かなり際どいものです。
でも、行きます。
このブログでは比較的良く登場する「シンクロニシティ」という言葉。
日本語では共時性とか同期性とか訳されています。
でも、共時性とか言われても、意味不明です。
意味のある偶然の一致。これがシンクロニシティの意味するところです。
たとえば誰にも覚えがあるのではないでしょうか? 何年も会っていない友人のことをふいに思い出していたら、当の本人から電話がかかってきたとか、あるいは街角でばったり出会ったとか。
なにか仕事上のことで思い悩んでいたら、たまたま目にした雑誌の1ページに、その解決方法について有効な手段や情報が載っていた、とか。
またこれという理由もないのに、同じような出来事が別々の場所で起きるのを連続して目撃する、とか。
なぜか同じ名前の人が(無関係なのに)次々に自分の前に現れる、とか。
私はこういったことをよく経験します。
たとえばあるミステリー・イベントの仕事が決まる直前、私は書店で何冊か同系統の本を買い込んで読んでいたのですが、イベント決定の知らせが来てみると、読んでいる本がまさにそのイベントの土地に深く関わっていたりとか(もちろんその土地のことは事前に知らされていませんでした)。
前記事に書いたように占星術鑑定で遭遇する人が連続して、なぜか同じ特徴を備え、同じ問題を抱えているとか。
こういった現実的には理由が説明できないが、なんらかの見えないものでつながっているような偶然の一致のことを、シンクロニシティと呼びます。
シンクロニシティはその人がリラックスし、伸びやかな精神状態の時に良く訪れ、その人を良い方向へ導く機能があることが多いです。
良いコンディションの時に、それは起きてくるという傾向があるようです。
逆にこめかみに青筋を立てて、渾身の努力をしているというような追いつめられた状態では起きにくいとも言われます。
これは占星術法則にも叶っているのですが、これについてはまた述べます。
ところが。
このシンクロニシティについて、最近、そのような流れの中に身を置いて、妙なコンディションに落ち込んでしまっている人を、時折見かけるのです。
これは占星術をやろうとしている人、またスピリチュアルなことに関心のある人に、是非、戒めとして知っておいてもらいたいことです。
たとえば私がある場所で行った講演を聴き、「大変感銘を受けた。あなたの言っていることは素晴らしい。自分がかねがね思っていることと符合する。あなたのこれまでのことと、私のこれまでというのも、すごく一致している。何年に何があったとか、転機がいつだったとか。すべて同じです。きっと、あなたと私には何かスピリチュアルなつながりがあるんです」と言ってこられたAさん(仮に)という方がいらっしゃいます。
非常に思い込みの強い方で、私との運命的な出逢いを超確信なさっているようでした。
運命的な出逢いというものを、もちろん私は否定しません。
これまでの人様の鑑定を数多くしてきた中で、チャートの中にそうのような2人の男女、あるいは親子の、信じがたいような符合を見つけ出すことはあります。
しかし、それはAさんのような、一方的な思い込みの中に存在するものなのでしょうか?
