運命の逆転方法・3 |  ZEPHYR

 ZEPHYR

ゼファー 
― the field for the study of astrology and original novels ―
 作家として
 占星術研究家として
 家族を持つ一人の男として
 心の泉から溢れ出るものを書き綴っています。

<愛と執着の違いはどこにある?>という記事を、過去に書いたことがあります。

このとき愛と執着の違いについて、もう少し具体的に書きたかったのですが、そのときのコンディションというのか、たんに私の頭があほになっていたのか、もう少しつっこんだところまでは書き切れませんでした。

今回のシリーズ記事となってしまった「運命の逆転方法」にも関連しているので、より具体的に触れてみたいと思います。

愛と執着は違っているというのは、皆さんお分かりいただけると思います。
これが同じものだという人はいないはず。

でも、実際に恋愛や夫婦間の現場で当事者になったりすると、この境目はきわめて曖昧になります。


たとえば私が愛している女性が自分から別な男に心を移したとしましょう。

私の中には、まだその女性への愛情が燃えさかっている状態です。

その女性と愛し合った日々も、記憶に焼き付いている。

そんなときにその女性が、別な男性に好意を寄せ始め、自分から離れていく。
悪夢ですね。

私の中には愛がある。
それはたしかです。

しかし、その女性を自分の元に引き留めたいと思うこと、それは愛でしょうか?


実際、このような局面では、ほとんどの人が
「愛しているからこそ彼女が離れるのが嫌」
「愛しているから元通りになりたい」
というふうに、彼女を引きとどめる心理や言動が、「愛ゆえ」のものと考えがちです。

しかし、本来人間は自由な生き物です。
彼女が自分以外の誰かを好きになるというのも、きわめてプリミティブな感覚では、「素直な」行動であり心情であったりします。

人が人を好きになる。
実はこれはとても当たり前のことです。
ですよね?

しかし、互いにちゃんとそれと認識するような恋人関係や夫婦関係になってしまうと、もはやその人間関係は「固定されたもの」「保証されたもの」「約束されたもの」と感じられます。

そういう関係を構築していなければ、誰がいつ、どこの誰を好きになろうが、非難されません。
自由です。

でも、本来は恋をしたりするのは、そのような契約や心理的な保証の上に成り立つものではありません。

ただ好きになる。
シンプルです。

つまり私が愛してる女性が、別な男性を愛するというようなことが起きるのは、ちっとも不自然なことではありません。

こういった観点に立つと、本来自由で誰かを好きになることが自然であるはずの人間の行動としては、その女性が私から離れることは、おかしなことでもなんでもなくなります。


その相手を自分の元につなぎ止めようとすることは、愛なのか? 執着なのか?

当事者である私には、もはや区別がつきにくくなってしまうのですが、第三者には「執着している」とわかります。

私の本音は、きっと無理矢理にでも相手を自分の元につなぎ止め、なんとしてでも自分の方へ心を向けさせたいわけなのですが。

たとえばその女性が私と夫婦で、子供もあったとしたら、法の力を借りてでも、子供をだしに使ってでも、とにかく相手をとどめさせることを試みるかもしれません。
もし相手の心を自在にコントロールできる魔法があるのなら、それを使ってでも自分の方を見させるようにするかもしれません。

「だって、彼女といることが自分の幸せなんだから!」
「愛しているんだから!」

当事者になると、愛と執着の区別がつきにくくなってきます。


しかし、これを愛する対象を、妻や恋人ではなく、子供に置き換えてみたら、この違いはすぐにわかります。

たとえば私が自分の子供を野球選手にしたいという、星一徹みたいな望みを自分が持っているとする。生まれた子供は運動能力が高く、スポーツで幸せになれそうです。

「飛雄馬、おまえはあの巨人の星になるのだ」

なんて言う人は、なかなかいないかもしれませんが(笑)

その子供は最初の頃は、私の夢と一致する野球選手を目指していた。

ところが、人生のある時期、サッカーに目覚めてしまう。
なんていう話は、じつにありふれています。

父である私はこれを容認できない。
そのためその子は、自分の望みを捨て去って、野球をやる。

私は親ですから、その子に対する愛情も持っているし、スポーツの素質をのばしてやりたいとも思っている。

しかし、この無理矢理にでも野球をやらせる、それがこの子の幸せにもなる、という私の思い込みは、愛でしょうか、執着でしょうか?

誰の目にも「執着」とわかります。
このたとえの中の「私」は、きっと自分の成し遂げられなかった夢やあこがれを子供に仮託しようとしているのですが、それは「私」の「過去」のどこかから発している思いです。

男女の問題になると、とかく判断がぐちゃぐちゃになってしまいますが、このように対象を子供などに置き換えると、その感情が執着なのかどうか、すっきり明瞭になることがあります。

愛する女性が自分から離れていくのをつなぎ止めようとする。

それは執着。

ただ、愛し合った日々を取り戻したい、いつまでもあのときの状態を維持したい。

その「過去」への執着から発しているのであって、「愛」ではなさそうです。

もちろん愛情が背景にあるにせよ。


その女性が、明らかに惑わされ、悪い男の方へ気持ちが傾いている、というような状況であることもあるでしょう。

しかし、そのような状況に関係なく、私が「元通りになりたい」というのは執着以外の何者でもない。
つらいことですけど。


執着には様々なものが存在します。

男女の問題もそうです。

富への執着。

車とか、モノへの執着。

ステイタスへの執着。

特別に高い欲求でなくても、また特定の人物への思いでなくとも、たとえば長年、自分が「普通に幸せになりたい」と思っているのに、それがなかなか得られない、その「普通の幸せ」への執着というのもあります。

今日、この「執着」について長々と記事にしたのには、もちろんこの次への布石となるからなのですが。

ノストラダムスの運命の逆転方法は、この「執着」を手放すことに最大のポイントがあります。