ヤオヨロズ 6 第1章の5 |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

 人の気配がして、近づいて来るのがわかった。ばさっと近くの岩場に、衣類が放り投げられた。
「着替えを持ってきてやった」イタケルだった。
「ありがとう」
「クシナーダに言われたからな」言い訳じみた言葉を口にし、彼は自分も着ているものを脱ぎ捨て、湯溜まりに飛び込んできた。
 渓流沿いに湧いている温泉の溜まり場で、スサノヲは湯船に身体を沈めていた。川から引きこむ水量が調整されていて、程よい温度だった。これまでの旅で、一度も味わったことのないような湯浴みだった。身体の芯からほどけていくような心地よさである。
 雷雨は、今は去っていた。ザーッという渓流の響きが、夕暮れの渓谷を満たしている。
「俺はお前のことを信用したわけじゃないぞ。ほかの連中は、里を救ってくれたみたいに思ってるが」イタケルは乱暴に顔を洗った。「今日、お前が里に来る直前に地震(なえ)があった。そしたらあいつらがやって来た。あのカナンとかいう連中が。俺にはお前が災厄を連れてやって来たようにしか思えねえ」
 スサノヲは無言だった。イタケルの言葉は、さして間違っていないように思えた。これまでの旅の途上でも、似たようなことは幾度もあったからだ。
「災厄というのはもっとほかにもあるのだろう?」スサノヲは言った。「〝オロチ〟とか言っていたが」
「ああ。オロチはここ何年かででかくなった国だ。最初はもっとずっと東のほうにできた、小さな国だった。大陸を追われてきた連中だ。だが、クロガネを作り始め、たちまち周辺の国々を侵略し、まとめ上げていった」
 大陸から鉄器製造の技術を持った集団が渡来し、勢力を拡大しているということらしかった。
「クロガネはすげえ。うちの里でもクワやスキに少し使うようになったが、まだほんの少しばかりだ。石や木で作った武器なんかじゃ、とても太刀打ちできねえ」
「この里では作れないのか」
「アシナヅチが許してくれない……」悔しげに言った。「作り方はだいたいわかっているんだ。里の中にも知っている人間がいる」
 製鉄の技術は大陸ではすでに広く知れ渡っている。この世界の果ての島国には、まだ到達したばかりという状態らしかった。
「オロチ国はこの周辺に手を伸ばしているのだろう? エステルが近くの拠点を叩いたと言っていたが」と、スサノヲは尋ねた。
「ああ」
「ならば、なぜここはオロチの支配下に入っていない?」
「ここは……特別なんだ」
「特別?」
「ああ、特別だ」イタケルはそっぽを向いていた。喋る意志はないという表明のようだった。
 スサノヲは湯船から出た。手拭いで身体を拭いていると、湯船の中からイタケルが言った。
「あのカナンの連中とは、どういう関係なんだ」
「カナンのエステルとは、ずっと西のほうの街で出会った。そのときあのお姫様の弟が殺され、俺は彼らを助けた」
「なるほど。それであいつらは、あんたの頼みで、この里から手を引いてくれたってわけか」
「そういうことだ」
「あんた、いったい何者だ。どこから来た?」
「逆に訊きたいが……」スサノヲはイタケルを見た。「お前は自分が何者なのか、答えられるのか」
「え? お、俺か? 俺はこのトリカミのイタケルよ。いずれワの島国を一色(ひといろ)に染め上げる男よ」
「国を一色に……」スサノヲは空を仰いだ。「なかなか野心的だな。つまりそれはエステルやオロチと同じことをやろうとしているということだな」
「あたりめーだ。いつまでもいつまでも、やられてばかりじゃねえ。俺はあのオロチの奴らを、いつか滅ぼしてやる……」イタケルの眼に剣呑な光がぎらついた。口の端から、憎しみがこぼれ出ていた。
「オロチに恨みがあるのか」
「オロチには何人も殺された……」
 スサノヲは新しい衣を身に着け終えた。ほかの村人が身に着けていたようなシンプルな麻の貫頭衣ではなく、おそらく大陸から渡来したものだろう。金糸の刺繍があった。
「このところ、ワの国は争いばかりだ。どこでもかしこでも戦(いくさ)ばかりやって、悲しい思いをしている人間が大勢いる」
「それでお前は、自分が支配者になって、争いをなくしたいと?」
「その通りだ。なあ、あんた――」イタケルの口調は、だんだん馴れなれしくなってきた。「その剣、一本、俺にくれないか」
 スサノヲはカナンの兵士から奪い取った剣とエステルから与えられた剣の二本を持っていた。エステルから与えられた剣を手にし、もう一本は、そのままイタケルの衣類のそばに置いた。そして、その場から離れた。
「すまねえ! ありがとうよ! 恩に着る!」
 背後に聞くイタケルの声には、本当に感謝があふれていた。それだけ、これまでに悔しい思いを繰り返してきたという証明だろう。
 クロガネ。
 この島国は今、その力によって翻弄されているのだった。
 この、おそらくはもとは静かで平和だった国が。


