昨日は成人式が各地で行われました。
うちの娘も振り袖姿にチェンジして、行ってきました。その後、勤務先に母と共にやってきた娘。
勤務先のホテルでも二人の女性が成人式を迎え、振り袖姿で先着していました。<2人が仲が良いのには理由(わけ)がある>のMさんとTさんです。
三人の娘たちが並んでいることを見て、「うちの娘もMさんTさんに負けず劣らずきれいだな」と思った、親ばかのzephyrです。
成人。
大人になって行く彼女。
成長を嬉しく思う反面、親として一抹の寂しさのようなものも感じます。
そして、私は「これが執着というものなんだろうな」と思いました。
私たち親は、娘がホントになにもできない赤ん坊の頃からの記憶があります。
自分が守り、ミルクをあげ、おむつを取り替えねばならなかった、そんな頃からの。
100%、私たちがいなければ。
私たちがしてやらなければ。
小さく、弱かった。
娘は膝の関節のはまりが悪く、炎症を起こして長いこと、患っていました。今でも無理はできない。
毎日のように治療に連れて行きました。
セーラームーンに夢中だった娘。
一緒に行った旅行。
こうして過去から積み重ねなられてきた記憶の中に、娘と私たちの「関係性」があります。
それが変化しようとしている。
過干渉だったり、過保護だったりすると、この変化こそが悪しきものと感じられるのです。
これまでの関係を壊したくない。
維持したい。
これが執着だと、私は感じました。
これは親子だけの関係だけではありません。
夫婦や恋人同士の関係にも言えます。
たとえば私の妻が、「なにかやりたいことができた」と言いだして、それに夢中になるとしたら、私という夫は「面白くない」と感じるかも知れません。
関係性が変化するからです。
すでにある何かに変化が生じたとき、以前の状態の維持に固執すること。
これが執着なんだと。
よく愛と執着は取り違えられます。
「愛しているから」その相手が何か変化するのを嫌う。
どこかへ行くのを嫌う。
自分から離れるのを嫌う。
たしかに背景には愛があるのです。
でも、本当はその相手との積み重ねてきた関係性を維持しようとしているだけ。
あのときの良かった関係、楽しかった関係、自分がそばにいないとだめだったその相手との関係……。
これを今もなお繰り返し、繰り返し、繰り返してゆきたい。
これは執着以外の何者でもないんだと。
人は変わってゆく。
子供も成長してゆく。
なにもかも、ずっと変化しないのは人を化石にするようなもの。
執着は、愛を個人のエゴでアレンジした姿なのかも。
けれど、多くの場合は、執着はネガティヴで、愛は明るく晴れやかです。
「執着は真の愛ではない」という人もいるでしょう。
それもちょっとかわいそうかな。
そんな印象も抱きます。
その境界線は微妙で、見分けのつきにくい領域があります。
でも、やはり執着ではなく、愛のそばにいたい。
愛の選択をしたい。
成人を迎えた娘を見て、そのようなことを感じたzephyrでした。
