みし、という音がした。
ある日、授業を行っている最中のことだった。
なんだ、と思う間もなく、鈍い音とともに校舎に振動が走った。
「地震だ!」
誰か、男の子が叫んだ。
すぐに麻衣は「みんな、落ち着いて! あわてずに机の下に入って!」と指示した。
生徒たちの声。机や椅子の脚が床にこすれる音が教室に満ちた。
その中に、一人だけ、棒立ちになっている女の子がいることに麻衣は気づいた。
伊藤実奈だった。
――PTSDが強く残っているんです。
山崎の言葉がよみがえった。
麻衣は教壇から降りて、伊藤実奈のところへ駆け寄った。
「伊藤さん! 実奈ちゃん!」
呼びかけて、肩に手をかける。
すでに実奈は、恐怖に顔をゆがめて、泣き出していた。
「大丈夫よ!」
抱きしめ、机の下へ誘導しようとする。
するともう、そのころには地震は収まっていった。
たいした揺れではなかったようだった。
ほっとする。
が、麻衣の腕の中で、実奈は激しく泣き続けた。
いくら、大丈夫よと呼びかけても、止まらない。
拳を握りしめ、全身が震えている。
ちょうど終礼のチャイムが鳴った。
麻衣は子供たちに授業の終わりを告げ、実奈を保健室へ連れて行った。
保健室の先生がすぐに対応してくれたが、ちょっとしたパニックを起こしている実奈は、なかなか泣きやまなかった。
麻衣の袖をつかんだまま、離そうとしない。
とにかく抱きしめてやるしかなかった。
その姿に痛々しさを感じた。
そうなのだ。この子は、お父さんを地震で亡くしているんだ。
山崎が保健室にやってきた頃には、ようやく実奈は安静を取り戻していたが、麻衣はずっとそばにつきっきりでいた。
「やあ、生徒たちから聞きました。
関口先生の冷静で適切な対応で、生徒たちもパニックにならずにすみましたし、実奈ちゃんも……」
麻衣は首を振った。
「あたしなんて、なにも……」
ショックの反動か、泣きやんだ後、実奈はベッドの上で眠っていた。
かわいい寝顔だが、頬に涙の跡がついている。
「心の傷というのは、なかなか癒えないものなんですね」
麻衣は本当にそう痛感した。
「前にもこういうことがあって、そのときに実奈ちゃんが言ってました。
地震はいつ起きるかわからない。
どこから来るのかわからない。
それが怖い、と」
「本当にそうですよね」
目に見える脅威なら、人間は対処もしやすいし、戦うことだってできる。
しかし、地震のような急にやってくる自然災害には、人間はいまだにほとんど為す術がない。
心構えくらいしかできない。
「実奈ちゃんの言うこと、僕にはよくわかるんです」
ため息をつき、山崎は言った。
「じつはね、僕も同じなんですよ」
驚いて、麻衣は振り返った。
「僕は阪神淡路の時に、現地で被災しているんです」
えっと、麻衣は小さな声を上げた。
「まだ学生でしたが……初めて地獄を見たと思いましたね」
地獄を見た。
その言葉の実態を、麻衣はさらに問いかけることができなかった。
おそらくそれは、彼女などには想像もつかないもので、気易くふれることなどできないと思えた。
「父はそのときに亡くなり、母と一緒に避難所に逃げたんですが、その後の余震とかがくるたびに怖くてね。
そういう恐怖感から、心が疲れてくる人も多いんです。
母もそうでした。子供だけじゃないんですよ、心のケアが必要になってくるのは」
何も言えなかった。
「おっと、もうそろそろ下校の時間だ。
関口先生、ここ、お願いしていていいですか?
実奈ちゃんは、後で僕が送っていきますので」
山崎は保健室を出て行った。
ふと麻衣は、自分も実奈と同じようなものかもしれないと思った。
モンスターペアレントに毎日毎日脅かされ、電話の鳴る音にさえ過敏になっている。
それはもちろん、実奈や山崎の体験したことの万分の一にもならないものかもしれないが、性質は同じように思えた。
正直、心が疲れていた。
このところ、仕事にも身が入らなくなってきている。
生徒の手前、なんとか取り繕ってきているが、もうやめてしまいたいというのが本音だ。
こんな小さな子供でも、恐怖と戦ってがんばっているのに。
自分が情けない。
意気地もない。
そう思えた。
その日、麻衣は山崎と一緒に、車で実奈を自宅まで送り届けた。
母親は恐縮してしまい、何度も何度も礼を言っていた。
礼を言われるようなことなど、何もしてない。
何もできないから、ただそばにいただけだ。
麻衣はかつてないほど、自分がちっぽけでつまらない存在に思えていた。
そんな思いに満たされながら、学校からの帰路、車を走らせていた。
そのとき。
交差点の信号待ち。
角にあるコンビニエンスストアから、一人の男が出てくるのが目に入った。
今野だった。
無精髭を口元から顎にかけて生やし、身なりも、なにか部屋着のまま出てきたような印象だ。
それも何週間も着ているようなジャージ姿だ。
目が死んでいた。
信号が変わり、麻衣は逃げるように車を走らせた。
見てはいけないものを見た気がした。
バックミラーの中で、今野が自転車に乗ってふらふらと去っていくのが見えた。
今野の自宅のマンションは、ここから20キロほど離れている。
なぜ、こんなところに――?
「ああ、今野先生?」
N小学校の同僚だった教員に電話をかけ、確認してみた。
「なんでも、精神的にちょっと病んでしまったみたいで、もうずっと仕事はなさってないみたいよ。
あのマンションも一人では生活ができないからって、今は引き払って実家に戻られたって聞いたけど」
言いしれぬ衝撃。
大きな氷の固まりのようなものが、麻衣の胸に一瞬にして満たされた瞬間だった。
この物語はフィクションです。