たとえばこれは小説家にも当てはまります。
○○賞を取ってやろう、と考えて作品を創作し、実際に取れる人もいるかも知れません。
しかし、その意識が過度になると、「いい小説を書いてやろう」という気持ちが強くなり過ぎ、逆に自然な物語の発展を阻害し、登場人物にもコントロールして動かす意図が働きすぎて、生きた人間としての生気がなくなったり(登場人物のロボット化)、考え抜いた挙げ句、話が小さくまとまってしまうとか、さまざまな悪循環を起こしてしまいます。
小説というのは、本質的にはもっと生き生きとしたものであり、作者の都合でコントロールするものではない、という側面がどこかにあります(推理小説は解決というオチがあるので、どこかでうまくコントロールしないといけないわけですが、このへんのバランスが難しいところなのです)。
ただいい小説を書けばいいのに、いい小説を書いてやろうとすると、問題が生じてしまうのです。
これは、芝居の演技者などにも当てはまるのではないかと思います。
私は芝居などしたこともない(学校の行事以外では)人間なので、あるいはとんちんかんなことを言うかも知れないのですが、「うまく演じる」ということはどういうことでしょうか。
たぶん、こういうことではないかと思うのです。
その役の中に入っていき、自分なりの解釈や理解の中で、その人そのものになっていくことなのではないでしょうか。
つまり「一体化」です(どこかに複眼は残すとしても)。
しかし、「うまく演じてやろう」ということに意識が向きすぎると、「うまくやること」そのものが目的になってしまい、実際には観客側から見ていると「臭い芝居」になったり、何度か上演されるのを見ると、「その度に役が違って見えたり」というぶれにもつながっていくのではないでしょうか。
本当はただ役の中に入り、良い演技をすればいい。
なのに良い演技をしようとすれば、ドツボにはまる。
陶芸家は無心に土をこね、皿や壺を形作り、釉薬を塗り、窯で焼き上げます(備前焼なら釉薬もない)。
自分のイメージするものを手を通じて形にする。
ただそれで良い。
そのイメージを頭の中で形作るときに、たとえば使う人の使い勝手や手触り、床の間に飾ったときの見栄え、存在感、食器なら料理が盛られたときバランス……そういったさまざまな背景を考慮に入れることはするはずです。
これは小説家が物語を構想するときに、物語のテーマや人物設定、筋立てを考えるのと同じです。
しかし、十分に熟成されたなら、それは自然に指先から生み出されていくものです。
しかし、良い焼き物を作ってやろうとすると、出来上がったものを目の当たりにしたときに、失望するかも知れません。彼は壺を足下に叩き落として割らなければならないかも知れません(焼き物は火という不確定因子が入ってくるため、造形が完璧でもそうなる可能性も高い)。
こういったことは、どんな職業の人にも言えるのかも知れません。
私が日常的に従事しているサーヴィス業。
良いサーヴィスとは、単純に、そのお客様の立場になり、その人の望む何かを感じ取り、こちらとしてはどのようにそれに対応できるか、ただ考え、実行に移せばいいのです。
しかし、良いサーヴィスをしようとすれば、たとえば先輩のかっこいい仕草のまねごとに終始したり、同じような喋りのコピーになったり、「そのお客様」を見ることがおろそかになります。
そして、良い家庭を作ろうとすれば?
良い夫婦関係になろうとすれば?
良い親子関係に築こうとすれば?
こういった事柄は、より難しくなってきます。
なぜなら相手があるからです。
そもそも「良い家庭」ってなんだ? というところから問題が始まってしまいます。
その人が考えると「良い」と、その人の配偶者や子供が考える「良い」は違っているかも知れないのです。
前記事でも書きましたが、これらはすべて「期待」から生じています。
こうあってほしい、自分の考えの中ではこれが良いこと。
期待には人を伸ばす良い側面もあるとは思います。
たとえば子供に「期待してるよ」と明るく声をかければ、その子は「期待されていること」に喜びを感じ、がんばれるかも知れません。
しかし、自分本位な期待を、私たちはつい相手に抱いてしまいがちです。
そして、なにかを実現しようとします。
でも、本当はただあるがままの相手を受け入れて、肩の力を抜き、素の自分で接していけばよいということもあるのではないでしょうか?
もちろん無理な場合もあるでしょう。
DVを行ってくる配偶者を、ただあるがままに受け入れろ、といっても無理があります。
自分本位で毎日博打をして、遊興にふける旦那を持ってしまった奥さんに、受け入れろと言っても、「いや、なんとかまっとうになってもらわないと生活ができない」というケースもあるでしょう。
すべてに適応される法則ではないのですが、しかし、「良い家庭」「良い夫婦」「良い仕事」というものに縛られ、頑張っている人ほど壊れやすいものです。
人が頑張っているところは、ホロスコープ・チャート上では星が集中したり、土星が強く関与したりしているものです。
そして、その挙げ句、星の機能不全さえ起こしてしまいます。
そんなに頑張らなくても、もっと楽に生きていったらいいんじゃない? そんなふうに思う人にも、よく遭遇します。
前記事のバイクのライディングを思い出して下さい。
喜びに満ちて、峠を駆け抜けていくときのライディング。
それはゆるんで、バイク(相手)の動きを妨げず、コントロールをある面で放棄した状態で実現します。
放棄すれば、逆にうまく走れてしまう。
一体となって。
こんな方法が適応できるケースもあると、知っておいて下さい。
ゆるんで、リラックスして。
この世に与えられた自分の生命と、その命の運ばれるところを信じて。
とりあえず、連載記事終了。
思うところがうまく伝えられたかどうか……。

薫由記さん。
あなたのチャートは、スプラッシュ型といって、星が多方面に分散して存在しているパターンで、偏りが非常に少ないタイプです。いろんな体験をするには有利なチャートですが、逆に「これ」というものに絞りにくい傾向が出てきます。その中でもこだわりの土星は11ハウスと蟹座にあって……いや、まあ、今度会ったときに教えます(笑)。一応、個人情報ですし。
天蓋KSさん。
どぞ。いつでもお気軽にご連絡下さい。