 里の中心に戻っていくにつれ、あるリズムを持ったヒビキが大きく聴こえるようになった。鐘の音、太鼓の音、そして笛の調べ。
 スサノヲは目を奪われた。夕闇が濃くなりつつある時刻、四方に炊かれた篝火(かがりび)の中、人々が里の中心に聳える大きな柱のまわりを取り囲み、ゆっくりとある所作を繰り返していた。ひざまずいて両手を空へ捧げ上げるような動作を繰り返し、そして立ち上がる。ゆっくりと柱を中心に、所作を変えながら弧を描いて歩を進める。
 里の中心が打ち立てられた柱であるのは明白だった。三重円の環状路が出来上がっていたのは、このためだったのかもしれない。里人たちはこぞって外に出て、三重の円になって柱のまわりを回っている。ある時は反転して逆回転になり、ゆったりとした動きから、にわかに打ち寄せる波のように足早に回ったりもする。
 不思議な踊りだった。単調なようでして、強弱もリズムもある。難しい所作は何もない。
 中心には八人の乙女たちがいた。彼女らは柱のすぐそばで同じように舞っている。
 その中の一人にクシナーダがいた。

 神々(こうごう)しかった。

 自分がそのような感想を抱くことに、スサノヲは激しい動揺を覚えた。ほかの乙女たちともクシナーダは格段に違っていた。一人だけ目に見えるがごとくオーラを放ち、彼女の周囲には違った空気が流れていた。ものみな浄化するような、澄んだ清流のごとき〝気〟だ。
 それは舞いと共に周辺に広がってく。柱に一番近い円へ、その外側へ、さらにその外側へ。その波動は、スサノヲの立っている場所にも届き、彼はみずからが洗い清められるのを感じた。
 息を呑んだ。
 いまだ曇天であったはずの空が割れ、星空が顔を見せた。最初は月光かと思われたが、空に月はない。そうではなく、柱の上空から光の粉が降って来るのだ。
「なんだ、これは……」思わずつぶやいた。
「巫女様が亡くなった人を霊(たま)送りしてるんだよ」
 いつの間にか、スクナがそばに来ていた。顔や身体をきれいにして、着替えを済ませているため、少女らしくなっていた。
「霊送り?」
「あたしも初めて見た。あたしの国の巫女様は、ここまですごいことはできなかった」
 空から降りて来る光はどんどん強くなった。錯覚ではない。はっきりと肉眼で見えるような神々しい光は、白というのか白金のような輝きを帯びて、柱を中心にふわっと広がって行った。
 ぽつ、ぽつ、と新たに地上から光が出現した。それは里人数人が役目として抱え持っていたようだ。彼らの手を離れた光は鈍い光で、まるで自信なさそうな浮揚の仕方をした。
 降りてきている光の中から、もっと明瞭な光の珠が出現し、その鈍い光たちを迎えた。
 ――人?
 そう。目を凝らすと、なぜかその光はいずれも人の形にも見えた。
 天から降りてきた光は人形(ひとがた)となり、そして鈍い光もまた人形となった。鈍い光はさきほどカナンの兵たちによって殺害された者たちだとわかる。それを迎えに来たのが、まばゆい光たちなのだった。
 クシナーダが鈴を鳴らした。
 シャンシャンシャン!
 里人たちが地から天へ送るようなしぐさを繰り返す。
 それからは素早かった。鈍かった光たちはたちまち輝きを増し、迎えに来たまばゆい光たちと一体となり、柱の上空へと駆け上って行った。
 そして、不思議な光は消えた。
 スサノヲは唖然としていた。多くの国、民族を見てきたが、このような鎮魂の儀式を執り行っている民にはお目にかかったことがなかった。しかもただの形式的な儀式ではなく、圧倒的な霊的リアリティを持っていた。
 まるで魔術だ。しかし、魔術というには、この場の雰囲気はあまりにも神聖で清らかだった。
