本当の意味で信じるとは、どういうことか |  ZEPHYR

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― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

昨日の記事、疑わない人というのが、性格的にも得だというものでした。

あくまでも「得な性格」という観点で見たときに、疑わない人の方が、疑心暗鬼になって萎縮してしまう人よりも得ですよ、という、ある意味、相対的な意味合いで書いたものです。

たとえば疑うことなどまったく知らぬ無垢な赤ん坊の笑顔。

これが一つの究極的なものなのですが、こういった笑顔を見せられると、普通の感覚を持っている人だったら、無条件降伏ですよね?

ところが、成長し、世の中のアカに染まってくると、そうも行かなくなってきます。

実際には疑わなかったばかりに騙されたりする人も多いのがこの世の中です。

過去、鑑定した女性の中にも、「いつも自分は男性に騙される」という人がいました。

付き合ってみればすでに結婚していたり(後で告白される)、二股をかけられていたり。

その女性にしてみれば、相手を信じているわけで、そのたんびに裏切られる。

こういったきわめて現実的な観点に立てば、疑わないというのは、かならずしも美徳ではない、と私は思っています。

ただ、昨日の記事のように異常に疑う心を暴走させ、世の中を悲観し、孤独に陥ってしまうというのは、絶対に避けたいところです。

これは人生をまる損します。

ゆたかな人間関係があってこその人生です。

人間関係があればこそ、笑い合い、慰め合い、助け合うことが出来ます。

これを否定してしまうような「疑い」になってしまうと、これは著しくバランスを欠いたものだと言えるでしょう。


しかし、常識的な範疇で、理性的に物事を判断し、相手を疑うことは必要です。

たとえば、ある人の住所を尋ねられ、親切に教えてあげる。
疑わず。

でも、それがもし先日のネット・ストーカーのような人物で、その家の人間を殺すことだって、今は想定してみなければならない時代になってしまっています。


漫画の「ライアー・ゲーム」の中には、
「人は疑うべきだ」
「疑うことは相手を知ろうとすること」
「疑わないのは、無責任な無関心だ」
というような主旨のセリフがあります。

私は基本的に、この考えには賛成です。

なんでもかんでも無条件に信じることは、危険だし、なかなか出来ません。

それよりも当たり前の感覚で、考え、相手を見ることは絶対に必要だと思います。

相手の顔、所作、雰囲気。

自分の感覚のすべてを動員して、その人から感じ取れることを感じ取る。

それが必要なときがあります。

私たちは日常のつきあいの中でも、相手とのやりとりの中で、そう真剣なものでなくても、無意識にこういったことを感じ取っています。

中には全面的に信じられる存在もいるでしょう。

90%信じられるというのも。

だいたい信じられるけど、状況次第で変わるかも。

かなりグレー。

いや、こいつはまったく信じられない。

段階は様々でしょう。


そんな様々な人間の中で、やはり私たちは信じないといけない場面に、いくつも遭遇します。

信じられない相手だけど、仕事を一緒にしないといけないとか。

疑わしい相手だけど、付き合ってみなければ本当の素顔が見えないとか。


そんなとき、では、どうすればいいのでしょうか?

私は「本当の意味で人を信じる」というのは、破綻や裏切りさえも見据え、覚悟した上で行うものだと思っています。

それは我が身に起きることは、たとえ相手からもたらされるものであっても、自分の責任に置いて認めるということです。

だから、相手から裏切られてもかまわないのです。
自分の責任に置いて、相手を信じる。

そうやって臨まなければならない人生の局面も、かならずあります。

信じることと疑うこと。

もしかすると、これは表裏一体なのかも知れません。