ヤオヨロズ 5 第1章の4 |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

 不思議な娘だった。
 クシナーダは歌いながら歩いているが、まったく気ままで奇矯に見えた。やることがおかしいのだ。あちこちで草花に話しかけ、急に笑ったりもした。誰もいないのに、誰かと会話している。
「おかしな娘だ……」
 スサノヲがつぶやくと、隣でスクナが怪訝そうに見上げ、「スサノヲもだよ。カラスと話してたじゃない」と言った。
 言われてみるとそうだった。あのカラスの声は、スクナには聞き取れなかった。それはスサノヲが本来異界の存在であり、あのカラスの本体も異界のものだからだ。
「巫女様は普通の人間が見えないものが見えるんだ。妖精とか神様とか」
「そうなのか?」
 とすれば、クシナーダは人間でありながら、異界に通じることができるのだろうか。
 スサノヲは旅の途中で、異能を身に着けている人間たちに遭遇することがあった。精神的な力で体を宙に浮かせるとか、あるいは人の心を読んだり、遠くのものを見通したり、先に起きることを予知したりする能力を持つ者たちだった。彼らはある種の苦行を積み重ねることで、そうした異能を発揮するようになっていた。
 彼らの多くは、当たり前の生活から逸脱し、エキセントリックな個性を持っていた。日常を捨て、人間らしさを代償とすることでしか、そうした特殊な〝力〟を手に入れることはできないのかもしれない。だが、クシナーダはそんな連中のぎらぎらと何かに執着する雰囲気とは、まったくかけ離れていた。自由奔放であり、のびのびと、すこやかだった。彼女自身が妖精であるかのようだ。あるいは、もしかすると――
「ただのおかしな娘なのか?」クシナーダはいきなり振り返り、言った。「そう思ってらっしゃるのでしょう」
 図星過ぎて返答できなかった。そんなスサノヲを見て、クシナーダはくすくす笑った。
「ほら、もう見えてきましたよ」と、片手を差し上げる。
 彼女の指し示す方向に集落があった。茅葺の屋根がいくつも見えた。歩き進めて高台へ登っていくと、集落の全容がだんだんと明らかになった。
 想像以上に大きな村だった。小高い丘の台地の上に、環状に広がっている。人が歩いてできた道が、三重円になっている。そして三重円の環状道に沿って、住居である茅葺屋根の建物が散らばっている。
 集落の中央には、大きな柱がそそり立っていた。見上げると、中天に差し掛かった太陽の光が柱のてっぺんの向こうにあった。大きな鳥が周辺を舞っている。空は急速に曇ってきており、黒い塊のような雲が太陽の光を呑み込んでいくところだった。
 わーっと声を上げ、柱の周辺にいた子供たちが走ってくる。クシナーダを見つけてのことだ。いっせいにまとわりついてくる子供たちを、クシナーダはしゃがみこんで迎えた。
「お帰りなさい、クシナーダ姉ちゃん」
「さっきの地震(なえ)、大丈夫だった?」と、クシナーダが優しく言う。
「うん! アシナヅチ様が起きる前に教えてくれたから」
「誰も怪我してないよ!」
「でも、家の中、めちゃくちゃ」
「一つ、倒れちゃった。あ、二つ!」
「今、みんなで直してる」
「わあ、柿だあ。ねえねえ、これすぐに食べられる柿?」
「ええ、大丈夫よ。アシナヅチ様のところへ先に持ちしてね」
「はーい!」
「この人は?」
「旅のお方よ。お迎えの宴をしましょうね」
「はーい!」
「ねえねえ、お客人、どこから来たの?」
「ナの国? キビの国? それとも異国(とつくに)?」
 いきなり子供たちの好奇心に輝いた瞳に取り巻かれ、スサノヲは「あ、ああ、とつくにだが……」と答えた。わーっと、子供たちはまた盛り上がる。
「異国だってえ!」
「異国のどこ? カラ国? バーラタ?」
「ねえねえ、バーラタには山みたいにでっかい生き物がいるって、ほんとう?」
「あ、いや、それは……」
 象のことだろうと思ったが、山ほどではない、と答えようとしたら、すでに子供たちの間では言い争いが始まっていた。
「そんな生き物、いるわけねえじゃん!」
