何度目かのため息を広子はついた。
孝司が戻るまで、母とは直接の話はしなかったようだ。おかげで非常に気まずい夕飯だったようだが。
深夜に帰宅した孝司があらましを説明し終えると、がっくりと広子は肩を落とした。
「人に貸してあげるって……なんなの、それ」
普通の感覚では理解されないのも無理はなかった。
孝司の父、清司は職人気質の大工だった。
若い頃は腕のいい大工として近隣でも信用されていて、人も大勢使っていた。親分肌というのか、集まってきた人間の面倒見はよく、仕事をしている間は飲食代などもばかにならないほどだった。
遊びもやっていた。競馬、パチンコ。
頼られると嫌とは言えない性格で、少し融通してほしいと言われれば気前よく貸していた。
そういう積み重ねが、実際には相当な負債になっていたようだ。
そんな事情を説明されても尚、広子には理解できる感覚ではなかったろう。
彼女の両親はどちらも中学校の教員で、非常に固い。
清司のような人生は、どちらかと言えばヤクザ的なものに思えるだろう。
「それくらいだったら、お父さんだってまだ動けるだろうし、どこかで使ってもらうとか」
「そりゃ、むりだ。広子だってわかってるだろ」
清司は糖尿病がここ数年悪化し、とくに視力を衰えさせている。
高いところへ上がるような仕事ができる状態ではなかった。そもそも大工を辞めるきっかけになったのが、屋根から転落して骨盤骨折したことだったのだ。
それ以来、父は目に見えて衰えた。
「お母さん、年金があるから、生活費が折半で十分やっていけるからって、言ってたのに」
「その生活費を出している分が、まるまる赤字だったらしい。俺たちに言えずに、ずっと抱え込んでいて、消費者金融から借りたりしたらしい」
「もうっ……これから史也だって、どんどんお金だってかかるだろうし、小学校に上がったら塾にだって行かそうと思ってたのに」
何度も何度も、右手を頭に髪につっこんで、後ろの方へかき上げる仕草を繰り返していた。広子は保険の外交の仕事をしている。
今のご時世だから、決して甘くはない。
かなり長い沈黙の後、漏らした。
「実家に頼んでみようか」
「それは、ちょっと……」
それには孝司の方が躊躇した。
「この家を改築するときにも無理言ったし」
「そうね……」
「とにかく明日休みだから、母さんが言っている信用金庫の担当と話してみる」
「用意がいいのね。借りられる先を探しているなんて」
皮肉も言いたくなるだろう。
気の重い話だった。
しかし、孝司は翌日、某信用金庫の担当者と会い、新規の借り入れの話を進めた。
思えば、これが大きな間違いだったのだ。
実績を作りたいその担当者との間で、話はすみやかに成立したが、すでに改築のローンを払っている孝司は審査に引っかかってしまったのだ。
「働いている奥様になら」という条件で、借り入れが決まった。
広子も渋々承諾した。
新たな借り入れが成立した翌日、孝司はいつも通り出勤していた。
漠然と仕事を変えることも考えていた孝司だったが、そんな考えは吹き飛んでしまった。
とにかく今の生活を守ること。
それが最優先だった。
「山之上さん、今日、お弁当どうします?」
バイトの高橋が聞いてきた。
はっとした。
「ああ、今日はいいや。あ、あの、弁当、自分で持ってきてるから」
「へえ~、愛妻弁当ですか?」
高橋がにやにやする。
いつもA勤の時は、スタンドでは配達してくれる弁当を取っている。
しかし、母親の窮状を救うために、孝司は財布の中身をほとんど家に残してきた。
わずかでも払わさないと、消費者金融が家にでも押しかけてきそうな勢いだったからだ。
財布の中には小銭しかない。
入ってきた車を給油。
洗車。
慌ただしく業務が過ぎ、交替で昼ご飯を食べるとき、孝司は後から休憩室に入った。
忙しかったので、空腹だ。
しかし、食べるものはない。
従業員用に用意されているお茶を入れ、ひらすらそれを飲んでごまかした。
テーブルの上には高橋が食べた配達弁当の空が残されていた。
蓋を取ってみる。付け合わせの野菜がまるまる残っていた。
舌打ちしながら、蓋を戻す。
湯飲みを握りしめる手に、力がこもった。
情けない。
母親に借金をさせ、足りない分を妻に背負わせ、今は昼飯も食えない。
まじめにやってきたつもりだった。
それなのに……。
こんなのが、俺の人生なのか?
不意に目頭が熱くなったが、泣くようなことはなかった。
お茶で空腹感をごまかそうとしている自分が、ひたすらに惨めだった。
この物語はフィクションです。