一昨日の記事に関して、コメントレスもかねて、もう一度記事にしたいと思います。
鉢呂経産相の辞任に関して書いた記事ですが、政治や経済の話というのは非常に多くの要因が複雑に絡まり合っていて、単純なものではないということは、ノンポリの私でもわかります。
私がこういった出来事、とくにまた最近多い「失言問題」にがっくりきてしまったのは、
チャート上、そういったことが起きる可能性が高かった。
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そして現実に、そんな失言問題が次々に出てきた。
という、あまりにもあからさまな流れに対して、がっくりきてしまったのですね。
それが今の日本の政治家への失望感につながってしまった。
ただ、私はこれは全体的な話をしているのであって、鉢呂さん個人の政治家としての働きや心根まで全否定しようなどとは考えておりません。
私は個人への非難は記事にはしないというスタンスで、このブログを書いています。
失言をしたからといって、その人がダメなわけでもないし、政治家としてのすべてが否定されるべきでもない。
私の考えは、TOSHIさんやHolidayさんに非常に近いもので、要するに言葉の選び方の問題と、その言葉を聞いた人がどのような反応をするかということが想像できるかどうか、思いやりやイマジネーションの問題だと思っています。
言葉を扱うことが商売の人間にとって、こういったことが想像できないというのは、前の記事通り「信じられない」「あり得ない」ことなのです。
もちろん私もこのブログ上で、時折配慮に欠けたことを書いてしまうことはあるかもしれません。
しかし、それはあくまでもこの個人ブログ上でのことであって、公人としての立場ではありません。
公人となってしまったら、その立場での発言は、これまで以上に配慮したものにならなければいけない。
さゆりさんが仰るような、記者クラブの問題点というのは、以前にも別な方からお伺いしたことがあり、そういった側面もあるのだろうなと思います。
私はマスコミというものを、根本的にはあまり信用していません。
今年の震災以降の記事のいくつかでも触れましたが、マスコミは基本的に商業原理で動いていて、とかく煽ることに走りがちです。
注目度の高いニュース。
これを売ることを商売にしているからです。
今売られているのは、「地震」「復興」「原発」「放射能」といったものがメインですが、芸能人や政治家でも、叩けるネタがあるときには、みんなで一斉に叩き始める。
それが売れるから。
鉢呂さんに関しても、そのようなマスコミの犠牲になった側面はあると思っています。
さくにゃんさんが「地元として恥ずかしい」と仰いましたが、私はそこまで感じなくてもいいんじゃない? その人にはその人なりの良いところもあるんだから、と思ったりもします。
こういった問題は、たとえば小沢一郎さんへのバッシング的な報道にもあったと思っています。
小沢さんは、私はあまり好きな政治家ではないし、どっちかというともう旧世代の政治を体現している人で、これからは全体として変わっていくだろうと思っています。
が、それと小沢さんご自身が政治家として持っている能力は、また別の問題です。
あの人でないとできないようなこともあると考えています。
話を戻し。
私個人の意見を述べると、国政を受け持つ政府、その閣僚などになった人たちは、やっぱりもっと勉強してくれないかな、というのが願いです。
なぜなら、こういった失言問題は自民党政治の時代から、もういやになるほど、
何度も何度も何度も何度も
起きていることです。
もし記者クラブが、そのような性質を持つのなら、閣僚はいっそのことこういった記者クラブを仮想敵として考え、もっと身を処していかないと。
過去に何十回も起きている同じような事例から何も学べないのでは、学習能力がないといわれても仕方がないと思うのです。
私ががっくり来てしまったのは、「なんでこういうことを何度も繰り返せるのか。何で学ばないのか」という部分なのですね。
こういったことができないと、仮にその人が優秀な政治家だったり、本当に国民のためになる政策を実行しようとしていたとしても、すべてが水泡に帰してしまう。
一昨日の記事では、がっかり感が強かったので、ちょっと悲観的になったのは反省しております。
やっぱり私は、今後日本の政治がもっと良いものへ変わっていく、そのプロセスにあるのだと信じておきたいです。
首相が幾度もころころ変わる末期症状なのはあきらかですが、一番悪いというのは、要するにこれからはましになっていくということに違いないと思うからです。