エステルは甲板に立ち、川を遡上するにつれて見えてくる島国の様子を眺めていた。
「いよいよですな、エステル様」と、ヤイルが隣で言った。
屈強な中年の男だ。額から左眼にかけ、刀傷が生々しく残っているのは、スサの探索中に受けたものだった。むろん左眼は失明している。
エステルはうなずき、腰に帯びた剣の柄に左手を置いた。弟、エフライムが使っていた形見の剣だった。
「エステル様――!!」
ようやく男、モルデの声が耳に届くようになる。モルデは満面に笑みを浮かべ、大きく幾度も手を振りながら、川を遡る船に合わせて走っていた。
「兄さん!」
船首まで出て行き、弟のカイが叫ぶ。モルデとは四つ下のカイは、まだ若干、少年っぽさをとどめる若者だった。
船が接岸した。エステルは真っ先に下船し、桟橋を渡り、陸地を足で踏みしめた。
「エステル様――」モルデが前にひざまずく。
「モルデ、ご苦労」
労をねぎらう以上のことも口にしたかったし、目もしっかりと合わせたかった。が、エステルはあえて歩みを止めなかった。港近くに小高い場所があり、そこからの景色を眺めたかった。
――それにしても、とエステルは思う。
美しい。
その想いは、丘の上に出ると、いっそう深いものになった。大陸の広大な風景とはまったく異なる。こぢんまりとはしているが、豊かで、何か神が作った小庭のような景観だ。周囲を取り囲む山々は、いずれも険しくなく、濃い緑に覆われていた。あまり目にしたこともないような鮮やかな赤や黄も山々を彩っている。入り江に流れ込む河川は清らかで、そしてその周辺には背を伸ばす植物たちが見える。
葦だった。
水中から何百何千もの細い茎が生え、風に揺られていた。
葦の原がそこに広がっていた。
しばし呆然と、エステルはその景色を眺めていた。
自然と涙があふれ出た。
「エステル様……」そばに来ていたモルデが、遠慮がちな声を発した。
「カイから報告を聞いておる」エステルは流れ落ちる涙さえ意識せず言った。「葦の原と呼ばれる美しい国だと。このワの国は、葦の原の国だと」
「われらが祖国も、かつては葦の原……カヌ・ナーと呼ばれておりました」ヤイルが言った。
そう。それが「カナン」という呼び名の由来だった。
「われらが探し求めていた〝もう一つの土地〟――もう一つのカナン」
つぶやくエステルの脳裏に、ここへ至るまでのすべてがよぎって行った。侵略によって国が亡び、神殿も街も焼き払われ、男は殺され、女は犯され、そんな中を命からがら逃げ延び、弟エフライムを喪い、はるか長い大陸の道を、仲間を引き連れ、踏破してきたことを。
荒涼とした土地を旅する中、多くの者が病で亡くなり、ある者たちは脱落してその土地に根付き、ある者は戦って死んだ。
大陸の極東に至り、そこから先にもはや土地はないと知った時の絶望感。そして、東海に理想郷があるという、伝説のような話を聞いたときの、一縷(いちる)の望み。
ホウライと呼ばれる伝説郷は、あくまでも伝説でしかなかった。しかし、情報を集めれば、海を東に渡ったところに、さらに国があることはたしかだった。
――ひたすらに東に向かい、世界の果てにたどり着くことじゃ。
メトシェラの言葉だけが、常に心の支えだった。このときもエステルは、藁(わら)をもすがる気持ちで、最後の選択に賭けた。
東海にあるというワの国。そこにもっとも近接した半島までたどり着くと、エステルはモルデとカイの兄弟を核とした先発隊を放った。そして、数日前にカイが戻ってきて報告したのだった。
「ワの国は、葦原の国とも呼ばれております。本当に葦の原が広がる美しい国にございます!」
今、エステルは自分の眼でその言葉を映像として確認していた。
感極まってエステルは、弟エフライムの剣を抜いた。そして、足元に深々と突き立てた。振り返る。そこにはモルデら先発隊、そしてたった今下船してきたばかりの大勢の仲間、カナンの民が集まっていた。
「皆の者、よく聞け!」エステルの号令は、全員の肺腑(はいふ)を震わせるものだった。「我らはこの地に、新しいカナンの国を打ち建てる! ここ以外に〝もう一つの土地〟はあり得ぬ。いや、こここそが神のお約束された、もう一つのカナンの地なのだ!!」
一瞬、間があった。それはエステルの信念が波動となって、全員の心にしみわたる空白だった。しかし、その後、彼らの心から噴き上がってくる熱はすさまじいものだった。
――おお!!