「いるよ!」
「いないよ!」
 男の子と女の子が言い争いをはじめ、それぞれに味方するグループに分かれた。それもスサノヲを間に挟むように。左右からの甲高い子供の声に鼓膜が痛いほどだった。
「やーめーろっ!!」ひときわ大きな声で割って入ってきたのは、クシナーダよりも少し若いくらいの少年だった。「お客人が困ってるじゃんか! アシナヅチ様だって言ってたぞ。熊の何倍も大きな、鼻の長い生き物がいるって」
 そうそう、それそれ、と思う一方で、スサノヲは不審にも思った。この島国の住人が、なにゆえに大陸の巨大生物のことを知っているのか……。いや、向こうへ渡って帰ってきた人間がいるのかもしれないし、もしかしたら伝聞としてはここまで知れているのかもしれない。
「オシヲ、アシナヅチ様をお呼びして」クシナーダが言った。
「わかった」声の大きな少年は、踵を返した。
 オシヲは柱の向こう側の小屋へ向かい、それとすれ違いに男が一人やって来た。
「クシナーダ、誰だ、そいつらは」
 血気盛んで、腕っぷしにも自信がありそうな面構えだった。
「イタケル、こちらはみかほし様とスクナです」
「スサノヲ」と、訂正を入れた。
「あ、そうです。この世でのお名前はスサノヲ様」
 クシナーダはそんなことを平然と言い、スサノヲを驚かせた。
「船が難破されたとかで、難儀されておられました」
 説明を聞き、ふうん、とイタケルは眉を上げた。
「最近は大陸から次々とわけのわからん奴らがやって来て、このワの国を引っ掻き回してばかりだ。おめーも、そんな連中の一人か」
 あながち的外れな推測ではなかった。
「そうかもな」
「ほう。おめーもこの国に取りつく疫病神か」
「イタケル……」クシナーダがいさめようとする。
「疫病神というのなら、そうかもな」スサノヲは言った。「それも最強の疫病神かもしれん」
 イタケルの眼が剣呑さを鋭く増した。「なら、すぐに出て行ってもらおうか」
「そうは行かない」
「なんだと?」
「お前には関係ない。祟られたくなかったら黙っていろ」
「祟るだと?」
「俺は疫病神なのだろう? 祟るかもしれんぞ」
「面白え。祟ってみろ」とは言いながら、イタケルの表情はこわばり、少しばかり青ざめていた。
「俺の祟りはわかりやすい」
「おやめなさい」
 クシナーダのふわっとした声が、握り固めた拳を相手の顔面に叩き込んでやろうというスサノヲの意欲を挫いた。
「イタケル、失礼ですよ。スサノヲ様も、争い事を起こしては、あなたがお困りになるのでは?」
 その通りだった。スサノヲはヨモツヒラサカの場所を知りたくてついてきたのだ。
「クシナーダ、こんな流れ者、むやみに信用するな」と、イタケル。
「あら、悪い人ではありませんわ。現にこの子を助けて連れてきてくださったのですから」
 クシナーダはそっとスクナの肩に手を置いた。
「坊主、どこの子だ」
 イタケルは膝を折り、スクナと同じ目線になった。スクナは少し後ろへ身を引く。
「……ナの国」
「この子は女の子だ」と、スサノヲ。
「そうなのか?」
 イタケルは、顔をよく見るためにスクナの髪をかきあげようと手を伸ばした。スクナはスサノヲの背後に回って隠れた。すっかりスサノヲは庇護者にならされてしまっていた。
「この子の面倒をこの里で見てやってくれないか。両親も一緒に船に乗っていたんだが、行方が分からない」
「それはかまわないと思いますが……あ、アシナヅチ様」
 クシナーダが礼の姿勢を取って迎えたのは、杖をついた白髪白髭の老人だった。先ほどの声の大きな少年、オシヲとやって来る。ほかの村人たちは――子供たちに至るまで――、老人に多大な敬意を示した。村長(むらおさ)だとはっきりとわかる。
「アシナヅチ様、こちらはスサノヲ様。そしてスクナ……」
 これも白くなった濃い眉毛の下で、アシナヅチの眼がスサノヲを静かに見つめた。
「どこからまいられた」
「カラ国から」と、スサノヲは答えた。
「その前は?」
「大陸の西のほうだ」
「その前は?」
「…………」
 ――こいつ、視(み)えているのか?
