――国を譲れ!
谷あいにエステルの声が響いた。
――この地は神がお約束された、われらが支配する土地! 国を譲れば神の民であるわれらの下で、そなたらも繁栄が約束されるだろう! しかし、拒むなら神の裁きが下されよう! さあ、いかがする!
沈黙を守る砦と集落に、馬上のエスエルが号令をかけた。カナンの軍はいっせいに弓を放った。火矢である。火は集落の家屋、そしてみるみる小山に広がっていった。
カナン軍は三方に分かれて待機していた。砦の南の正面、北の背後、そして東側にある山の中で。西側は川である。
焼け出された村人が外に飛び出してきた。そこへ容赦なく、第二の矢が射かけられる。火の手が迫る砦からも決死の覚悟で国の兵士たちが飛び出してくる。三の矢が冷酷に放たれ、戦力を確実にそぎ落としたうえで、カナン軍は突撃をかけた。
カヤの国はナカの国を南北に結ぶ要衝だった。豊かな河川とその周辺に広がる平野部に農耕で使用できる土地を持ち、また河川は物質の運送にも使用できる。その砦も川に沿って築かれており、自然の小山を利用した、ちょっとした要塞であるが、周囲からはやや孤立したような地形をしていた。つまり焼き討ちをかけても、焼かれるのは砦とその周辺にある集落だけに留まる可能性が高かった。
ひと山焼き尽くす結果になったとしても、豊かな土地はまるまる手に入る。おまけに焼け出されてくる兵を叩けばよいのだから、カナン軍の戦力の損耗は最小限。
きわめて冷徹な戦略だった。
まとめも攻めたなら、落とすためには犠牲も多く払わねばならなかっただろうが……。
「楽勝ですな」と、ヤイルが馬を並べて言った。
エステルは黙ってうなずいた。彼女の眼は見つめ続けていた。圧倒的な戦力差の前に滅びる国の様子を。自軍の兵士たちによって無残に殺される敵の民たちの姿を。
「女子供は生かしてやれ。命乞いをする者にもだ。憐れみをかけてやることで、民は使えるようになる」
「はい」
カナンの戦略は巧妙で、ここまで実にうまく機能していた。エステルはかならず取ろうとする国に対して、事前に恭順の意思の有無を確認してきた。自らの戦力の優位性と高度な文化を示すことで、ワの民をできるだけ味方に付けた。
ここでエステルたちにとって、きわめて都合の良い情勢があった。それは東のオロチ国が勢力を拡大し続け、危機感を持つ国々が多かったという現実だ。
神の使者として、暴虐なオロチどもから民を救う。そのような触れこみに、藁をもすがる思いで同調する首長も少なくなかったのだ。結果、カナンは極めて短期間で勢力を増長させ、少なくともナカの国の西側の広範で、強力な基盤を作ることに成功した。
あくまでも恭順しないものに対しては、武力を持って制圧行動に出た。しかし、手加減も心得ていた。あくまでも抵抗し続けるなら、徹底的に滅ぼしたが、そうでなければ生かしてやる道を残した。
それはモルデの進言によるものだった。
「いかに半島から同胞を呼び寄せたところで、われらの数には限りがあります。この地の民はできるだけ恭順させ、われらの国家の支配下に組み込むようにしなければなりません。文化的に遅れた彼らをわれらの優れた信仰と文化で魅了するのです」
武力で圧倒的できることを証明したうえで、文化的に高度なものを示せば、野蛮な民たちは尻尾を振る。むしろ喜んでそれを受け入れて生きようとする。
そのような読みはまさに図に当たっていた。そのおかげで、ワの各地から招集した兵を訓練し、使うこともできた。
半島からは今も次々に、カナンの民が移送され続けている。
エステルはそうしたカナンの民の中でもリーダー格に当たる者を各地に手勢と共に送り込み、司政官として機能させた。生活を豊かにするための様々な利器と共に。ワの民は戸惑いながらもそれを享受し、支配を受けて入れて行った。
こうして傘下に入った国々には、先にオロチ国の支配下にあったところも多かった。寝返った理由の多くは、オロチ国の支配が恐ろしく強圧的なもので、人々を苦しめていたからだ。オロチは鉄産地を中心に各地に拠点を広げ、その周辺の国々を力で従わせていた。クロガネ作りのために必要な資源や労働力を供出させ、作物も献上させている。そのために疲弊している国も少なくなかったのだ。
オロチの打倒。
それはエステルたちがこの国に根付くための大きな旗印ともなっていた。
そうした戦略を練ることもできたのも、モルデを筆頭とする先発部隊の入念な諜報活動の賜物だったのだ。