 村人たちが役目を終え、散開し始める。クシナーダが柱の立つ高台から降りてくる。
「湯浴みはいかがでしたか」と、笑顔で言う。
「ああ、いい湯だった」
「お似合いですよ」とも笑う。着替えのことを言っているのだ。
「こんないい服を、いいのか」
「それはアシナヅチ様がお若い時、大陸の……ええと、なんとかという皇帝から頂いたものだそうです」
「ということは、アシナヅチもずいぶんと高貴なお方なのだな」
「アシナヅチ様のお力は知れ渡っておりますから。さあさ、こちらへ」
 篝火が集められ、宴が用意された。里人たちは共同作業に長けていて、なんでも自然に連携できるようだった。子供から老人まで、自分ができることは率先してやっている。基本的に年寄りは敬われ、大切にされていた。しかし、元気な者は老人でもよく動いた。
 クシナーダはそんな中でも、よくくるくると動いた。ほかの里人は、若くともクシナーダに格別の崇敬をやはり抱いているようだった。この点は一緒に舞っていた他の乙女たちも同じで、彼女たちも「クシナーダ様」と呼んでいる。同じような巫女としても、すでに備わった格の違いは、権威としてではなく静かな物腰の中に自然体でにじみ出るようだ。だが、クシナーダ自身にはお高く留まったところはまったくなく、自分にできることはなんでもやっていて、焚火に入れる薪を大量に抱えて歩いてきて、他の者を逆に慌てさせたりしていた。
 その頃にはイタケルも戻って来ていて準備を手伝っていた。
「スサノヲ様、さあ、こちらへ」
「どうぞどうぞ!」
 乙女たちがスサノヲを席に案内した。異国から到来した若い男に、好奇心で輝く眼を隠そうともしない。
 やがてやがてあたりには根菜やキジ肉を入れた鍋や焼けた魚の食欲をそそる香りが立ち込めはじめ、どこが始まりなのか分からないような流れで宴になっていた。
 酒がふるまわれ、笑い声も弾けた。
「さあ、どうぞ。召し上がってくださいな」クシナーダが鍋の中身をよそった土器とお酒の入った竹のコップを持ってきた。「ミツハ、スクナにも」
 もう一人、ミツハと呼ばれた娘がスクナにも食事を運んでくる。
「さっきはありがとうね」と、ミツハがスクナに言った。
 なんのことかと見ていると、クシナーダが説明した。「さきほど、怪我をした者のために、薬草を集めてきたりしてくれたのです。おかげできっと、傷の治りも早いでしょう」
 ああ、とスサノヲは納得した。
「この子はすごく賢い子です」ミツハが感嘆する。「本当になんでもよく知っています」
「坊主……じゃなかった。女の子だったな」イタケルがそばに腰を下ろして言った。「おめー、ナの国の人間なんだよな。どうする? 落ち着いたらナの国へ戻るか?」
 スクナは食べようとした鍋の器を膝の上に置いた。
「どうした? 戻るなら、俺が送ってってやるぞ」
「戻っても……誰もいない」
「先ほどちょっとこの子から聞いたのですが」クシナーダが言った。「ご両親と三人で、しばらく大陸を旅されていたようです。ワの国に戻るのも三年ぶりとか。ナの国に戻っても、頼れる人がいないのでしょう」
「なら、ここで暮らすか? おめー、頭がいいし、役に立つ。みんな、喜ぶぜ」
「ほんとう……?」スクナはイタケルやクシナーダの顔を見た。
「もちろんですよ。ここでお暮しなさいな」
 スクナはスサノヲのことも見、そして表情を明るくした。
「よかったな、スクナ」と、スサノヲは言った。
 歌声が湧いた。男たちが歌い、女たちが踊る。先ほどまでの神聖な雰囲気とは違い、ぐっと砕けた調子で、男と女の恋歌が物語調に語られる。引き裂かれた男女の悲しい物語だったが、どこかユーモラスだ。ひょうきんな動きの男が踊りに加わり、笑い声がどっと弾ける。
 陽気な民だった。