 そんな疑念がよぎった瞬間、村たちに混乱が生じた。悲鳴が上がり、走り回る人影が交錯した。
「なんだ?」イタケルがいち早く反応した。
 剣を持った男たちが十数名、里に乱入してきたのだ。しかし、彼らは襲ってきたという印象ではなかった。むしろ、何かから逃げ回っているような必死な形相をして、喚き散らしながら、剣をふりまわし、里の中へなだれ込んできたのだった。血を流し、傷ついている者もいた。
「オロチのやつらだ」
 イタケルが猛然と走り出した。そこらへんにあった棒切れを手にし、対抗しようとする。が、彼が暴漢たちのところへ到着する前に、暴漢たちの背後におよそ倍はあろうかという軍勢が出現した。そのうちの半数が前面に出て、弓矢をつがえた。
「放て!」
 いっせいに矢が射かけられた。ざあっと降り注ぐ矢は暴漢たちの背後から急襲したが、そのうちの何本かは里人を傷つけた。一本はイタケルの頭部をかすめたものもあった。
 クシナーダが衣を翻し、走りだした。傷ついた里人のところへ助けに向かったのだ。
「かかれ!!」
 号令と共に、整然と隊列を保っていた軍勢は、一気に押し寄せた。見るからに鍛えられた剣を抜き、生き残った者を次々に血祭りにあげて行った。統制され、訓練された兵士たちだった。
 武装も異なる。兵士たちは金属製の甲冑を身に着けていて、盾さえ用意していた。だが、暴漢たちは皮の衣を身にまとい、できの悪そうな剣くらいしか持ち合わせておらず、剣戟では折れることすらあった。
 混乱した現場から里人が逃げ出していく。しかし、矢で脚を射抜かれた老人は身動きができなかった。クシナーダが駆け寄る。
 そのすぐそばで、今まさに甲冑の兵士が敵を切り殺すところだった。返り血を浴びた兵士はぎらつく眼を、クシナーダと老人に向けた。
「お前らもオロチかぁ!!」
 剣をクシナーダに向けた瞬間、その兵士は吹っ飛んでいた。走り込んできたスサノヲの掌底が、わき腹を強打したのだ。
 それに気づいた数名が、スサノヲに対して反射的な敵意を向けた。左右、そして正面から取り囲む。傷ついた老人とクシナーダが動けないため、スサノヲはその場からは離れられなかった。考えるより早く、すっと身を低くした彼の右脚が地の上を弧を描いて一閃した。正面の兵士がそれで足元をすくわれて倒される。同時に彼は兵士の剣を奪い、回転することで視野に入った左右の兵士の一人の剣を弾き返し、もう一人は胴を蹴り飛ばしていた。
「やめろぉ!!」イタケルが叫んだ。彼は殺された暴漢の剣の一つを奪い、スサノヲのそばに駆け込んできた。「なんなんだ、てめーらは!?」
 そのときにはすでに、最初の暴漢たちは全滅していた。ほんのわずかな時間の出来事であり、後から攻め込んできた軍勢にはただ一人の負傷者もなかった。スサノヲに弾き飛ばされた者以外は、すべて地を踏みしめて立っている。
「ここはオロチ国の領土か」
 一人の背高い男が、前に進み出てきた。隊長格と思われる男は顔面に刀傷を持つ隻眼の男だった。
 里人の大半は、周辺の小屋に逃げ込んでいた。だが、腰を抜かしたようにその場に釘付けになっている者もいる。
「答えよ」
 いつの間にか、アシナヅチが前へ進み出ていた。「ここはワの民の村、トリカミの里じゃ」
「ワの民? オロチ国ではないのだな」
「そっちこそ何者だ?!」イタケルが憤りをみなぎらせて言った。「このような傍若無人、許さんぞ!」
「われらは神の民、カナン」
「か、神の民だと?」
 あッ、と軍勢の中で声をが上がった。
「どうした、モルデ」隊長格が振り返る。
 最初にスサノヲが掌底で突き飛ばした兵士を助け起こそうとしている一人が、驚きの眼でスサノヲを見ていた。
「あなたは……スサノヲ様」
 スサの街で、エステル、エフライムと一緒だったモルデだった。
「カイ、大丈夫か」と、倒された弟兵士を気遣いながら立ち上がる。
「モルデ、知っているのか」
「ヤイル、この方こそ、スサでエステル様と私をお助け下さったお方」
「エ、エフライム様に似ている……」
 ヤイルははたと気づいたように、スサノヲの顔をまじまじと見つめた。
 暗雲がにわかに濃くなった。
