明けまして、おめでとうございます。
年男のzephyrです。
寒波が襲来しておりますが、移動中の皆様は降雪情報などにご注意ください。
けっこう大きな事故も起きております。
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皆様はもう初詣は行かれましたでしょうか。
私は4日、家族と行く予定にしております。
けれど、昨年中に私は出雲へ行くことがありました。
ある人の幸せを祈願するために。
そして、自分自身のために。
私は神社に行くと、たいてい個人的な願い事はしないようにしていました。
神社それ自体はすごく好きで、よく行きます。
しかし、「願い事」はみだりにしない。
だから、出雲行きはかなり例外的なお参りでした。自分自身のことも含め、はっきりと「願い事」をしようと決めていたからです。
そして行く前から、考えていたことというのか、はたと胸に落ちてわかっていたことがありました。
それは信じるということはどういうことなのだろう、ということでした。
私たちは神社や仏閣に出かけ、神や仏に願い事をします。
それはもう本当に気安く。
そして、それどころか「願ったけれど、叶うかな、叶わないかな」とか「気休めだよな」とか、ほとんど無意識に感じていることが多くないでしょうか。
また自分の努力を重視する人は、「願い事はするれけど、基本、叶うかどうかは自分次第。その助けに願う」というような考え方の人もいると思います。
私も基本、自分の努力優先型です。
だから、願い事はあまりしない人でした。
でも、人には本当に真剣に願わねばならない瞬間というのがあります。
願うしかない事柄というのか。
そして、もし自分がその神様なり仏様を本当に心から信じることができるのなら、上記のようなあいまいな願い方は真の意味での信心ではないはずなのです。
本当に信じているのなら、それは絶対に叶えられると安心すらできるはずなのです。
私は出雲へ出かける前、はたとそのように思い至りました。
今まで、どのような参拝でも経験のしたことのないような、目覚めた感覚でした。
出雲のその神社は、これまでにも訪れたとき、透徹した澄んだ気を幾度か感じたことがありました。
きっと自分にとっては特別な場所。
なにを置いても信じられる場所。
その神様はきっと自分の願いを叶えてくれる。
そう信じたら、すでに安心できるし、もう叶えてもらったかのように感謝すらできます。
はたして、出雲の地で私は同じ「気」に迎えられました。
いや、同じというのか、もっとやさしくて、それでいて叱咤(しった)してくれるような、そんな「気」を感じました。以前経験したときには、もっと厳かに感じました。
「わかっている。もう聞き届けているよ」
そんなメッセージのようなものを感じました。
私の願ったこと、それは叶ったときにブログに書こうと思います。
もう一つ願った、別な人の幸せ。
それもまたきっと叶う。もう聞き届けられているのだから。