「川に逃げたぞ!」という声が上がった。
見れば小山の砦を脱出したとみられる数名が、小舟で川を下っていた。エステルの本隊がもっとも近く、親衛隊の兵士たちが弓をつがえるなど動く気配を見せた。
小舟に見える人影は、女性ばかりだった。三人いる。そのうちの一人、もっとも若い娘は白い衣と勾玉を身に着けた巫女だった。燃える砦を見つめ、彼女は喉が張り裂けんばかりに叫んでいた。
「お父様! お母様!」
今にも船から飛び出しかねないのを、他の二人の女性が懸命に押さえている。
彼女らからもエステル隊の動きは目に入った。矢で狙われると覚悟した女の一人は、「ヨサミ様!」と叫び、巫女を守ろうと覆いかぶさった。もう一人は死を覚悟しながらも立ち上がり、棹を取った。川底を押しやって、舟を加速させる。
しかし、矢は降ってはこなかった。馬上のエステルが叫び、兵士の動きを止めたのだ。
炎に包まれた砦が崩れ落ちた。ものすごい黒煙と火の粉が立ち上る。
「お父様……」巫女、ヨサミの心を絶望がつかんだ。滂沱と涙があふれ出す。「うわああ……ああ――ッ!!」
川を下るにつれ、ヨサミの視野をエステル隊がゆっくりと過って行く。舟の縁を爪が食い込むほど握りしめ、ヨサミは〝敵〟を凝視し続けた。燃え上がる砦の手前、正面にエステルの姿が入る。涙は後から後からあふれ出してきて、ともすれば視野をぼやけさせてしまおうとするが、彼女は涙を振り飛ばすように首を振り、瞬きを繰り返しながら、歯を食いしばって、馬上で傲岸に見下ろすかのようなエステルを脳裏に焼き付けた。
許さぬ……。
巫女として生きてきた彼女の人生の中で、生まれて初めて感じる熾烈で濃い、血が滴るような憎しみだった。
――キビの国、アゾの里。
夕刻には、小舟はそこへたどり着いた。キビの国はナカの国の中でも、屈指の強豪国家――いや、ワの島国全体でも大国の一つだった。ヨサミのカヤは、その中の小さな一部に過ぎない。キビは広大であり、豊かな国だった。ナカの国とイヨの国を隔てる東西に長い内海の中継点であり、しかもナカの国の中では大陸との重要な窓口となっているイズモへの道も通じていた。
キビは、古代のワの島国の動脈の接点となっている場所だった。
うまい具合に山あいに開けた広い平野を有し、その近くまで入り込む内海と、海へ流れ込む大きな河川の二本は、このアゾの里付近を通過していた。そのためキビの国の中でも古来、もっとも豊かで栄えた場所の一つがアゾである。
「――ヨサミ!」
迎え出た二人の巫女は、到着したヨサミと二人の侍女を見て、しばし絶句した。アゾの里の巫女アナトと、たまたまアゾの里を訪ねてきていたコジマのナツソである。
「これはいったい――どうしたというのッ」
港に到着したとき、ヨサミたちはすでに息も絶え絶えだった。男の船頭もいない状態で、河川を転覆させずに到着させるだけでも、彼女らにはとてつもない苦労だった。幾度か、あわやという事態があった。それに加えて、自分たちのカヤの国が滅ぼされたという精神的なショックが、やつれを際立たせていた。港の衛兵たちによって、アナトの居する祭殿に導かれてきたときには、全員が力尽きたような状態だった。
「カナンに攻められました……」侍女の一人が答える。
「カナン……あの神の民とかいう者どもかッ」
「はい。カヤの国は焼かれました」
「なんということ……」アナトのもともと白いその面(おもて)からは、ほとんど血の気が失せていた。衝撃の大きさを物語っていた。
「ヨサミ、大丈夫……?」と、ナツソが傷ついた巫女に手を添える。
もとより同じキビの地方のそれぞれの国を束ねる巫女同士。彼女らには親密な流があった。
「わたしは……でも、お父様やお母様が……」
「ミナギ様も?」
ミナギというのはヨサミの母である。首長であるヨサミの父と婚姻関係を結ぶまでは、カヤの国を導いてきた巫女だ。幼少期から母譲りの素養が明確だったヨサミは、三年ほど前から国を総(す)べる巫女としてまつりごとを司ってきた。
「とにかくこちらへ。さあ」
三人はアナトとキビの国の者によって手厚く迎えられ、身体を清め、食事も与えられた。
その間にアゾの祭殿にはキビの国を構成する首長と巫女たちが緊急招集された。
「……すべてわたしのせいです」ヨサミはその席でそう言った。
「なにを仰る」驚いたように言うタケヒは、やや老いが目立ち始めたが、長くキビ国をまとめてきた首長だ。
