ヤオヨロズ 2  第1章の1 |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

 美しい山野を清流が駆け下ってきている。深い緑の中に、黄色や赤の鮮やかな色彩が、ぽつぽつと生まれ、そして山自体がみるみる大きな一輪の花のように色づいていく。
 秋という季節の変化を、クシナーダはうっとりと見ていた。自然は愛に満ちていて、そして大小さまざまな「意識」に満ちていた。花の意識、樹木の意識、石の意識、川の意識、水の意識、山の意識、そして空の意識……。
 その中をクシナーダは全裸で駆けていく。
 生まれたままの姿で、そのすべての意識を感じながら。
 この世界に充満している喜びの波長。それを目や鼻や耳や、皮膚を通じて、体中で感じられることが、また深い喜びを湧き上がらせるのだった。そして彼女の口からは、喜びの歌が自然とあふれ出る。
 すべては美しく、すべては調和している。
 が、不穏な気配が彼女の足を止めさせた。と同時に、川は真っ赤に染まった。
 川のほとりから、草木が枯れて行った。
 愕然としてクシナーダは悟った。
 これはいつも見る夢だと。もう何年も前から繰り返し繰り返し見続けている夢の中に、また彼女は迷い込んでいた。
 川を赤く染めるのは、鉄穴(かんな)流しによる汚れた土砂だった。その赤い色はますます色を濃くし、やがては血のような真っ赤な色合いに変化した。
 川底から何かが首をもたげてくる。
 クシナーダは悲鳴を上げた。巨大な蛇がどろどろの真っ赤な血にまみれて現れたのだった。口を開き、牙と舌を見せつけ、シャー、と空気を毒々しく震わせる。
 立ちすくむクシナーダの周囲に、一つ、また一つと大蛇(おろち)の首が出現する。川の中から、あるいは地面を割って、あるいは山野を越えて。
 八つの首は威嚇しながら、クシナーダのほうへ迫ってきた。逃げなければ! だが、足が動かない。なんとか踵を返すが、体重が何倍にもなってしまったように、思い通りに動かすことができない。大蛇たちはぐるぐる回り込んできて、彼女を包囲した。
 夢だ、これはいつもの夢だ、とクシナーダは自分に言い聞かせた。恐れることはない。夢はここでいつも覚める――。
 クシナーダは慄然とした。夢は覚めなかったのだ。
 大蛇らはいよいよ獲物にありつける喜悦に踊るように、みるみるクシナーダへの包囲を狭めてきた。蛇の割れた舌先が彼女の身体を、ゾッとする感触で舐める。
 ひときわ大きな頭部が眼前に迫ってきた。真っ赤な眼が冷酷さの中にも、残虐な歓喜を映し出し、輝いている。牙がむき出され、口が彼女をひと呑みにしようと、裂けるほどに大きく開かれた。
 夢の中でありながら、クシナーダは死を覚悟した。
 が、大蛇たちは彼女を呑み込めなかった。
 雷が幾筋も走り、視野は一瞬、真っ白になった。と、ものすごい突風のようなものが渦を巻き、あたりの景色を一変させた。大蛇はいなくなっていたが、暗い空に竜巻が立ち上がっている。
 竜巻は虹色になった。
 虹が竜巻になっているのだった。恐ろしくも荘厳な景色だった。