゚・*:.。..。.:*・゚遠く離れてしまった
゚・*:.。..。.:*・゚愛しい人よ
゚・*:.。..。.:*・゚空のかなたに昇って

゚・*:.。..。.:*・゚二人隔てる天の川
゚・*:.。..。.:*・゚涙が流れを深くする
゚・*:.。..。.:*・゚想いの笹船流す日々

゚・*:.。..。.:*・゚一年(ひととせ)に一夜だけ
゚・*:.。..。.:*・゚川を渡るほうき星
゚・*:.。..。.:*・゚たった一夜の逢瀬の時……

   
「古くから伝わる歌です」クシナーダが説明する。「天の川をはさんで輝く二つの星の物語です」
「天の川……」
 空を仰ぐ。気が付くと、上空はすっかり晴れていた。そこには空を渡る、大きな星々の流れが広がっていた。
「引き離される悲しみは、恋だけではありません。天と地に引き離される、死の別れもあります。だから、いつも霊送りをした後は、こうやってこの歌を歌って宴をするのです。今日はスサノヲ様の歓迎もありますが」
「霊送りと言っても、送ったのはあのオロチとかの連中の魂だろう」
「そうですね。さいわい村人には亡くなった人はいませんから」
「オロチの連中の霊送りなんて、してやらなくていいんだよ」イタケルはぶすっとしている。
 なるほど、それで湯浴みで時間をつぶしていたのかと思えた。
「あら、亡くなれば、みな、同じです。帰るところも同じ」
「身内が亡くなっても、こんなふうに騒ぐのか」と、スサノヲは訊いた。
「はい。もちろん泣きもしますよ。でも、わたくしたちは知っているのです」
「知っている? なにを?」
「この地の者と天の者は、本当は離ればなれになるのではありません。この歌の隔てられた男女のように、悲しくもあり寂しくもありますが、いつでも想えば通じ、本当は会うこともできます。わたくしたちは皆、さきほど見た、あのような光です。それはオロチの者とて、例外ではありません」
「俺は嫌だね」イタケルは酒をがぶりと呑む。「死んであいつらと同じところなんか行きたくねえ」
「イタケル……」
「クシナーダはなぜ奴らを許せる? アワジは奴らに殺されたんだぞ。イヨもオキも。ツクシ、サデヨリ、イキ、サド――みんな」
 そのとき初めて、クシナーダの表情は深く陰ったのをスサノヲは見た。悲しみ、憂悶。そんな色がありありと浮かんでいた。巫女として精神性の非常に高いところに上り詰めたであろう、そんな彼女でさえ、やはり人間的な葛藤は残しているのだ。
「アワジはクシナーダの実の姉じゃないか。皆、オロチに嬲り殺された。俺は絶対に奴らを許さねえ」
「オロチはなぜそんなことを?」スサノヲは訊いた。
「わたくしたちはこのワの島国でも、もっとも古くからの民です。わたくしたちは特別な役目を持って、このトリカミの地を守っております」
「お、おい、クシナーダ」イタケルが慌てた。
「いいのです、イタケル。すぐにお耳にも入りましょう。それに、この方には知っておいてもらいたいのです」
「特別な役目というのは?」
「それはスサノヲ様、あなたがこの地を訪れた目的にも関わっています」
 そのとき笑いで湧いていた宴の席が静まった。村長のアシナヅチが、近くの家屋から出てきたところだった。アシナヅチは身振りで他の者に宴を続けるように示し、再び歌声が響きはじめる。
 クシナーダは立ち上がって席を空けようとしたが、アシナヅチはそれも手で制して、自分はスサノヲの隣ではなく、顔を見やすい場所へ腰かけた。
「まずは礼を言わねばならん。そなたがいなければ、あのカナンという者どもに、このトリカミは支配されてしまっただろう」
 ありがとう、とアシナヅチは頭を下げた。
「いや……」
「クシナーダから聞いておる。そなたはヨミの国へ行きたいのだそうだな」