「国が亡ぶのは巫女の責……でございましょう」
自虐的な言葉に、タケヒとアナトは視線を交わした。
「カナンの民のことを知らされたとき、山の向こう側の出来事と高をくくっておりました」
「それはわたしたちも同じ」と、アナト。
カナンとオロチの対立は、ナカの国の中でも主に大陸とを隔てる北海に面した地域で発生していた。この南の地域との間には、深い山地が横たわっている。まだ対岸の火事といった印象しか抱けなかったのだ。だが、彼女ら巫女はそれでは済まされなかった。
「このような事態が至ること、わたしたちのだれも予知はできなかった」
「そうです」と、他の巫女からも声が上がった。
キビは五つの地域から構成されていた。アゾが中心であり、カヤ、イソカミ、ワケ、コジマである。これらはいずれもキビ地域を流れる複数の大きな河川に沿った地域であり、コジマのみ、この河川の先に浮かぶ島であった。どの地域にも首長が存在し、そして巫女が存在した。
アナト、ヨサミ、シキ、イズミ、ナツソ。
キビはこの五つの地域の巫女を中心にして結束した国であった。
「このところおかしいのです」と、シキが言った。「神事を行っても何か気が乱れてしまい、心がざわついてばかり。遠見や予知もうまくできないのです」
シキは五人の中でも、際立って霊感の強い娘だった。この中で最年長のアナト――といっても、まだ二十歳になったばかりだが――は司祭としての能力や経験がもっとも秀でているが、シキは巫女としての能力なら、アナトに匹敵する力の持ち主だった。
「それはわたしもずっと感じておりました」ナツソがよく響く声で言った。「そう、とくにこの半月ほどの間に」
「悪い予感はあった」アナトも自責の響きをにじませた。「しかし、わたしも具体的に予知はできなかった」
「そのカナンというのはどのような民なのだ」イズミが冷静に、しかし鋭い目で言った。
「唯一の神を信奉する……」呆然とヨサミが説明する。「そう言っておりました。この葦原の地、ワの国は神が約束された彼らのための土地だから国を譲れ……と」
「ふざけた話だ」イズミは男のような調子で言った。もっとも若い巫女で、まだ少女といってもいいが、その素養を見込まれて今の地位に押しやられた。いつも反抗的なところを感じさせるのは、本意ではないことをやらされるためかもしれなかった。
「わたしはまったく何も予感できませんでした。あのような災厄の訪れを、まったく感じることがなかったのです。それに……国を譲るように求められ、その判断も誤りました……」
魂の抜け殻と化したかのように、ヨサミは語った。
カナンはカヤの国に一日の猶予を与えた。国を明け渡すか戦うか、考える時間を。
首長はそれぞれの国に存在はしているが、巫女は格別の影響力を持っている。ある意味、首長よりも頼りにされるのだ。巫女はその霊感によって常に宣託を下さねばならない。ヨサミはカナンの出現に非常に嫌な予感を抱いていた。むろんそれは巫女としての直感的なものとして鋭くあった。
だが、国を譲れという傲慢で専横な要求に対して憤慨し、戦うことを決意した男たちを抑えることができなかった。いや、あまりにも強いその場に満ちた戦意に呑まれたのだ。
以前であれば違ったかもしれない。しかし、オロチ国の傘下に入り、クロガネの剣が普及するにつれ、民全体の考えも変わって来ていた。力で解決できるという風潮が強くあり、とくに男たちは好戦的に逸(はや)った。
結果、その全体的な機運の中で流され、ヨサミは戦いを抑えることができなかった。近隣に救援を求め、籠城して戦えば、切り抜けられる――と、彼女自身、判断した。それはすでに直感ではなく、願望であったのかもしれない。
「このアゾへも救援を求める使者を送りました……」
「こちらには救援の使者など来ておらん」と、タケヒ。
「何もかもわたしの考えが甘かったのです。おそらく使者もどこかで待ち伏せされ殺されたのでしょう。カナンは最初からわたしたちの退路を断っておりました。逃げ場のない状態で火を放たれ、みな、亡くなりました……。わたしだけが父に無理やり舟に乗せられ……」
「なんとむごい……」アナトの目にも光るものが滲んだ。
比較的近い地域で仲良くやってきた国だったのだ。首長や巫女同士の交わりだけではなく、民の交わりも濃かった。
「カナンの兵は非常に強力な弓矢や剣を持っております。カネでできた鎧や盾も身に着け、わたしたちの国の兵ではとうてい……」
