昨日は、家内の実家のおばあ様の葬儀でした。
家族葬で、本当のもう身内だけ。
享年、数えで白寿(九十九)を迎えておられ、お義母さん(奥さんの母)が主体となって最期まで家でお世話をされ、孫やひ孫たちに囲まれて、他界されました。
ひ孫というのは、私からいうお義兄さん夫婦のお子さんなのですが、二人とも性格の良い子たちで(と言ってもすでに双方ともに成人)、「おっきばあちゃん」には懐いていて、二月の誕生日にはお祝いをしてくれたそうです。
年齢的には、もう何の不足もない、と口をそろえて言われますが、ご本人はもう少し生きたかったのかもしれません。
とはいえ、天寿というものには逆らえません。
亡くなるほんの一週間ほど前に、たまたま奥さんと二人でお見舞いに行くことができ、そのときにわずかに目をあけられていました。
生きている間にお目にかかることができた。
お義母さんが後で説明されたら、そのとき急に頭の回路がつながったみたいになり、奥さんや私のことは思い出されたようです。
そんな経緯があったので、私個人としては、お目にかかれていてよかった、とは思います。
一昨年、私は父を送っているのですが、その時は少々悔いがありました。
入院させていた父は、仕事の合間に寄ってもだいたい寝ていて、ろくに話をするまもなく衰えて、ふいっとこの世を去ってしまったので…(病院から連絡があって駆けつけたけれど、死に目にも間に合いませんでした)。
「死に前に、もいっぺんくらい話をしとけばよかった」と。
2002年に、私の祖母もこの世を去りました。
生きていれば今年100才になろうかという祖母だったので、これも年齢的にはよく生きていますがそのときのことも思い出しました。
奥さんの実家のひ孫たちが悲しむ様子を見て、「好かれていたんだなあ」と思う一方、私も同じ寅年生まれの自分の祖母が好きだったなと思いだしたのです。
私たちの子らも亡くなったおばあ様のひ孫には違いありませんが、やはり一緒に暮らしてきた実家のひ孫たちとは、悲しみの度合いがまったく違います。
あるいは、
自分が今すぐ死ぬとしたらどうだろう、とか、考えました。
いろいろと取り留めもなく思い出し、とりとめもなく考えました。
古い人たちが去っていく。
戦争や激動の時代を知る人たちが。
お休みしていたので、月末になってしまいました。
予告している記事は、12星座の記事を終えてからに致します。