 ぶーっと、イタケルが口にした酒を吹き出した。「な、なんだってぇ?」
 信じがたいという眼差しを向けてくる。正気を疑うと言わんばかりだ。
「ああ。ヨミへ至る道、ヨモツヒラサカをクシナーダは知っていると言っていた。教えてもらいたい」
「その身のままでヨミへ行けば、もはや生きて戻れぬやもしれん」
「覚悟の上だ」
「なぜ、ヨミへ行きたがる?」
「…………」
「愛する者がそこにおるのか」
 スサノヲは少なからず動揺した。
「まあ、驚くようなことではない。古来、ヨミへ下った者は多くいる。その動機はほとんど同じ一つの理由じゃ」
「じつはスサノヲ様」クシナーダが言った。「わたくしたちがこの地を守っているのは、そのヨモツヒラサカにも関わっているのです」
「どういうことだ」
「この地には神聖なる岩戸があるのじゃ。我らは代々、長きにわたりそれを守ってきた」
 アシナヅチとクシナーダは意を一つにしていた。そのことについてスサノヲに語るというのは、すでに彼らの間では取り決められていたものだったようだ。
「その岩戸は天にもヨミにも通じておる。定められた時、それを開けば、ヨミへ至ることができる」
「つまり……それがヨモツヒラサカ」
「そういうことじゃ。ただし、開けることはわれらにしかできぬ。その場所を知ったところで、そなたが単独で扉を開けることはできぬ。いかに天界より下った者であってもな」
「!」
「まあ、そう驚くでない。そなたがやって来ることは、以前よりわかっておった」
「て、天界より下った?」
 驚いているのはイタケルとスクナだった。クシナーダにとっては周知の事実だったようだし、近くに同席していたミツハという巫女も、なんらかの事前の知識があったに違いなく、さして驚いてはいなかった。
「魂は、人を介し、母の胎(はら)を通じてこの地に生まれる……。しかし、ごくまれにそなたのような存在が、地に現れることがある。そう、何千年かに一度のことではあろうが」
「驚いたな……」スサノヲは動揺を静めながら、苦笑を浮かべた。「とんでもない爺さんだ」
「伊達に長生きはしておらぬゆえにな。それにわしの眼には過去未来、あるいは遠くのあの輝く星の様子でさえ映る」アシナヅチは杖を持ち上げ、天を示した。「星々の多くはまあるい玉の形をしておる。わしらが住むこの星も、あれらと同様。海よりさらに大きな、果てのない世界の中に、われらの星がある。われらはこの星の片隅で、命を与えられて、束の間の時を過ごしておる」
 心底、驚嘆すべき老人だった。スサノヲは多少の通力を得た人間には出会ってきていた。しかし、アシナヅチのように正確な世界観を持つ人間には、まったく出会ったことがなかった。彼はこの時代の人類が持つ認識を、はるかに超えた知恵を持っていた。
「この星の寿命から見たら、人の命などはかないもの。それはカゲロウほどの長さもあるまい。しかしな、人の命のつながり、想いのつながりは、この星空にも匹敵する。なかなか馬鹿にはできぬものじゃ。人はやがて星の海へも旅立つ時が来る。しかし、その前に荒々しい時代に終止符を打ち、真のワとならねばならぬ……。そなたがここへ遣わされたのは、そのためかもしれぬな」
 イタケルもスクナも、息を呑むように会話を聞いていた。スサノヲは酒を呑んだ。
「――そんな遠い未来のことはどうでもいい。それはあんたらだって同じじゃないのか。未来がどうであれ、今ここにある問題を片づけることが大事だ。そうじゃないか」
「いかにも」
「あんたらは岩戸を守る民で、それはオロチの連中のやっていることとも関係しているのだな?」
