子供を前に。
その子は今、河原の岩の上で座り込んでいる。
スサノヲはといえば、熾火の上で獲ってきた川魚を焼いている。自分が空腹だったということもあるが、子供に食わせなければならならなかった。
人は脆く、食べなければ死んでしまう生き物だ。
スサノヲ自身、この地上で飲まず食わずでいられた時間は長くない。自分がこの地上のものになったのだということを教えてくれたのは、喉の渇きや空腹だった。
身体の機能を維持するために、水や他の生命――植物であろうが動物であろうが――を体内に取り込まねばらないというのは、おそろしく面倒な事態だった。しかし、避けられない。自分だけでもそうなのに、子供をしょい込んでしまった。
「ほら、焼けたぞ」
スサノヲは熾火の上から、じりじりいっている火傷しそうな魚を取り出した。葉に乗せ、子供のいる岩の上に置く。しかし、子供は膝を抱え込んだままだった。
人は脆い。
肉体だけではなく、心までもが脆い。
この脆い人間の、しかも子供を助けてしまった。助けたときは、ほんの気まぐれに過ぎなかった。カラ国を出港する前、両親のそばで無邪気に騒いでいた子供の顔を思い出し、憐れに思ったということもある。が、一度助けてしまうと、今はもっと重大な問題になってしまっていることに、スサノヲは気づいていた。
それは、見放すことができない、ということだった。一度助けてしまったが最後、子供を安心のできる環境に届けてやるまで責任が生じてしまっていた。
「食わねば歩けない。食わないなら置いていく」スサノヲは新しい魚を熾火の上から取り、熱々の身に噛り付いた。「お前の親は、もしかすると俺たちのように生きているかもしれない。ここがカラ国なのかワの国なのかわからないが……どうする? お前はこれを食って歩くか、それとも食わずに座っているか。どちらでも好きにするがいい」
親が生きている可能性など、スサノヲは信じていなかった。が、今はこの子供を生かすことを考えなければならなかった。
子供はゆっくりと手を伸ばし、魚に噛り付いた。
それを見て、スサノヲは尋ねた。「お前、名前は?」
「……スクナ」
「俺はスサノヲという」
スクナは黙って、魚を食べていた。
「お前、女の子だな」
食べるのがちょっと止まった。男の子のような身なりをしていたが、海岸で担ぎ上げたときに、スサノヲは気づいていた。
「お父ちゃんが、そうしていろって……。男の子に見せていたほうが、連れて歩きやすいからって」
「男の子のほうが安全か。お前はもともとワの国の者なのだろう。お前の親はそうまでして、なぜカラ国へお前を連れて行った?」
スクナは答えなかった。
「まあ、いい。答えたくなければな」
スクナはスサノヲをおずおずと見た。「ここはワの国だよ」
「なぜ、そう言える」
スクナは近くの茂みを指差した。葉がぎざぎざになっている小さな樹木があった。青い実をつけている。
「あの葉は、かぶれや火傷に効くの。あれはワの国にしかない。寒くなったら、実が赤くなる」
「ほう」スサノヲは感心した。「お前、物知りだな」
「お父ちゃんに教えてもらった……」
そう言いながら、少女の目はまた赤くなってきた。両親の命が絶望的であることは、彼女が一番よく理解していただろう。
「ほらっ。もっと食え」
スサノヲは魚を取ってやった。スクナは目をこすり、がつがつと食べた。悲しみがあっても生きようとする健気な意志が、その様子からうかがえた。二匹の魚を平らげると、少女は山の斜面から川のほうに突き出している一本の木を見上げた。
「あれ……採(と)れないかな」
高い木の枝の先のほうに、何か果実のようなものが生っていた。ただ、その樹木の実ではなく、樹木に巻き付いている蔓性の植物のもののようだった。赤紫色の細長い果実がぱっくり割れているのが、いくつか群がるように生っている。
木に登って、枝の先のほうまで行かないと採れそうになかったが、枝は細い。大人の体重にはとても耐えられそうにないし、飛びあがったところでとても届くような高さではない。
「無理かな」と、少女は遠慮がちに言う。
「あれ、うまいのか」
「おいしい」
「そうか」スサノヲは立ち上がり、果実の下まで行った。