「!」
 クシナーダは勢いよく跳ね起き、目覚めた。心臓が胸の中で、暴れ狂っているのを感じた。
 ――なんだろう。
 彼女は自分の胸を押さえた。怖い夢を見れば、どきどきするのは当たり前だ。しかし、それだけではなかった。怖いだけではない、なにか体の芯から震える、期待のようなものがあった。
 臥所(ふしど)を抜け出し、クシナーダはそっと家の外へ出た。
 黎明のまだ薄い光が、そっと包み込むように村を満たしていた。何もかもが青白くかすんでいる。昨夜の激しい風雨の名残が、湿った土とびしょ濡れのまま枝を下げている樹木の姿に感じられた。風が吹くと、ざーっと水滴が無数に落ちてくる。
 茅葺の家屋の間を抜けていくと、彼女はそこに杖をついて佇む古老を見つけた。
「アシナヅチ様」と、声をかける。
 村長(むらおさ)のアシナヅチは、それでもしばし、反応を示さなかった。耳が遠いのではない。アシナヅチにはよくあることだった。心をどこかに飛ばしていると、戻って来るのに時間がかかる。
「……クシナーダか」
 ややあって、アシナヅチは言い、わずかに振り返った。クシナーダはアシナヅチのそばで、膝を折り、低い姿勢を取った。
「おはようございます」
「おはよう。こんなに朝早くから、いかがした?」
「夢を見ました……」
「またいつもの夢か」
「はい。あ、いえ……少し違っておりました。大蛇に食われるかと思いましたが、虹が大竜巻となって現れました」
「虹が?」
 アシナヅチは口のまわりと顎を覆っている長い白髭をしごいた。考え事をするときの彼の癖だった。
「あれを見よ」と、アシナヅチは東の空に向けて、杖を指し上げた。
 激しい雷雨だった昨夜と異なり、空はすっかり晴れていた。まだ太陽は稜線の下にあり、空がほの明るくなっているだけだ。その上空でひときわ輝くのは、明けの明星だった。しかし、見慣れぬ星がそのそばに、勝るとも劣らぬ輝きを放っていた。
 クシナーダは驚いた。明けの明星が金星であるということは知っていた。太陽の比較的近くを公転する金星は、夜明け、あるいは日没時に、そのそばに必ず位置しており、非常に大きな輝きを放つ。しかし、その金星以上に輝きを放つ星など、見たことがなかった。
「アシナヅチ様……あれは」
「天津甕星(あまつみかほし)……」
「みかほし?」
「あの星はわしの眼には、一昨年(おととし)から見えておった。次第に輝きを増してはおったが、ついに肉眼でもあのように輝きを放つようになった」
「なんの兆(きざ)しでしょうか」
「甕星は天に仇(あだ)なす凶星。おそらく、そなたが見た虹の竜巻と同じものであろう」
 クシナーダは魅入られたように、甕星の凛とした輝きを見つめていた。まるで魂が吸い込まれるような心地がした。自分がその星へ引っ張られているのか、それとも自分がその星を引き寄せているか、空間の感覚がまったく消えてなくなっていた。
 その光は一瞬にしてクシナーダの視野いっぱいに広がり、包み込んできた。
 刃物のような、厳しい光だった。しかし、なぜかクシナーダはその光に身をゆだねることができた。自分が拒絶することもなく、また光によって傷つけられることもなく。
 光の中でクシナーダは、広大な宇宙空間を視ていた。
 宇宙は圧倒的な光芒に満ちていた。宇宙空間は闇などではない。すべてのもの生み出す創造の力に満たされた、母なる海だった。輝きを放つ無数の恒星、あるいは星雲の数々は、その海に育まれた命の輝きそのものであり、すべてが喜びを放ち、そのヒビキが絡み合い、手を取り合い、巡り合い、回りながら、壮大な交響曲を奏でていた。
 初めて見る光景ではない。アシナヅチの導きを受け、クシナーダは幾度もこの体験をしていた。だから、自分たちが暮らす地上が平坦な大地などではなく、球体をした青く美しい星であることも知っていた。
 ――なんという麗しい星だ。
 想いが湧きあがる。
 と、同時に戸惑う。今のは自分の想い?
 ――お母さん。
 激しい恋にも似た思いが募ってくる。いや、十五のクシナーダはこの時代の娘としてはかなり奥手で、まだ恋慕の情さえ経験したことがなかったはずだった。それもそのはず、巫女として特別な教育を受けてきた彼女は、ある意味で一般的な男性への恋愛感情をはるかに凌駕するものを、すでに得ていた。それは大自然への深い敬意であり、同時に大自然との交感の中でしか得られない、特別な悦びだった。
 ――お母さん。
 その想いは、今、クシナーダが一体化している甕星の意識が発しているものだった。
 あまりにも〝個人的〟で、あまりにも原初的な、熾烈な恋慕の情の塊に触れ、クシナーダは全身がしびれる心地がした。生々しく、だからこそ、力にあふれた波動だった。
 光はクシナーダを包み込んだまま、青い地球へ到達した。その瞬間にクシナーダは二つのことを同時に味わった、
 それは光と一体化した自分が地球そのものになったこと。
 もう一つは地球そのものになった自分が、その光を受け入れたことだった。
 その衝撃は、これまでのどのような自然との交感よりも鮮烈で、自分のすべてを燃焼させるほどの狂おしい火が体の芯から突きあがってきた。
 そこでクシナーダは、現実に返った。垂れ下がるような長い眉毛の下からアシナヅチの眼が見つめているのに気づき、少なからず狼狽する。
「甕星のヒビキに共鳴したか」
 クシナーダはうなずいた。そのとき風が吹いた。
 ――ハハハ。
 その風に紛れて、女の笑い声が聴こえた。二人が驚いて見まわすと、桜の大樹の枝に腰かけた女の姿が頭上にあった。鮮やかな青と緋に彩られた衣をまとった、若い女だった。満面の笑みを浮かべ、口の端が釣り針でひっかけられたように、にっと曲線を描いている。
「そなたは……」と、アシナヅチが数歩、歩み寄る。
「ウズメ様……」
 クシナーダは畏敬の念に打たれながら、アシナヅチにしたような礼の姿勢を再び取った。
「時が来たのさ」
 耳というよりも、胸を貫いて刺してくるようなヒビキの声だった。いったいどこから発声しているのかと疑いたくなるような、ありえない明るさと強さを持っていた。
「甕星はやって来るよ!」
「甕星とは何者?」と、アシナヅチ。
「すぐわかる」
 そう言って、ウズメはまた笑った。顔だけではなく、声をあげて笑った。おかしくて仕方ないように。
「――ていうか、あんた、知ってるし」と、クシナーダを指差す。
「え? わたくしが?」
「そう、知ってる」
 そう言い放ち、ウズメは木の枝の上で、すくっと立ち上がった。まるで体重がないような動きだった。
「楽しい♪ 嬉しい♪」
 ざっと木の枝を揺らして鳴らして、つむじ風が通り抜けた。ざーっと振り落されてきた水滴に思わず目をつぶった二人が、再び瞼を開くまでのその一瞬に、ウズメの姿は消えていた。
「アシナヅチ様……」
 クシナーダは戸惑いながら、古老を振り返った。もちろん何がしかの答えを求めてのことだった。だが、アシナヅチは沈黙を守ったままだった。彼自身、はっきりとした言葉を持たないようだった。