Aさんはその日の講演を、いくつかの偶然が積み重なって、たまたまその気になって来た、と仰いました。そこにもまた、非常に運命的なものを感じる、と。
たしかにそうかも知れません。
私が話す拙い講演の中に、Aさんに何か気づきをもたらすようなものか、あるいはそのささやかなとっかかり程度のものがあったかも知れません。
そこにAさんが来た理由はあったのかも知れません。
しかし、その重要な部分を飛び越えて、Aさんは運命的な出逢いの方に、どうやら思いを奪われてしまったようでした。
私は「軌道修正できるだろうか」と思いつつ、その後、幾度かAさんに接触を持ちましたが、ダメでした。
Aさんの気持ち、思い込みは、そこから動きませんでした。
これはたとえとしては、ちょっと不適切かも知れないのですが、たとえばこういうことです。
ある人Bが、フレンチ料理に関わって生きてきた人だとします。Bさんはある日、フレンチに関していくらか熟練した職人Cに出会います。
そしてCの持つフレンチの技法や知識に感銘を受けるのですが、そのCから得られるものがありながら、その精神的なものも含んだ技術、知恵から何かを得ようとするのではなく、Cと関わりを持った事自体、Cと縁を持っている自分自身にステイタスを見出す。そんな自分に満足を覚える。
というようなものです。
※ 申し上げたように、この記事は、本当に微妙なものを含んでいます。誤解される危険も多いです。
まず声を大にして、「注釈」を入れておきたいのは、私がえらい人だと言いたいわけではない、ということです。それどころか、私は普通の人間です。
自分のことをつまらない人間とも思いませんし、なにかしら人の役にも立つところがある人間だとも思っていますが、同時に過ちも犯すし、うっかりしたところも多いし、だらしないところも多い、トータルで言えば「普通の人間」だと思っています。
ここは誤解しないで下さい。
でも、恐れずに進みます。
「もしかすると、縁あって出会ったのかも知れないが、これでは……」
私はAさんのもとを何度か訪れた後、もう会うことはやめようと思いました。
Aさんの思い込みが強すぎ、変更の余地がなかったからです。
もしかすると、私はAさんよりもちょっぴり、良いところを持っていたのかも知れません。とくにスピリチュアルな面で、Aさんを良い方へ変える何かを持っていたのかも。
いくつかの偶然がなさなって、私の講演を聴きに来たAさんには、「軌道修正の良い機会」が与えられていたのかも知れません。
しかし、Aさんはそこに目覚めず、自分なりに曲解してしまうのです。
これは、たとえて言えば、ヘビメタにどっぷりつかった人間が、クラシックに遭遇したときに、その良さ、すばらしさに感銘を受け、その本質部分になにかしら自分のアーティストとしての資質に変化をもたらすものを見出すのではなく、あくまでもヘビメタ基準でクラシックを強引に解釈してしまおうとするようなものです(べつにヘビメタの悪口を言いたいわけではありません。念のため)。
そうではなくて、違った見方、より広い視野を手に入れられる。
Aさんはそういう機会を与えられていたはずなのですが、どうしても今の自分というものに固執してしまったようです。
またこのようなケースがあります。
鑑定を通じて知り合ったある女性Dさん。
彼女は自宅の改築時期や家相の研究をとっかかりに、自分の家に起こったこれまでの不幸や不都合な時期と、自分のやってきたことを総合し、自分なりの運命論的な考えを構築しました。
これは別に悪いこととばかりは言えません。
それは真実かも知れません。
しかし、Dさんはどんどん研究を進めていきました。そして、それを進めるほどにのめり込んでいきました。
「この家相の方位には、じつはこういった意味が込められいる。それは大和のM山の神。そしてその神は四国のK山の神でもあり、そしてそれは仏教では薬師如来の十二神将の中ではこれに相当する……M山の神は疫病の神だ。これは、私に何者かが『疫病が起こる』ということをい告げているんだ」
……………。
かなり思い込みの世界です。
調べたことは、とくに間違いではありません。
私もすべて知っていることでした。
神話や伝承。それをDさんはつなぎ合わせ、自分なりの思い込みの結論を得ました。