道具も何もなかった。スサノヲは丸腰なのだ。スサで生成した剣も、嵐で船が難破した時に失ってしまっていた。おそらくは今頃、海の底だろう。地上になじんでしまった彼に剣を再度生成する力はなかったし、ここで便利な道具を作り出すことなど、もちろんできなかった。
スクナは眼を疑ったことだろう。スサノヲの身体は低く縮んだと思ったら、次の瞬間には宙へ跳ねあがっていた。優に身の丈の三倍は跳躍し、楽々と果実をもぎ取っていた。
「すごい……」
賛嘆の眼差しのスクナの鼻先にスサノヲは果実を突きだした。少女は驚きながらも喜んで、その果実を手にした。宝物を得たような表情がちらっとよぎる。外側の皮のような部分が二つに割れ、その裂け目に白い果肉が見えている。彼女はそこへ口を突っ込むようにして食べ始めた。
「おいしい……」泣きそうなくらいうれしそうな表情だ。いや、泣いていた。「これはアケビ……いつもお父ちゃんが秋に採って来てくれた……おいしい」
「そうか。そんなにうまいか」
スクナは無言で、アケビを一つ、スサノヲに差し出した。本当に見たこともない、ちょっと気味悪い外観の果実だった。
「カラ国にもアケビはあるよ」
「そうなのか?」不信感でいっぱいになりながら、スサノヲは見よう見まねでかぶりついた。ぬるっとした果肉が、口いっぱいに広がった。
そのとたん、衝撃を受けた。甘く、とろけるようなうまさだった。
「うまい……甘くてうまい。なんだ、これは」
呑み下し、また口に含んだ。
「あ! ダメだよ、種を食べちゃ。糞詰まりになっちゃうよ」
ぶーっと、スサノヲは種を吐き出した。「ふ、糞詰まり?」
「この白いところだけを食べるんだよ。本当に知らないんだね」
「先に言え」
むっとしながらスサノヲは睨みつけた。まだ涙で濡れていたが、スクナの顔がくしゃくしゃになって、笑っていた。
ふっと、スサノヲは笑った。そして少女の頭をぐしゃぐしゃに撫でた。そして、そんな仕草をしてしまった自分に戸惑った。
――気ヲツケロ。
奇妙な声が聞こえ、はっとさせられる。スサノヲは旅の途中で、人語の真似をする奇妙な鳥を見たことがあった。ちょうどそのような声に聞こえた。
「どうしたの?」
周囲を見まわすスサノヲのことを怪訝に見るスクナ。少女には聞き取れなかったようだ。
スサノヲは先ほどのアケビが生っていた木の枝に、大きな黒いカラスが止まっているのを見た。まるで人間のような思考力がある眼をしたカラスだった。一目で普通の野鳥ではないとわかった。
「お前か……。スサからずっと俺のことをつけまわしていただろう」
――ツケ回シテイタノデハナイ。案内シテヤッテイタノダ。
カラスを通じて思念が飛んでくる。が、カラスなど媒体に過ぎない。どこかに本体が存在するように思えた。
――ヨウヤク辿り着イタナ。ワザワザ遠回リバカリシオッテ。
「よけいなお世話だ」
スクナは唖然として、スサノヲがカラスと話すのを見ていた。むろん、カラスからの声は聞こえておらず、ただ一方的にスサノヲが語りかけているように見えたろう。
「いつ焼き鳥にしてやろうかと思っていた。なんなら、これから焼いてやろうか」
――ハハハ。ソンナ暇アルマイ。
「どういう意味だ」
――スグ分カル。
ずん、という響きが、どこか深いところで生じた。そのとたん、大地が異様に鳴動し、いっせいに木々が悲鳴のようなざわめきを発した。ゆるやかだった川面もにわかに波立ち、河原の岩という岩が騒ぎ立てた。
地震だった。
スクナが短い叫びを上げ、慌てて岩の上から転げ落ちそうになる。スサノヲは危うくそれを受け止め、少女の頭を抱きかかえ、河原に伏せた。さすがに立っていられない。上下左右にむちゃくちゃに搖動する地面の上に、周囲の木々から葉や木の実が無数に落ちてくる。
山々が鳴動し、メキメキ音を立てて老木が倒れた。大木でさえ、今にも折れそうなほどたわんでいるのが見える。川の水が、大蛇のようにうねった。
さすがに肝が冷える瞬間だった。
しばらくすると、暴れていた地面は沈静化した。しかし、まだ大地には余韻のような震動が、ずっと残っているように感じられた。
「す、すごい地震(なえ)だった……」
腕の中で、スクナが身じろぎをし、言った。スサノヲはアケビの生っていた木の枝を見上げた。すでにカラスはいなかった。