首長たちもこれには動揺を隠せなかった。ワの国はようやく青銅器から鉄器への変遷を始めたところだった。青銅器はどちらかといえば祭器としての役割が強く、鏡や鐸などは使われ続けている。武器としての鉄器はツクシやイズモで国内生産が始められたが、このナカの国にもようやく広まり始めたところだったのだ。
どすどすという荒々しい足音が響いた。その足音だけで、一同にはそれが誰なのか分かっていたし、巫女の神殿でこのような傍若無人さを発揮する男は、そうそういるものではなかった。
「カヤが落とされたというのはまことか」血相を変えて飛び込んできたのは、オロチ国からキビに派遣されている太守、イオリだった。
タケヒがうなずいた。
「貴様、おめおめと……。なにをしておった!」
憔悴したヨサミをイオリは足蹴にした。悲鳴を上げて床に倒れるヨサミに、アナトたちは駆け寄った。
「なにをされる! おやめなさい!」
「カヤはイズモへ抜ける街道の守りだぞ! それを奪われてはッ……」
「それこそが敵の狙いであろう」タケヒが言った。「敵はこのワの島国のことをよくよく調べておる」
「おのれ、カナン……」ぶるぶるとイオリは両腕を震わせていた。今にも腰に帯びた剣を抜き放ち、暴れまわりそうな怒気を放っていた。「うかつであった。よもや南に手を伸ばしてこようとは……」
オロチ国の現在の本拠はタジマにある。そこからイズモ一帯にまで勢力を拡大し続けていたのは、その地域が砂鉄の産地だからだ。そして同様な理由で、このキビにもオロチ国の王カガチは手を伸ばしてきた。とくにアゾの周辺では鉄が採れる。
イオリはこのキビでの鉄生産という大きな役割を負わされて派遣されていた。しかし、ただそれだけではなかった。彼の本当の役目は、このアゾの近くに巨大な山城を建造することで、それはすでに八分通り完成していた。
それはワの島国全体を支配するための布石なのだ。
カガチはすでに東国の統合に着手していた。オウミやアスカ、キの国などもすでに傘下に入っている。彼の野心である島国の統一のためには、これら東国と西のツクシを結ぶ海上交通路である内海を掌握せねばならなかった。タジマやイズモは鉄資源こそ豊富だが、平野は少ない。大人口を養い、兵力を蓄えるためには、このキビは最適の地だった。正面にはイヨの島国がもっとも間近に迫っており、こことイヨを抑えてしまえば、東西の往来もさえコントロールでき、島国全体の支配が容易になる。
それが王カガチの遠大な計画だったのだ。
しかし、もしキビを失うようなことがあれば、計画は頓挫する。それどころか、海上交通を掌握したカナンによって、追い詰められるような事態も発生しかねなかった。
いや、それ以前に――とイオリは考える。冷酷な王カガチは、イオリを無能として処断するかもしれなかった。
「兵をかき集めて、カヤからの道と川を防衛させろ!」イオリは引きつったような表情になっていた。
「すでにそのように指示しておる。みなも協力してくれておる」
タケヒの冷ややかな言葉に、集まった首長もうなずいて見せた。オロチ国の傘下にこそ入っているが、誇りや自主性まで、何もかも奪われているわけではない。
「タジマへはさきほど伝令の鳩を飛ばした。カガチ殿もすぐに知るところとなろう」
「もう少しで山城も完成するというのに……」舌打ちし、イオリはその場を離れかけた。そうしかけ、一度、足を止めた。「ぶざまに国を明け渡すようなことでもしてみろ。トリカミを滅ぼすぞ」
イオリは去って行った。
キビの巫女と首長たちには、重い沈黙だけが残された。
月明かりが焼け落ちた集落と砦を照らしていた。
もはやどこも原形をとどめてはおらず、木材はまだ燻っている。煙と吐き気を催すような異様な臭気が立ち込めていた。
エステルはそんな中を歩いていた。多くの死体はすでに片付けられていたが、木材の下には真っ黒に焦げた塊がいくつか覗いていた。目を背けたくなるような人であったものの炭化した姿だった。
眉を寄せ、口元を抑えながら、エステルは歩いていく。ふと月明かりに白っぽく見えたものがあった。
まだ熱を持つ灰をどかし、エステルはそれを拾い上げた。
勾玉だった。
それはエステルが持つ宝珠とよく似ていた――いや、同じものとしか思えなかった。
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