 そのとき馬に乗った人物が、数名の取り巻きを従えて村に入ってきた。甲冑に身を包み、腰には大ぶりな剣を帯びていた。
「エステル様……」と、モルデ。
 馬上の人物はエステルだった。
 軍神――それも女性の軍神といった言葉がふさわしかった。カナンの兵士たちはエステルの入場に、皆、腰を落とした。
 馬を停め、エステルは周囲の状況を確認していた。そして……
「お前は……」
 鞍から飛び降りた。そしてモルデと目を合わせた。
「エステル様、スサノヲ様です」
「まことか……。こんなところで会おうとは……」
「奇遇だな」スサノヲは周囲の惨状にあえて見ながら言った。「ずいぶん派手なご登場じゃないか。会う場所では、かならず流血があるな」
 エステルは言葉に詰まった。「……こんなところで、そなたは何をしている」
「俺はただ目的の地に辿りついただけだ」
「では、そなたが言っていたネの片隅というのもここだったのか。なんという偶然だ……」
「そうやって侵略しているところを見ると、あんたらが言っていた〝約束の地〟というのもここらしいな。このワの国を征服しようとしているのか」
 征服という言葉に、その場に残っていたワの民たちに動揺が走った。
「なんだとぉ?」イタケルが気色ばんだ。
「当たり前だ」エステルは傲然と言い放った。「この葦原の国、ワの国は、われらのために神がお約束された〝もう一つ土地〟だからな。われらにはここを支配する権利がある」
「ふざけやがって……」
 エステルはイタケルの怒りなど歯牙にもかけず、柱の立つ広場の中央、高台へ登って行った。そしてあたりを俯瞰(ふかん)した。
 雷雲がいつの間にか立ち込めていた。遠雷が響く。
「ここは良いところだ。実りが多く、清らかな水が流れる土地。このような土地が、この地上にあろうとは……。こここそが、神のお約束されたカナンの地なのだ。ここにわれらはかつての栄華を極めた王国を再建する」
 エステルは腰に帯びていた長剣を抜き出した。そして、それを大地に突き立てた。あたかもその行いに呼応するように、すぐ近くで雷光が輝き、大空全体を轟き震わせた。
「われらはこの国を貰い受けに来た。死にたくなければ国を譲れ。神の名のもと、この国の正統なる所有権はわれらにある!」
「お前らの言う神ってのは、いったいどの神じゃ!」イタケルが噛みつくように言った。「山の神か、川の神か、それとも雷の神か!」
「神は一つしかおわせぬ! どれもこれもない!」
「他は否定するか」と、アシナヅチが言った。
「当り前であろう」
「それではやがてわが身を滅ぼす」
「なに?」
 アシナヅチはスクナを連れ、そばまでやって来ていた。彼はオシヲほかの残っていた者に負傷している村人を運ばせ、治療するように指示した。クシナーダのそばにいた老人も運ばれていく。
「そなたらは大陸のはるかか西のかなたからやって来たのであろう。国を奪われ、長く虜囚の憂き目に遭い、もはや帰るべき土地も多くの異民族に占拠されておる……」アシナヅチは瞑目していた。が、彼は何かを視ているようだった。「列強の国々が支配を繰り返す中、そなたらは故郷の土地で、その〝神の王国〟を再建することをあきらめ、別な土地を求めてここまで来た。そうであろう」
 エステルたちはしばし絶句していた。アシナヅチの言葉がことごとく的中していたからだ。
「そなたらは根本的な考え違いをしておる」
「なんだと?」
「国や土地を得るためには、奪い取らねばならぬ。そう思うておるのであろう? 目には目を歯には歯を」
「…………」
「この国の土地は誰のものでもない。皆このワの島国で共に生きる。ただ、それだけのことじゃ。この島国は、はるかな昔より、多くの民が流れ着き、そしていつの間にか一つになって暮らしてきた。南方より黒潮に乗って来た者、凍てついた雪と氷の大地より下ってきた者、稲を持って渡来してきた者、そしてわれらのように古(いにしえ)よりここで暮らす者……。ここで生きれば、皆、共にワとなる。この国がワの国と呼ばれるのはそれゆえ。それゆえに――」
「ゆえに?」
「そなたらもここで共に生きるがよい。ただ、それで良い」
 アシナヅチの論法は、エステルのこれまでの理解を完全に超えたものだった。どう反応したらよいのか迷った挙句、彼女は笑った。
