夕方、孝司は勤務先であるガソリン・スタンドに出勤した。
「おはようございます」
声をかけてきたのは、アルバイトの高橋だった。
体育会系の明るい男だが、威勢とノリはいいけれど、やることは雑だった。
「おはようございます」と声を返し、孝司は帽子を正した。
ちょうど1BOXが一台、入ってきた。
いらっしゃいませー、と大きな声をかけて出て行く。これが孝司の日常だった。
車の給油、窓ふき、タイヤやオイルのチェック、要望があればその交換。
会計。
決して数多くはないが、突然のトラブルに対しての対応。
孝司は作業に没頭しようとしたが、うまく行かなかった。
振り払っても振り払っても、昼間の家でのやりとりが思い出されてくる。
「どういうことか説明してくれ」
孝司は厳しい調子で母親に問いただした。
最初、奈津子はしらばっくれようとしていた。が、このところ自宅にかかってくる電話は、たしかに普通ではなかった。
「前々からおかしいとは思っていたんだ。借金があるんじゃないのか」
詰問すると、ようやく母は口を割った。
「じつは……ちょっと入り用があってね」
「入り用って、いったい、なんの入り用があるんだよ」
それだけでカッとなりそうだった。
孝司たちが一緒に暮らしているのだ。
同居に当たっての改築費用は、すべて浩司たち夫婦が負担したのだし、食費など生活費は折半している。
ほかに目立った出費もない。
不自由などさせていないはずだ。
いったい、どんな入り用があるというのか。
「じつは……お父さんがね」
「親父がなんだって?」
「あの人、昔から人が良くて、頼まれると断れなくて、あちこちにお金を貸していたのよ。立て替え立て替えで……」
「じゃ、返してもらえばいいじゃないか」
「それが、もうその相手も居場所がわからなかったり、もう十何年も前のようなお話だったりすると、知らないって、しらばっくれる人もいて……」
「ちょっと待って。いったい、どれくらい人に貸しているの」
「たぶん……五百万くらい」
顎が外れそうだった。
「ま、まさか、それがまるまんま、親父が借金しているわけ?」
「い、いや、そうじゃないんだよ。だけど、いくつか借りていて、あの、それがばらばらに借りてるもんだから、うまく払いが回せなくて……」
それで最近では、消費者金融から奈津子自身がいくらか借りて回していた、というのだ。
「いくつも借金を、どこかでまとめて一本にできたらいいんだけどね」と、母は言った。
「あの、ほんとに悪いんだけどね、浩司、あんたがお金を借りてもらえないだろうか」
その返事をする前に、浩司はダイニングで新聞を読んでいた父親にくってかかった。
どういうことなのか、と。
「わしが働いて稼いだ金、何に使おうがわしの勝手じゃないんか」
白々と言い切る父親。
「わしだってな、いろいろと付き合いがあるんよ」
「借金してまで、付き合わないといけないような付き合いか!」
「えらっそうに……育ててもらったくせに」
「親父は昔からそうだ! なんでもかんでも、一人で勝手なことをして。夜遊びして、金をぱあっと使って、いい顔ばかりしようとしてた! その挙げ句に、これか!」
「うるせえ!」
新聞を投げつけてくる。
そばで突っ立って聞いていた史也が、火がついたように鳴き始めた。
しまった、と浩司は思った。子供の前でするような話ではなかった。
それで今朝の話は終わった。
妻の広子には携帯電話で、あらましを知らせた。
広子は絶句していた。
仕事が終わって帰ったら、話し合わねばならない。
しかし、広子にどういって話したら……。
暗澹たる気持ちだった。
「じゃ、おれはこれで上がるから。あと、よろしくな」
店長となった浜田が声をかけてくる。
「あ、ああ」
その背に、ふっと相談しようかという衝動を感じた。
が、もちろんできなかった。
同期の浜田は、以前で何でもしゃべれる相手だった。
気心も知れていて、一緒に飲みにも行った。
しかし今、浜田に出し抜かれてしまった浩司には、相手にこんな自分の弱みを見せることはできなかった。
むしろこんなことが会社側に知れたら……。
深夜、定時の退社時刻を迎えるまでが、異様に長かった。
深まる秋に、夜の風がひどく冷たかった。