「この頃、地震がとても多い。巫女様は前に言っていた。前触れだと。だから、地震がとても多いんだと」
「巫女様?」スサノヲはスクナから離れ、尋ねた。「前触れというのは、なんのことだ」
「ワの国には巫女様がたくさんいる。みんな、これは大きな前触れだと……」
スクナの眼が、ある一点で止まった。その視線を追いかけると、川の対岸に一人の娘が佇んでいるが見えた。
ススキが無数に立ち上がっている中に、長い黒髪を結った美しい娘がいた。臙脂(えんじ)の衣を身にまとい、手には竹で編んだ籠を持っている。つぶらな瞳を見張って、呆然とスサノヲらを見ていた。唇が動く。みかほし……なにか、そんなふうに言ったように聞こえた。
「あの人……巫女様だ」と、スクナが言った。
「そうなのか」
「ほら、勾玉の首飾りをしてる」
娘の胸元には大きな翡翠の勾玉が下げられているのが見えた。
「ここはワの国か」スサノヲは大きな声で問いかけた。
娘はうなずいた。「はい。ワの国です」
その声のヒビキのあまりの心地よさに、スサノヲは戸惑った。
「ワの国のどこだ」
「ワの国のナカの国にございます」
「ナカの国……」
「東の国と西の国の間の国でございます。ここはナカの国の中のトリカミの里」
「真ん中ということか」スサノヲは振り返った。
「トリカミなら知ってる」スクナは意を察して答えた。「たくさんの巫女様の中でも、一番古くてえらい巫女様の里だ」
「ほう。――ならば、知っているか」スサノヲは娘に問いかけた。
娘は首をかしげる。
「このワの国には、ヨミの国に至る道、ヨモツヒラサカがあると聞く」
「ヨミの国……」娘の顔色が変わった。
「知っているのだな」
言下にスサノヲは跳んだ。川幅は彼の運動能力をもってしても、ひとっ飛びにできるようなものではなかったが、途中の岩や中州を飛び渡ることで、水に濡れることなど一度もなかった。ほんの瞬(まばた)きの間に目の前に近づいた男を、しかし、娘はきょとんとして見、次には「すごい」と笑って褒めた。手でも叩きそうな表情だ。
いきなり調子を外され、スサノヲは気を取り直さねばならなかった。
「知っているのなら教えてもらおうか。その場所を」
娘はまじまじとスサノヲを見つめ、顔を近づけてきた。逆にスサノヲは引かねばならなかった。かと思うと、急に娘は大きく何度もうずいた。自分ひとりで納得するかのように。そうしながら、周囲に散らばっていた鮮やかな色の木の実を拾い、籠に集め始める。
「な……」
うまく言葉が出なかった。警戒するとか怯えるとか、こちらが想定するような反応を、娘はいっさい示さなかった。どうやら拾っているのは、これまで収穫した木の実らしい。先の地震でまき散らしてしまったのだろう。
それにしてはこの娘の気配をまったく感じなかった、ということをスサノヲは不審に思った。あれだけの大きな揺れだ、普通の娘なら悲鳴の一つや二つ上げてもおかしくないのに、この娘はどうしていたのだろう……。
「一つ、いかがですか」娘は鮮やかな橙色の果実を差し出した。「お食事をなさっていたのでしょう?」
「…………」
うまく返事ができず、スサノヲは思わず娘が差しだす果実を手に取っていた。
「おいしいですよ」と、娘が無邪気に言う。
柿だった。スサノヲはそれを大陸でも見たことがあった。いかにもうまそうに見えるその果実は、しかし、口に入れると、とてつもなく渋かった。噛り付く気にもならず、手にしたまま凍り付いていた。
「うん。おいしい」
スサノヲが躊躇しているのを見てなのか、それとも自分が食べたいだけだったのか、娘はその同じ果実に噛り付き、頬張っていた。それを見て、スサノヲも口に入れてみる気になった。先ほどのアケビにも劣らぬ衝撃だった。大陸の柿とは別物だった。
「うまい……。こんな果実があるとは」
「あなた、お名前は? みかほし様?」
「みかほし? いや、俺はスサノヲ」
「スサノヲ?」娘は目を丸くし、その言葉を胸に落とし込むように、何度か小さくうなずいた。そして、振り返って言った。「わたくしはクシナーダと申します」
