に休憩時間を入れるようにしましょうか」
「問題ないと言ってる」
「あ、はい」
まるでアンドロイドだ。
占いをこなすマシーン。
占いって、すごくスピリチュアルで、霊感とか水晶とか、タロットカードとか、なにかこう神秘的なイメージが強い。
でも、この那智九郎は、そんな印象がまったくない。
PCの画面を見て運勢をたんたんとクールに解説し、タロットも本当にマシーンのように読み取っていく。
かといって、冷たいというのとも違う。
たいていの来客者は、満足して帰っていく。来たとき暗かった顔も明るくなり、時には涙を流す者もいる。
なかなかの占い師なのだということはわかるが、やっていることと、彼の雰囲気がまったく結びつかない。
もうちょっと、情とか……そういうのがあっていいんじゃないの?
言葉にすれば、そんな思いが漠然とある。
紗与里は仕事に取り掛かった。
その一方、むずむずと思っていた。
化粧したい。
翔を運ぶ車の中で、信号待ちの時間を使って半分くらいできたのだが、ちゃんと仕上がっていない。
バッグの中にある化粧ポーチに手が伸びそうになるが、でも、仕事の取りかかったばかりで化粧し始めたら、感じが悪いだろうと思う。
わたしって、女子力、最低だ。
これじゃ、再婚なんて遠い話だ。
おまけに母親力も最低だ。
なんか、落ち込む……。
ずどどど、と荒々しい足音が階上から駆け下りてきて、紗与里の思考を遮った。
研究所のドアの前まで、稲妻のようにやってきたのは、猫のベガだった。
彼女はドアの向こうを、丸い目で凝視していた。
人影があり、ドアが開いた。
あ……と、思わず声を上げた。
それは先日の三崎刑事だった。
「悪いな、またちょっと……うわっと!」
三崎が飛び退く。ベガが、ふわーっと牙をむき出したからだった。
彼の背後から、一人の女性が姿を現した。
ほれぼれするほどのパンツスーツの似合う、年齢は紗与里とそう変わらない女性だった。
そして、ほれぼれするほど美しかった。
※この物語はフィクションです。
ポチしてくださると、とても励みになります。ありがとうございます。
人気ブログランキングへ
このブログの執筆者であるzephyrが、占星術鑑定の窓口を設けているのはFC2ブログにある<占星術鑑定に関して>の記事のみです。