<運命は自らが決める・2>
<運命は自らが決める・3>
<運命は自らが決める・4>
の続編です。
もし、私が過去世のどこかで人を殺したとしましょう。
今生で私は、そのことを償いたいと考えるかも知れません。当然、ブループリントである魂の計画は、自分が殺した相手とどこかで出会うようになっているはずです。
その償いの仕方はさまざまです。
因果応報ということを考えたら、その人に殺されることが一番手っ取り早いのかも知れません。
それによって自分の犯した罪を、我が身で実感できます。
しかし、それを行えば私を今回殺すことになるその相手。
その人はどうなるのでしょう?
人を殺す計画など、ブループリントにはないはずです。
そのようなものは報告されていません。
魂は本質的に愛であり、光なのですから、そもそもよほど歪まないかぎり、そんなことにはならないはずです。
それにもし私を今回殺してしまうことになったら、相手はまた罪の意識に悩み、次の転生にまで問題の解決を持ち越してしまうかも知れません。
生まれ変わるたびに殺し合うことが、私たちの運命ではないはずです。
その出会い、関わりの中で、分かり合い、許し合うことこそが、この因縁を解消するはずです。
生まれ変わりの研究報告の中には、自分が殺してしまった相手が、今回の人生では自分の母親となっている事例も報告されています。
もし因果応報だけが機械的に適応されるなら、これなどあり得ないはずのものです。
生命は傷つけ合うために存在するのではない。
前世で傷つけあってしまったとしても、今回もそれを繰り返す必要などないのだ。
それよりももっと大きな愛の法則があると、教えてくれるような事例です。
殺した相手に殺され、次に自分が殺す側になり、憎んだ相手を今回も憎み、そのあげくに相手からも憎まれるようになり……こんな連鎖は真実の因果ではありません。
人はいつでも、この連鎖から切り離されて、自由になることができます。
手放すことで。
なにを?
憎しみを。
こだわりを。
執着を。
すべてを忘却して、この世での体験を通じて学ぼうとしている私たちには容易なことではありません。
が、たとえば優れた霊能力者がいて、こじれた関係の誰かと自分のことを読み解いてくれたとしたら、それで心から納得して解消されることも多くあります。
「そうだったんだ! だから、こうなんだ!」
その瞬間に自由になれてしまうことが、現にあります。
これにはまず理解するということが第一になります。
相手と自分の関係。
その真実を理解する(あるいは真実と思われるものを)。
理解した瞬間が、心のこだわりが氷解する瞬間でもあります。
本物の霊能力者なら、このようなケアも可能になるでしょう。
彼が告げることが真実なら、かならず胸に響くこともあると思うからです。
占星術はこのようなわけにはいきません。
が、ホロスコープに示される互いの関係性、その人のチャートから読み取れる今回の人生の計画、その傾向などから、今こじれてしまっている人間関係などにも、なにがしかの理由が読み取れることがあります。
たとえば配偶者に土星の暗示を強く持つ女性が、実際に土星の影響を強く受けている男性を配偶者にする。
そして苦労させられる(あくまでもたとえです)。
このような関連性は、きわめて日常的に発見できます。
そこにはかならず受け取るべき経験と、解消すべき問題があると考えられます。
そしてその問題が解消される、あるいは何らかの結論が出てしまえば、本当はもうその問題で苦しむ必要などどこにもないのだということです。
重要なのは、そういった理解に基づいた解読、解釈をしてゆくべきだということなのです。
たとえば土星がハードアスペクトだから、たまたまそんな配偶者に当たった、というのではない、ということです。
しかし、従来の占星術の考え方だと、不運だからそうなったという解釈しかできません。
それはカルマだから人が不幸になるという考えに通じます。
私が申し上げたいこと。
因果応報の法則があるとしても、それがすべてに優先されるわけではない。
人と人は因果の応酬をし続け、リングに上がって戦い続けるボクサーではない。
それ以上の、理解と和解のためにこそ「生」がある。
そのチャンスが与えられているのが、この世です。
そして。
やはりこの世に生まれるときに、人は自らの運命をある程度計画している(自分で決めている)。
そしてこの世に生を受けてからも、刻々と自らの運命を決定し続けているということです。
つまり。
逆はないのです。
定められた運命や法則があり、それに人は無力に従うだけ。
運命が先にあり、人の人生という結果が後に付いてくる。
これは多くの人が信じやすいことですが、真実ではない。
実際は、定められているかのように見える運命すら自分で決めている。
そして、その後も人の選択によって、運命はいかようにも変化する。
つまり、運命は自らが決めているのです。
私はかつて宿命と運命について触れたことがあります。
宿命は「変えられないもの」、運命は「変えられるもの」として定義づけているかたがいらっしゃいます。
用語の問題として、私もこれはこれで良いだろうと思っています。
宿命の中には、たとえば親子関係(生まれてきたからにはもう変えられませんよね)とか、生まれた国とか、何らかの先天的に備わっている問題とかがあります。
私は以前の記事の中で、変えられるものと変えられないものがあると述べたことがあります。
ブループリントの中で、「これは絶対に外せない」と計画しているものがあるとすれば、その体験をすることはおそらく避けられません。
たとえば海外旅行、ヨーロッパを旅行する計画を立てるときに、パリとニースは絶対に見ておきたい、というように決めておくのと同じです。
魂の計画も、AとB、これだけは絶対にしたい体験、学びのために必要とする経験というようなものがあるはずです。
それはたぶん変えられない。
変える必要もない。
その人が生まれてくる意味の一部が、そこにあるのですから。
けれど、変える変えられないではなく、「決める」ということに焦点を当てたら、じつは人はまったく無力ではないのです。
つねに運命を自らが創造している。
そういう意味では、今回の人生を生きている間に、次の人生の創造もすでに行っていることになります。
今回の行為(=カルマ)を通じて。
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
「そうですか。わかりました」
と、彼女は言いました。
「主人と話し合ってみます。
きちんと罪を償ってくるのを待ってみます。
そして、やり直してみようと思います」
皆様が良き明日の人生を創造されることを願って。
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