「ふ……ははは。ワの民というのは、つまり争わぬということか」
「さよう。そなたらと争う理由がない」
「理由はあるぜ!」イタケルが言った。「こいつらは里の人たちを傷つけやがった!」
 アシナヅチは杖を持つ手で、イタケルを制した。
「その若者が言うことには理がある。悔しければ戦ってみよ。そのほうが現実が骨身にしみるだろう」
 エステルは地に刺した剣を抜き、そしてそれをイタケルやアシナヅチに向けた。
「やめろ」スサノヲが言った。「エステル、見ての通りだ。この小さな村には、ろくな武器もない。あるのなら、とっくに持ち出してきているだろう。平和に暮らしている人々から土地を奪わずとも、お前の目的は達せられるのではないか」
「そうも行かぬ」
「なぜ?」
「この地は戦略上、重要な場所だ。東のオロチ国と対峙していくためには、ここを抑えておいたほうが良い。東西だけではなく南北にも通じる道がある。そのために今日は、この近くのオロチの重要拠点を叩き潰したのだ」
「どうあってもここを取るつもりか」
「取ると言ったら?」
 スサノヲはスクナが自分を見つめているのに気付いた。それは救いを求める者の眼だった。クシナーダもじっと見つめていたが、彼女の眼差しは色が違っていた。救いを求めるのでもなく、ただスサノヲの為すことを追いかけようとするものだった。
「――ならば、仕方ない」
 スサノヲの姿はその場から消えた。人々は眼を疑ったであろう。彼はろくな助走もなく、ひとっ跳びにエステルの立つ場所まで飛びあがっていた。
 そして、すでに彼女の喉元へ剣を突き付けていた。
「エステル様!」
 兵士たちに動揺が走った。
「兵に引くように命じろ」と、スサノヲは言った。
 エステルは青ざめていた。スサノヲの常人ならざる速度は、スサの地で一瞥したものだったが、まざまざと自分の身でその恐ろしさを味わわされていた。
「私を殺したところで、カナンの理想は潰えない。ヤイルやモルデがかならずこの国を制圧するだろう」
「それは不可能だ」
「なぜ、そう言える」
「お前は知っている。俺がたった一人でも、お前の仲間を全滅させられるのを」
 それは掛け値なしの真実だった。
「俺を敵に回さないほうがいい。でないと、神の王国どころではなくなるぞ」
 再び雷光と轟が生じ、二人の横顔を染めた。
「……いいだろう」エステルの顔が笑みを浮かべた。ゆっくりと自分の剣を鞘に収める。
 それを見て、スサノヲも剣を引いた。
「皆の者! 剣を収めよ!」
 エステルの命令で、兵士たちは安堵した。
「そなたにはスサでの礼もできていない。そなたがそこまでご執心なら、この村には手を出さずにおく」
「感謝する」
「あのときの剣はどうした?」エステルはスサノヲの手元や腰回りを見て言った。
「ああ、舟が難破して、一緒に海の中だ」
「ならば、これを使え」と、エステルは自分の剣をベルトごと外した。「わが一族に伝わる霊剣だ。弟の形見だがな」
「エ、エステル様、それは――」と、ヤイルが近寄ってくる。
「よい――。さあ、これを使え」
「いいのか?」
「スサで一度、今日で二度、命拾いをさせてもらった。弟も喜ぶだろう。それに、その剣、私には少しばかり重くてな」と、苦笑する。
「ならば、遠慮なく」スサノヲは長剣を受け取った。
「だが、覚えておくがよい」その言葉はスサノヲだけに向けられたものではなかった。アシナヅチ他、ワの民にも発せられたものだった。「われらはこの島国に、カナンの王国を築く! 邪魔するものは容赦なく滅ぼす! 肝に銘じておくのだな!」
 エステルは高台を降りて行った。馬に飛び乗ると、号令した。
「行くぞ!」
 カナンの軍勢は整然と村を出て行った。一度、モルデが振り返るのが目についた。
 雨が降り始めた。最初はパラパラッとだったが、すぐに切って落とされたような豪雨になった。アシナヅチの命で、殺された者たちが運ばれていく。どこかで弔われるようだ。
 びしょ濡れになって、スクナとクシナーダが待っていた。
 スサノヲは二人のところへ降りて行った。



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