海王星で無になれば part.6 |  ZEPHYR

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― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

 父、清司は脳梗塞を起こしていた。
 緊急の手術の入ったところであった。

 待つことしか、今はできなかった。

 一度、広子には連絡を入れた。史也がいるので、自宅で待機していてくれと頼んだ。

 じりじりと、祈るように時間だけが経過した。

 オペのランプが消え、執刀医が扉の外へ出てきた。

「手術は成功です。一命は取り留めました。あとは、患者が意識を取り戻してくれれば」

 それを聞いて、ほっとする一方、すぐに孝司の胸にはある不安がふくらんできた。

 当分は入院だろう。手術の費用はもちろん、部屋代や食事代がすぐにあらたな負担としてのしかかってくるのを感じた。

 今生活はぎりぎりだ。

 こんな状態で、どうやって入院費を払えばいいのか……。

 ストレッチャーで運ばれていく父の後を追いながら、そんなことをリアルに考えた。

 個室に運ばれ、入院に関する説明を受けた孝司は、とりあえず自宅に連絡を入れた。

 入院に必要なものを揃えておいてもらおうと思ったのだ。一度、自分が自宅に戻って衣類やタオル、洗面道具など持ってきた方がいいだろうと思ったのだ。

「うん、わかった。揃えておく。とりあえず、よかったわね」

 広子がそう言ったが、少し歯切れが悪かった。

「これからの方が大変かもしれない」

「そうね……。あ、そうだ。さっきね、叔父さんが電話をくれたの。何かお母さんに用事があったらしいんだけど、これこれこうでということを説明したら、自分も病院に行くって言ってた。もう着く頃からかもしれない」

「叔父さんが? わかった」

 父には弟が一人いる。正男という気むずかしい人物で、近隣に住んではいるのだが、お盆と正月くらいにしか会うことはない。

 病院の公衆電話ボックスから出ると、ナースステーションの前でその正男にばったりと出くわした。

「ああ、叔父さん」

「おお、孝司か。どうなんだ?」

「いやまあ、脳梗塞だったらしいんですが、なんとか……意識さえ戻ればって先生は」

「そうか……。ま、よかったな」

「ありがとうございます」

「ちょっとお母さんに話があって、電話をかけたんだが、まあ、救急車で運ばれたっていうから、万が一のこともあると思って、慌てて来たんだが……」

 叔父はふいに黙り込んだ。そして、ややあって孝司の目を見て、シャツの袖を引っ張った。

 人気のないところで周囲を気にしながら、正男は言った。

「じつはな、こりゃもう、単刀直入に言わせてもらうわ」

「なんでしょう」

「お父さんお母さんに、金貸してるんだよ」

 すっと頭からつま先まで、身体から血の気が引くのを感じた。

「あんたには言わないでくれって、ずっと言われてたんだがな、まあ、こういうことになって、こんなところであんたに言うのも申し訳ないとは思うけどな、でも、もうずっと前からの話で、なかなか返済もな。こういう事態だからこそ、なおさら、あんたに言っておかないと」

「い、いったい、いくら……」

「まあ、なんだかんだで、総額500万くらいだな。借用書も家にある」


 その後の記憶が曖昧だった。

 叔父と何をどう話したのか、うまく思い出せないほど衝撃を受けていた。

 うつろな気持ちで一度帰宅した孝司は、たぶん蒼白だったのだろう。

 一目見て、広子が「ど、どうしたの」と言った。

 孝司は話した。

 広子は凝固したように黙って聞いていたが、最後にははじけた。

「どいうことよ! いったい!」

 立ち上がり、仁王立ちになってまくし立て始めた。

 これまでのこと、いらぬ借金まで背負い込んで、懸命に返済を続け、家族の娯楽どころか、下着一枚買うにも躊躇する毎日。
 様々な日常の憤懣。
 父の傲慢。
 母の怠慢。

「も、もうわかったよ」たまりかねて孝司は言った。「とにかく病院に持って行ってくるから、帰ってからゆっくり話そう」

 孝司はどこかふわふわと定まらぬ足取りで家を出て、車を走らせた。

 市民病院は完全看護だというので、食事もしていない母親も一度連れて帰ることにした。

 帰宅したときは、もう深夜だった。

 明かりはついていなかった。

 中に入ると、人気はなかった。

 孝司は二階の寝室に向かった。

 いつもそこで寝ているはずの、広子と史也がいなかった。

 それどころか、部屋が荒らされたようになっていた。

 驚き、二人の名を呼びながら、家の中を探し回っていると、母の声がした。

「これがテーブルの上に……」

 便せんが一枚。
 広子の見慣れたきれいな字で、「史也を連れて実家に帰ります。もう疲れました」と書いてあった。

 家の中が荒れているのは、広子と史也のものが持ち出されたせいだった。

 孝司はリビングの床の上に、座ったというよりも、腰が落ちた。

 散乱しているものの中に、アルバムがあった。
 古い表紙のそれは、孝司のものだった。
 写真が好きな広子は家族の写真をいっぱい撮って、整理していた。

 棚からは最近のものがなくなっていた。

 孝司は無意識に自分のアルバムを開き、最初のページにある自分の赤ん坊の時の写真を見た。

 史也の小さいときに、そっくりの自分の顔。

 写真の下に生年月日と、「午前8時30分出生」というメモがあった。

 34年。

 生きてきた結末。

「ふふ……」
 
 笑ったのではない。笑うような声で、孝司は泣き始めた。