エステルの宣言に応え、彼らは一つの生き物のように声を発した。
「まずはこの地に前線基地を築く! 半島に残してきている仲間を呼び寄せ、ここを拠点に勢力を広げ、やがてこの島国すべてを、我らの支配するところのものとするのだ!」
再び、おお! という声が上がった。
「さあ、家を作れ!」参謀格のヤイルが命じる。「食べ物も獲ってこい! 今宵は宴ぞ!」
ヤイルは民を集め、指示を与えはじめた。カナンの民たちは、精気に満ち溢れていた。一人残らず、喜びと希望で眼を輝かせている。役割を与えられた者は、嬉々として駆け出していく。
「エステル様、こちらへ」と、モルデが言った。
彼は丘陵地の隅に小屋をすでにいくつか作っていた。木造で、屋根は茅で葺(ふ)かれていた。珍しげにエステルは観察しながら中へ入った。切り株を加工した椅子が用意されていたので、そこへ腰かける。
「このワの国では、皆、このような家を作るようです」モルデが解説しながら、エステルの前に座る。「この国は木が豊富です」
「火で攻められたら、ひとたまりもない」と、苦笑する。
「ワの民は、あらゆるところに木を使っています。ああ……ですが」モルデは慌てたように付け加える。「城を築くのなら、考えねばならないでしょう」
「モルデ……」エステルは目を細めた。
これ以上、待つことは二人ともできなかった。互いに手を差し伸べ、指を絡めた。
「エステル様……」
二人は自然と顔を近づけ、口づけを交わした。離れていた分だけ、それを埋め合わせるような激しいものだった。
「お前がここへ来ていた間、ずっと神に祈っていた……。お前の無事を」
「私もエステル様が無事にここへ来られることを祈っておりました」
「ワの国のこと、よく調べてくれた」
二人は顔を寄せ合い、囁くように言葉を交わした。
「私はここへ来て、確信しました。豊かな水の流れる葦原の国。こここそが、我らが探し求めていた土地だと。ただ……」
「ただ?」
「この国の民たちは、あまりにも私たちと違います」
うっとりとしていたエステルの眼は、それで理性的になった。
「違う、とは」
「この国には、我らが信奉する唯一の神はおわしません」
「それは……」エステルは眉を上げた。「どこでもそうだったではないか。我らと同じような、崇高なる唯一の神を崇める民は、この地上のどこにもいなかった」
「ええ。この国の民も多くの神々を崇めています」モルデは立ち上がり、木造の小屋の中から外を見た。「木の神、山の神、火の神、川の神、太陽の神、月の神……。ですが、どこか、違うような気がするのです」
「違う? 他の国々の、多神を崇める者どもと、どう違うというのだ」
モルデは言葉を探し、「いや」と首をひねった。「よくはわからないのですが、そんな気がするのです。気にしないでください」
「いずれにせよ、有象無象(うぞうむぞう)の神々など信奉する民には、救いもなければ叡智もない。我らがこのワの国を平定してしまえば、それで良い。聞けば、このワの国にはろくな集権国家もないという話ではないか」
「いや、そのことなのですが……」
モルデが言いかけたとき、ヤイルとカイが二人そろって小屋にやって来た。人の割り振りが終わったのであろう。
「良い土地だ」と、ヤイルが満足げに言った。「まさに神が、我らのために残してくださった、格別の土地。開墾すれば、良い作物が実るだろう」
「次の便で、馬も運びましょう」と、カイ。
「ちょうどよかった。ヤイルも聞いてくれ。カイもだ」
真剣な表情のモルデに、楽しい雑談をしている雰囲気ではなくなった。
「じつは、カイをカラ国へ送り返した後、この近くで戦があった」
「えッ?」と、カイは目を丸くした。「兄さん、このワの国にはろくな国はないとかいう話だったじゃないか」
