「なにすればいいんですか?」
「そのお金は、私に払わないでください」
「え?」
懐具合が悪いのを見透かされたかと、孝司は狼狽した。
「その代金は寄付してください」
「寄付?」
「どこでもいい、ユニセフでも、『国境なき医師団』でもいい、また災害の義捐金でもけっこうです。約束してくれますか?」
「え、ええ、まあ。でも、あなたが困るんじゃ……」
「私は別に困りません。見ての通り、人生の表舞台を引退した老人です」
老人はにっこり笑った。
「約束してくれますね」
「はい、わかりました」
「ただ、コンビニのようなところに置いてある義捐金の箱に入れるのはやめてください。ちゃんと郵便局や銀行などの窓口で、あなたのお名前で入金してください」
「は、はあ。しかし、なんのために」
「言われたとおりにしてください」
強く諭すように言われ、孝司は疑問を引っ込めた。
「では、そのようにします……。あの、今日はどうもありがとうございました」
孝司を腰を上げた。
老人はうなずき、孝司が出て行くのをじっと見つめていた。
ユニットハウスを出てから、孝司ははたと正気に返った。
もう銀行も郵便局も閉まっている。振り込もうとすれば、明日になる。
つまり今夜、死ぬことはできなくなったということだ。
孝司はユニットハウスを振り返った。
まさか、それが狙いで?
……いや、いくらなんでも考えすぎだろうと思った。
あの老占い師は、確かに不気味なほど孝司の人生を言い当てていた。
今の苦境も、非常に的確に見通していた。
しかし、すべてが当たっていたわけではない。
孝司は今の仕事では切られるかどうかという立場だし、良い運勢だといわれた結婚や子供では、妻子は共に実家に戻り、向こうの両親からは離婚という言葉も出ている。
何もかもむちゃくちゃになってしまった。
自分はすべてを失ったのだ。
その人生を終わりにすることで、父母や妻子が救われるのなら、命を対価に贖うのもいい。
そう思っていた。
が、孝司は律儀な性格だった。
約束は約束。
守らねばならない。
それに口実ができたことで、やはり生きていられる時間を1日だけ延ばすほうに気持ちが傾いた。
だとしても、そう――
明日死ねばいいだけのことだ。
明日は会社は休み。
時間は十分にある。
帰宅した孝司は、父母とは口も利かず、眠りについた。
このごろ、眠れない日が続いていたのに、不思議によく眠れた。
冷え込みの厳しい朝、目覚めた孝司はすぐに行動を起こした。
自宅のガレージからロープを見つけると、車のラゲッジに積み込んだ。
それからトーストとコーヒーで簡単な朝食を済ませた。
まだ郵便局や銀行が開くまで時間があったので、新聞を読み、テレビを見て過ごした。
身体のしびれが残っている父が、何かを満足にできず怒鳴っている。母がそれにきつい言葉を投げ返す。
山之上家の日常だ。
時間だ。
孝司は腰を上げ、車で出た。
自宅からもっとも近い銀行に向かい、その銀行で開設されている災害義捐金の講座に、昨夜、占い師に払うはずだった金額を振り込んだ。
「ありがとうございます」
窓口の若い女性は、単なる業務用ではない笑顔と声音で、孝司に礼を言った。
悪い気はしなかった。
最期にちょっとだけ善行を積んだ気分だった。
しかし、ポケットの中にはもう小銭しかない。
ありがね全部、寄付したようなものだが、なぜか心が軽くなっていた。
銀行を出て行こうとした、そのとき。
ガラスの扉の向こうに、広子が立っていることに気づいた。
呆然となる孝司の目の前で、扉は自動的に開いた。そして、広子も一歩、踏み出したところで固まった。
「あ、あなた……」
広子の目にみるみる涙が溜まった。
口元に拳を持って行き、そして涙がこぼれ落ちた瞬間。
「ごめんなさい、あなたッ……!」
広子は身体を折るようにして泣き始めた。
広子の後ろには、きょとんとして史也が控えていた。
この物語はフィクションです。