「先生、今年疫病が起こります。新型のインフルエンザです。ものすごくたくさんの人が死にます。生き残る人は限られていて、先生、あなたもその資格がある人かも知れません。私に協力して下さい。なぜなら、先生の生年月日も1と2という数字が多いからです。私の家族にも異常なほど1と2の誕生日が多いんです」
たしかに私の誕生日は、1と2が多いです。しかし、考えてもみて下さい。一ヶ月は約30日か、長くて31日です。つまり1と2がつく出生日は、非常に多いのです。月でいっても、1月2月、10月11月12月と、1と2のつく月は多く、出生日も同様に考えを進めていったら、1、2、10、11、12、20、21、22、31といった具合に、月の中に占める割合は多いのです。
たしかに家族が1と2の数で構成される生年月日ばかりでという確率は低いです。
それにはなんらかのシンクロニシティが働いている可能性はあります。
しかし、それは別な理由があるのかも知れません。
「先生、占星術師としての力を貸して下さい。仲間になって下さい。この災厄から助かる方法があります。仲間になってくれたら、先生とそのご家族は救われるんです」
正直申し上げましょう。
ご家族を救うことができるんです、と言われたとき、ぐらっと揺らぐものはありました。こうして書くと、ばかばかしいと思われるかも知れません。
しかし、万が一ということはあります。
もし、この人の言うことが本当だったら、と思うと、家族のためにDさんのいう情報だけでも知っておきたいという気持ちが、ちらっと動きました。
が。
やはり、この方のコンディションは、やはり普通ではありません。
そのDさんは、夜中、「1時2時ごろになったら、引き寄せられるようにパソコンの前に行き、それでいろいろとインターネット調べ物をしているんです。やめられなんいです。それで家族にも迷惑をかているんです。でも、やめられないんです」とも、自分で告白していました。
古来、魔の跳梁する時間帯と言われる、丑の刻です。
それだけではなく、私はこれまでの人生の中で、さまざまな霊能力を持つ人(自称だけでなく、本当に力があると信じざるを得ない、私だけが知る情報を口にする人もいました。これは怖いことですが、本当のことです)、神様に選ばれた的な人、自称・陰陽師(これは完全な偽者でした)などと接触を持ったことがありました。
こういった経験が役に立ったのか、私はこのDさんの申し出に、きっぱりと断りを入れました。
「私はあまり好きでないものがあります。それはキリスト教の教義の中にあるような、『これを信じたら救われる。信じないものは滅ぼされる』というような、選別です。ですから、お申し出の件はお断りします。あなたの仲間にならなくても良いし、助かる方法を知らなくてもいい。私は自分で家族を守りたいし、その方法を持っています」
注・キリスト教の「信じる者は救われる」という教義はまた別な意味があると思っています。キリスト教非難ではなく、その中の信じる者だけが最終的に救われる、ハルマゲドン、黙示録的な思想が好きではないという意味です。
ショックを受けたDさんは、「そうか……。先生は9を持っているから、いっしょになれないんだ。やっぱり意志がお強い」というようなことを仰いました。
9というのは誕生日の中に、9を持っているということです。つまり1と2ばかりで構成される仲間ではない、ということです。
そんなばかな。
1と2だけで誕生日が構成されていなければ、救われる資格がないとでも?
この時点で、Dさんの背後にあるものが、私にははっきり見えた気がしました。
(カンのいい方は、ここで早のみこみしないで、最後まで読んで下さい)
考えてもみて下さい。
もしDさんが愛によって動かされているなら、出し惜しみなどせず、「救われる方法」を言えばいい。
このようなインターネットでもいいのです。
呼びかければいい。
それで1人でも2人でも救われたらいいじゃないですか?
しかし、なぜ仲間にならないとそれは言えないのでしょうか?
Dさんは「人を救うための方法が、自分には示された」と思い込んでいました。自身でそのように仰っていました。繰り返し、何度も。
「わたし、わかったんです」
誇らしげに。
わかったのなら、告げればいい。皆さんに教えればいいのです。
たとえ間違っていても。
無私の愛から出ているのなら。
なぜ、告げないのでしょうか。
仲間にならなければ、なぜ教えないのか?