「このトリカミの岩戸を守るわしら、そして何よりも巫女は、このワの国の中でももっとも貴ばれておる。それは古くからこのワの国に住む民なら、皆、知っておる」
「オロチの奴らは、数じゃ、この島国を支配するのは難しかった」イタケルが鋭い目を焚火の炎に向けて言った。「だから、ワの民全部にとって大事なこのトリカミの巫女を、毎年一人ずつ略奪し、見せしめに殺した……」
 彼の記憶の中では、これまで奪われていった巫女たち、その死の様がよみがえっているのだろう。
「オロチがここを直接支配せず、放っておくのは、ここが特別な聖地だからです。ここを略奪したら、ワの民すべての反感を買い、支配するのは難しくなります。そのかわり、わたくしたちは人質として残されているのです」
「つまりあんた――クシナーダも狙われているということか」
「きっと年が明けたなら、今度はわたくしが連れて行かれるでしょう」
 覚悟を決めているかのような、あきらめのような静かな様子だった。
「そこでじゃ。スサノヲよ、交換条件じゃ」
「交換条件?」
「この地を守ってもらいたい」
「このトリカミの地をか」
「むろんそれもあるが、違う。このワの国を守ってもらいたい」
「な……」
「約束してもらえるかのぉ」アシナヅチはにっと笑った。「さすれば、ヨミへの岩戸を開こう」
「ずいぶんと足元を見た条件だな」
「おや、そなたならできよう」
 ワの国を守るというのは身一つに課せられるには、あまりにも広大な要求だ。いかにスサノヲでも。
 大陸に比べれば島国は小さなものだ。とはいえ、決して狭くはないだろう。その端々まで守るという約定は、ほとんど実行不可能なものに思えた。
「そもそも、そなたには選択権などない」
「なに?」
「もうこのトリカミには岩戸を開けるほどの霊力を持つ巫女はクシナーダしかおらん。この娘(こ)が連れて行かれたなら、もはやそなたがヨミへ行くことはかなわなくなる」
「それなら、なぜ約束などと……」
「そりゃ、わしがしてもらいたいからじゃ。約束を」
 アシナヅチはにたにた笑っていた。恐ろしく根深い魂胆を秘めた、悪戯好きの老人といった感じだった。老人には、スサノヲがワの国全体を守るなど現実的には難しいとわかっているはずだった。彼の言葉の意味には、もっと深いものが隠されているような気がした。
 スサノヲはその深いところにあるものに対して答えを告げた。
「わかった。約束しよう」
「この約束を守るためには、そなたはかりにヨミへ行っても、かならず生きて帰ってこなければならん」
「もとより死にに行くつもりなどない」
「よかろう。それならば、そなたはふた月ほど待たねばならぬ」
「ふた月?」
「ちょうど今日は朔の日じゃ」
 新月ということだ。
「この次、さらにその次の朔の日。月がなくなる日の夜が、もっとも昼が短い季節の朔の日じゃ。その日でなければ、ヨミへ通じるヨモツヒラサカは開かれぬ」よっこらしょ、とアシナヅチは立ち上がった。「それまで、この地でゆるりと過ごされることじゃ」
 そう言って、彼は背を向けて自分の家屋へ戻って行った。
 燃え上がる焚火の中で、何かが爆ぜた。その音で正気に返ったように、スクナがスサノヲの腕に触れてきた。スサノヲは少女の頭に手を置いた。
 見るとクシナーダは珍しく硬い表情の横顔を見せていた。焚火の炎はその大きな瞳と頬を、あかあかと照らしていた。
 
 
         ――第1章 了


ノベライゼーション・ヤオヨロズを読まれる方へ

ポチしてくださると、とても励みになります。ありがとうございます。

人気ブログランキングへ

9月札幌出張鑑定についてはこちらへ。

このブログの執筆者であるzephyrが、占星術鑑定の窓口を設けているのはFC2ブログにある<占星術鑑定に関して>の記事のみです。