 冷たい水と砂の感触が、意識が戻るとすぐに感じられた。視野を小蟹が横ばいしていく。
 スサノヲはかすかに呻き、起き上がった。ずぶ濡れた衣類が重かった。砂を払い落しながら、立ち上がる。
 波が勢いよく寄せてきて、彼の足もとの砂をさらった。
 見渡せる限りの砂浜だった。砂浜に沿って、ずっと雑木林が続いている。
 ――ここは、どこだ。
 そして、なぜ自分がこんな場所にいるのか、記憶をたどった。
 彼は昨日、カラ国を出港する船に乗った。ナの国の商船だった。ナの国とは、ワの国の一部である。彼はそのワの国へ渡るために船に乗ったのだ。
 が、出港してしばらくして、天候が急変した。カラ国の珍品を満載した船は、荒れ狂う風雨の中で翻弄され、流され、そして――。
 ひときわ高い波に頭から呑まれたのが、スサノオの最後の記憶だった。
 船は難破したらしい。
 スサノヲは砂浜を歩き出した。どこだかわからないが、運よく彼は陸地に流されたようだった。
 また遠回りをしてしまったかと、臍(ほぞ)をかむ。
 カラ国に到達するまでも、相当に彷徨っている。大陸の中央を横断する商人の道があると聞いたのは後の話で、最初からその道を進んでいれば、数カ月は早くに到着できたはずだった。
 好奇心もあった。このネの世界のありようを知ろうと思い、気の向くままに歩き、出会う人やモノ、そして多くの国々を見ておこうとしたのだ。
 その旅の過程で、彼は知った。この世界の混沌と、はかなさを。
 争いのない国などなかった。一国の中でさえ、人は己の欲を満たすことに腐心し、他人を傷つけ、陥れること、場合によっては殺すことさえ平気だった。ましてや国と国は、より肥沃な土地や利便性の高い土地を巡って、常に戦争を行っていた。
 その一方で、もの静かに暮らす人々もいた。山野に溶け込むようにして、その日の生活を日の出と日没に合わせて生きる人々も。
 旅のスサノヲに親切に宿を提供してくれた者も、数えきれぬほどいた。
 しかし、善良な人々ほど、権力を持った抑圧者たちの被害者でもあった。その被害から逃れるためには、隠遁者となるしかなかった。
 ただ、どのような立場の人間にも確実に平等な出来事もあった。
 それは「死」が訪れるということだった。決して長くはない、はかない人生の繰り返し。
 本当に短い、ほんのわずかな時の栄華や幸福のため、人はこのネの世界を生きているのだった。
 スサノヲの眼から見れば、それは本当にはかなくもろい世界だった。
 ネの国。それは物質的な、有限の世界だった。そして、その中で呼吸をしている自分もまた……。
 少し歩くと先に岩場があった。そこへ上がると、どうやら山間(やまあい)に川があり、それに沿って道が続いているらしいのが確認できた。といっても、もちろんけもの道だ。
 とりあえず何がしかの集落でも、人のいる場所へ向かう必要があると、彼は判断した。
 そのとき彼は、視野の端に白いものを見た。
 岩と岩の間に挟まれるようにして、子供が横たわっていた。スサノヲは一段岩を飛び下り、子供のそばにしゃがみこんだ。年のころは六、七歳だろう。その顔と身なりに見覚えがあった。ナの国の商船で一緒だった子供だ。
 たしか親と一緒に乗り込んでいたはずだが……。
 周囲を見まわすが、他に打ち上げられた者はいないようだった。
 スサノヲは子供が息をしているのを確認した。

 はかない命。

 放っておいても、数十年で消滅する命。スサノヲは一度、それを捨て置こうと考え、その場を離れかけた。
 が、足を止めた。
 スサノヲは引き返してきて、その子供の胴に手をかけた。ひょいと軽々と抱き上げる。けもの道を歩き出した。
 そして、思った。
 ――腹が減った、と。





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