それは仲間にすることが目的だからです。
自分の下にそうして多くの人を引き寄せたい。
そこに動機があるからです。
Dさんは、後日、私を訪ねてきました。かなり強引な手段で。
私が断れないような状況で。
そして、また言いました。
「わかったんです。地震です。今年の6月12日にそれは起きます。たくさんの被害が出ます。先生のホロスコープで、もしその日に6月12日に地震が起きると分かったら、この○○さんに連絡を取って下さい。私には無理でしたが、先生になら可能だと思いますから、仲介して下さい」
この言葉は、今回の豚インフルエンザ騒動が起きる前のものです。
聞いたとき、私は「前は疫病、インフルエンザだったのに、今回は地震になったの?」と思いました。
前から地震のことは言っておられましたが、急な方針転換です。
しかし、チャートで6月12日が地震が起きそうだと分かったら、ある人につなぎを取ってくれ、というのも、もはやかなり常識を欠いた行動、申し入れです。
なんで、そんなことしなきゃいかないの?
普通ならそう思います。
念のために6月12日を調べてみましたが、中規模の地震が起きてもおかしくはないですが、かりに起きたとしても、ほかの多くの地震が起きそうな日と、特別な大差がないと判断しました(つまり大被害は出ない)。
このDさんではない、Eという事例も、ちょうど同じ時期に耳にしました。
Eさんは自分ではなかなか解決できない場所を確保するために、私の知っているイベント会社に「仲介してくれ」と突然、ほとんどなんの関わりも今までなかったのに申し入れてきたといいます。
世間的な常識はない行動です。
このEさんもまた、非常に思い込みが強く、どうも自分の世界で起きていることをつなぎ合わせ、「自分は特別な人間」という発想につながりやすい傾向がありました。
日常的に自分の能力を誇示することを言っています。
共通して言えるのは、「エゴ」です。
これをようやく、最近になってはっきりと認識することができました。
シンクロニシティというのは、その人を導く光として訪れるというのは、たしかにあります。
しかし、その導きの光を曲解し、エゴの増強に結びつける、なんらかの「力」があるのを、私は感じます。
こういうと、やれ悪魔だとか闇の力だとか、そんな話になりかねません。
そうではなく、私が申し上げたいのは、星々にもライトサイトとダークサイドの力があるということです。
海王星の力は、ダークサイドだとかなり悪魔的で、嘘、偽り、肉欲といった、タロットの「悪魔」のカードを彷彿とさせるような意味合いがあります。
しかし、海王星のもっとも善良な発露は、「無私の愛」であり、「献身」「奉仕」です。
マザー・テレサのような生き方です。
星の力を、良く使うも悪く使うも、それはその人次第だということが、じつにリアルに感じられました。
シンクロニシティを良き導きとして活用している人。
そうでない人(エゴの強化に使っている人=自分は特別なんだと思い込もうとしている人)。
スピリチュアルな領域の話になってくると、この見分けは難しくなってきます。
しかし、じつは単純に見分けられます。
人の生まれてきた目的に照らせば分かります。
人は今隣にいる人を愛するためにこそ生まれてきています。
隣人を。家族を。そして付き合う人々を。
それを犠牲にして、無視してまで、迷惑をかけてまで、そうまでしてスピリチュアルな影響力をふるおうとしているなら、これはすでに脱線しています。
スピリチュアルの本質に立ち返るなら、家族を愛し、隣人を愛するということは、基本的にあるはずだし、その延長には当然、現代社会の中で常識をわきまえ、迷惑をかけない、といったこともあるはずだからです。
とはいえ。
これは難しい問題です。
思い込んでいる当人には、これもまた戯れ言にしかならない可能性があるからです。
この記事は非難を浴びるかも知れません。
それを承知で、その脱線している人にこそ読んでもらいたいと思い、UPします。
どうか正道に立ち返り、理性的な判断を取り戻し、家族をこそ、隣人をこそ、愛してほしい。
そういう願いと祈りを込めて。

「そういうおまえはどうなんだ?」
この問いかけは、つねに私の胸にあります。
もし、私が妻や子、身の回りにいる人達、占星術で鑑定している人達と、その人たちの幸せのためでなく、自分のエゴを満足させるために接するようになったなら、そのときは糾弾して下さい。