「風立ちぬ」を観て |  ZEPHYR

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― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

昨日はあまりに長いボイドが横たわっていたので、普通やっている仕事は休止しました。
このところ、矢継ぎ早に鑑定依頼があり、かなり詰まったスケジュールを過ごしたので、少し頭をリセットしたいというのもあったのですが、

たまたま、奥さんが休みだったので、

「『風立ちぬ』を観に行く?」

というお誘いを。
といっても、息子や私の母も一緒についてくる流れになり、夫婦水入らず時間というわけではなかったのですが。

息子は別に「銀魂」を。
私と奥さん、母の三人が「風立ちぬ」を。

とりあえず先に結論として感想を書いておきたいのですが。

観終わった後、自分が浄められた気がした

それが最大の感想です。
なぜなのかといえば、それは主人公とその妻となった女性との愛情のやり取り、主人公の飛行機への夢、ある意味でとても純粋なそれらに触れさせてもらったからだろうと思います。

時代は関東大震災や太平洋戦争などを背景としており、非常に日本とこの国に生きる人々にとって厳しいとき。
その時代に生きた主人公の半生を描く。

その描き方にも数々、作劇上の感銘を受けたのですが、まずそれらのある意味で血なまぐさい時代の中でも、人間としての真実は愛や夢として、ちゃんと生き続けてきたのだと。
それを見させてもらったと感じたのです。

それをアニメーションだからとか、作り話だからとか、一刀両断に切り捨ててしまうのは、過去、その時代に生きてきた人たちへの、下手をすると冒涜につながるかもしれません。

今回のジブリ「風立ちぬ」の構成要素となった、堀辰夫の小説「風立ちぬ」もその当時を生きた作家のものであり、またゼロ戦の製作者、堀越二郎もリアルに実在していた人物そのものです。
作家はその時代の中に生きて、その中で息をし、創作を行っています。
イマジネーションが作り上げるものとはいえ、大局的な視野で見たときには、作家とその創作物はその時代を映し出すものです。

そしてどんな時代にも、やはり人として大事なものは変わらない。

その核心部分が、主人公の半生の中に描かれていて、そこに共感したからこそ、自分が浄められたような気がしたのでしょう。
(あの~、ここで「いいところ、きれいなところだけを描いている」とか言わないようにしてください。二時間程度の限られた映画の中で、何をテーマに、それを次回内で見せるということが前提にあり、それを描くことに傾注するのは当たり前の話なので)


宮崎駿監督ほどの大家になると、一作製作するたびに肯定も否定もわんさか出てくるとは思います。

一本の小説を読んでも、感じるところは人によって千差万別なので、どっちも出てくるのが当然。

完全肯定と完全否定
この間には無限の段階があるし

感動した(共感した)と何も感じなかった
この間にも無限の段階がある

創作物の持つ宿命です。

ただ、ここで一つ、理解しておいてもらったらよいか、と思うことがあります。

なぜ、肯定と否定が起きるのか、ということです。

じつはこれには「期待」が大きく関係しています。
たとえば初期のジブリ作品が好きだった人。
その初期と同じようなテイストやムード、話のテーマなどを求める「期待」があって、今回の「風立ちぬ」を観れば、「裏切られた」と思うのが当然です。
製作者の意図は、そこから違うものを目指しているからです。

逆に同じようなことを繰り返されると、それをマンネリズムだと感じる人もいます。
たとえば「生きろ」というテーマの観点から見たら、「もののけ姫」と「風立ちぬ」はかぶっているところがあります。
それを単純に繰り返しだと非難することは簡単。

でも、よくよく考えてください。
命、愛。
そんなものはいつの時代も変わらぬ、人類が古代から持ち続けてきたテーマです。

すぐれた文学作品は、そんな根源的なメッセージを内在させていることが多い。
それを繰り返し語ることを否定されたら、物語のつくり手は、もはや一作も作ることはできなくなります。

目新しいことを作ることだけが「良い」わけではないのです。

むしろ普遍的なテーマについては、私たちは幾度も幾度も、あきることなく、いろいろな物語で、色々な切り口で語っていくべきです。
それが、人間の文化や芸術というものでしょう。


肯定する、共感するというのは、人間としてはマイナス的に働く部分は少ないでしょう。

このような創作物に関しては、とくに。

問題は否定するという人間心理なのですが、じつはよくよく自分を観察してみると、わかってくることがあります。

それは自分の、こうであってほしい、こんなものが見たかったんだという、ある意味で勝手な思い込みから出ていることが多く、それにはかならず「期待」ということがセットでついてきています。

おかしな「期待」を抱かず、虚心で創作物に触れたり、人と相対したり。

そうすると、見過ごしていた価値や魅力に気づくことがあるかもしれません。

これって、きっと私たちの日常の人間関係でもあることだと思うzephyrです。


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