「そうだ」ヤイルも言った。「半島からの玄関口のナの国というのは、古くからの強国だが、それ以外はいずれもちっぽけな村々だと」
「違ったんだ。ここは大陸で聞いたような理想郷ではない。それどころか、我らと同じように大陸から渡ってきた勢力が、バラバラに小さな国を作り、争っている」
「うかうかしておれんということだな」と、エステル。
「はい。中でも東にある〝オロチ〟という国が大きな脅威です」
「オロチ?」
「その国ではクロガネを自国で生産しているようです。もちろん剣も持っています。これをご覧ください」
モルデは小屋の片隅に立てかけていた剣をエステルに手渡した。彼女は食い入るようにそれを見つめ、柄の握りや刃の鋭さを確かめていた。
「殺された兵が持っていたものです。むろん、我らが所持する剣ほどの強度はなく、切れ味も劣ります。しかし、クロガネを量産できるだけの技術も持っているとなると、これは侮れません」
彼らカナンの民が拠ったのは、ナの国よりも東にはずれた地域だった。情報収集をし、要らぬ争いを避けるため、力を持つ国から離れた場所に拠点を置こうとしたのだ。しかし、東にも脅威はあったのだ。
「国造りを急がねばなりませんな」ヤイルが言った。「いかような事態にも備えらえるよう」
「……いや」
エステルは宙を見据えていた。彼女のつぶらな、非常に強い瞳は、ある種のカリスマ性を備えていた。でなければ、男性優位の父系社会のカナンの民の中で、リーダーになることなど、決してかなわなかったろう。
「それでは遅いかもしれん」
「遅いと言われますと?」
「ヤイル、ここまでの旅で我らが幾度、苦い思いをしてきたか、思い出せ。こちらの態勢が整うのを待っていては、この約束の土地を追い出されてしまうかもしれん。我らにはもう、ここよりほかに行く場所はないのだ」
「いかがなされます」
「先手必勝。時間をかけて国造りをする必要などない。すでにあるものを奪えばいいのだ。モルデ、カイ」
二人の兄弟は、はい、とエステルの前にひずまずいた。
「明日から周辺の探索をしてくれ。まずは、この周辺のどこか、手ごろな小さな国を奪う」
夜が訪れていた。月明かりが差し込み、虫の鳴き声が耳触り良く、響いている。
こんな静かな心地よい夜を、エステルはここ何年も迎えたことはなかった。それは隣にモルデがいて、肌の暖かさを感じさせてくれているということがあるにしてもだった。
その安堵感は、これまでどのような土地にいても味わったことのない、満ち足りたものだった。エステルは確信を深めた。こここそが、約束の地だと……。
胸の上にあるペンダントの宝珠を無意識に握りしめた。
「……不思議な形だ」耳元でモルデが囁いた。
彼はエステルの指をほどけさせ、宝珠を掌に載せた。
「なぜ、このような曲がった形をしているのかな」
エステルは彼のたくましい肩に手をまわしながら言った。「父から聞いたことがある」
「エリエゼル王が? なんと?」
臥所(ふしど)を共にするときだけは、彼らの間から主従の関係は薄れたが、それでもモルデの態度からエステルへの畏敬が消えることは決してなかった。それがエステルには、少しばかり悲しいことだった。
「この宝珠は、失われた王国の神殿にあったもの。言い伝えによれば、神(ヤー)を象(かたど)ったものだと」
「y(ヤー)を? それで、このような形を? おかしいな」
「なぜ?」
「いや、だって……神は我らを自らに似せてお作りになったはず」
「ああ……そうね」
「だったら、私たちもこの形だということになる」
「似てない?」
「似てない」
二人はクスクス笑い、キスをし合った。そして、再び睦み合った。
エステルはやがて眠りについた。モルデのそばで、胎児のような姿勢になって。
それは宝珠の形に似ていた。
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