クシナーダ、という言葉のヒビキは、スサノヲに少なからぬ衝撃を与えた。初めて聞いたような気がせず、なぜか心の琴線に強く触れるものがあった。その理由を探ろうとするのだが、どうしても自分の中には答えは見いだせなかった。
「いいヒビキだ……クシナーダ」
「知っていますよ」
「え?」
「ヨモツヒラサカの場所を」
「やはり知っているのか。教えてくれ。どこにある、それは」
興奮し、娘の両肩をつかんだ。が、彼女は怯えることもなく、まっすぐにスサノヲの眼を見つめ返して言った。
「ヨミの国はさまよえる死者の国。なぜそのような場所に?」
「そんなことはどうだっていい」スサノヲのほうが、やや狼狽せずにはおれなかった。「いいから、教えてくれ」
「理由も知らされず、簡単に教えられるようなところではございません。そこらへんの原っぱに散歩に行くのとはわけが違います」
きっぱりと言うクシナーダは、スサノヲの手を払いのけた。か弱い小娘だと思っていたが、意外に毅然としたところがあった。
「ヨミへ行けば、生きて帰ってこられないかもしれないのですよ」
「それは俺であって、あんたじゃない」
「では、あの子はなんなのです」クシナーダが指差したのはスクナだった。「あの子は、あなたのなんなのです。あなたの子ですか」
「い、いや」どうも調子がくるっているのを感じながらスサノヲは言った。「ただの旅の連れだ。船が難破して、近くに打ち上げられた」
「どうして放っておかないのですか」
言葉に窮した。
「あなたはあの子を助けた。そういうことでしょう」
「まあ、そうなる……」
「あなたがあの子が死ぬのを放っておけないのと同じように、わたくしもあなたが死ぬかもしれないような行いをするのを放ってはおけません」
これはスサノヲの分が悪かった。なぜこのようなことになってしまっているのか……ともかくクシナーダのほうに明らかに理があった。そしてそのような事態を招いてしまったのは、ひとえにスクナを助けるという行いをしてしまったからだと、スサノヲは気づかされた。
「頼む。俺はどうしてもヨミの国へ行かねばならないんだ」
戦術を変えることにした。優しそうな娘だ。懇願するという手段なら落ちるかもしれない――と思ったのは、まことに浅はかだった。
「いずれ死ねば、皆、そこへ行けます。焦ることはありません」
がん、と大きな岩で打ちつけられたようだった。
クシナーダは、話は終わったとばかり、背を向けて歩き出した。慌てなければならないのはスサノヲのほうだった。
「スクナ……! 火を消して、こっちへ……」と言いかけ、スクナには川を渡るのは難儀だと気づき、一度戻った。焚火に水をかけ、消化すると、スクナを背負い、川を飛び渡る。その頃には、クシナーダの姿はススキの影に見えなくなりつつあった。
クシナーダは一度振り返った。そして、腰を折り、頭を低くして、礼の姿勢を取った。誰に向かっての礼だったのか……スサノヲには、彼女があのアケビが生っていた木のあたりに向かって会釈したように見えた。
しかし、そこにはもちろん、誰もいなかった。
三人が去ると、アケビが生っていた木の枝に、いつの間にか人影が二つ出現していた。細い枝の上に、肩幅の広い異形の男と、彼の身体に蔓がまきつくように寄り添って女が、二人もそろって立っているのは、体重を消せる術がない限りあり得ない光景だった。
「相も変わらず騒々しい男じゃ」と、異形の男が言った。鳥類を想わせる尖った鼻の面をかぶっていた。「山を鳴らせおった」
くすくす、女が笑った。「面白い。楽しい」
「ウズメ。そなたはなんでもそうやって面白がる」
「いけませぬか、サルタヒコ様」
「…………」
笑い声をあげ、ウズメは枝から飛び降りた。そしてスサノヲたちの後を辿って歩き出す。
同時に黒い大きなカラスが枝から飛び立っていった。
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ポチしてくださると、とても励みになります。ありがとうございます。

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このブログの執筆者であるzephyrが、占星術鑑定の窓口を設けているのはFC2ブログにある<占星術鑑定に関して>の記事のみです。