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特定宗教への凝りはまったくないものの、無神論者ではないzephyrです。
神様がいるかどうかというのは、客観的証明ができません。
なぜかというと、もしいないのであれば、もともといないのだからその存在を証明することはできません。
逆に存在するのだとしたら、宇宙や世界を創造したというようなスケールの大きなものが、人間の認識で簡単に捉えられるはずもないからです(神が創造主だとすれば)。
創造主としての神を認識できるのなら、そのとき人類は宇宙の隅々まで、すべての謎を解き明かすほど超越的な存在に進化していなければなりません。
したがって、証明は不能。現時点では。
ここからすでに、神様というのは人の思いの中にしかいらっしゃらないということは言えると思います。
もっとも世の中にはいろんな神様がいます。
ヤハウェ、エホバ、アラーといった一神教の唯一神。世界中の土着的な宗教、神話に登場する無数の神々。日本の八百万の神々。
数多くの神社に鎮まっておられる氏神、天神地神、菅原道真みたいに人間から神様になったものもあります。
日本人はなべて、宗教的節操というものがありません。
お正月には神社に初詣し、結婚式は神前か教会、イエス・キリストの誕生日ということになっているクリスマスを祝うし、誰かが亡くなったら仏教でお葬式を出すという、厳格な宗教の信徒から見れば、信じられない行いを日常的にしているのが日本人です。
特定宗教に凝りを持たない日本人全般が、漠然と考えていそうな神様とはなんでしょうか。
それはたぶん、固有の姿を持たない、「気」のような、それでいて大きな何かといった印象ではないでしょうか。
なにか困ったことが起きたとき、
「神様助けて下さい」
と日本人が空を仰ぐとき、頭の中に特定宗教の神像がイメージ化されている人の方が、どっちかというと少ないのではないでしょうか。
日本人の集合意識の中にある神様。
それは普遍的で、形を持たないもののように思えます。
それは静閑な杜(もり)で、木立の中に囲まれて感じる、すがすがしい空気のようなもの。
大自然に満ちている「気」のようなもの。
私たちを守り、育んでくれている、見えないけれど意志や意識はありそうに思える何か。
それは地球なのかも知れませんし、もっと大きな太陽系全体や銀河の意識なのかも。
そう考えるとき、私は日本人に生まれて良かったと感じます。
名前を付けられている特定の神様を崇拝するのは、ある意味、狭い生き方です。
でも、無節操な日本人は、無節操だからこそ、閉ざされない生き方ができるように思います。
というようなことを考える私は、そういった意味での神様の存在を実感したことがあります。
それは小説の取材で、元伊勢のある神社を訪ねていったときのこと。
スタッフと共に乗った車が目的地へ近づくにつれ、前方にはものすごい雷光が走っているのが見えました。
キングギドラが暴れているような光景で、正直、恐怖を感じました。
スタッフもあまりのすごさに、「翌日にしましょうか?」と提案してきたほどです。
しかし、私はなぜか「いや、行きましょう」と答えていました。
車が進むと豪雨に。
大変などしゃ降りです。
雷雨の中へ突入したのです。
私は祈っていました。光に。
すると、やがて雨は小降りになり、その神社へ向かう最後の橋を渡るとき――。
傾きかけた太陽の光が切れた雲間から差し込み、ガスのかかった視界を真っ白に染めました。そして私たちが渡ろうとするその橋の上に、二重の虹が鮮明に出現したのです。
それは鳥肌だつような光景でした。
瞬間、私は「ああ、迎えてもらえた」と感じました。
目的の神社に到着したときには、雨はほとんど降っておらず、取材を進め、奥宮へ。時間が経ち、薄暮が迫っていました。
奥宮は、渓谷に巨大な岩が多数落ち込んで、渓谷自体を塞いでいるような、荘厳な場所でした。
そこへ降りていくとき、ふと白いものが渓谷の底に見えました。
白い、首の長い鳥でした。
彼女(となぜか思えました)は優雅に翼を広げ、夢のようにふわっと飛び立ちました。そして、塞いでいる岩の向こうへ音もなく飛び去ってしまい、見えなくなりました。
「……先生、今の神様じゃないんでしょうか」
若いスタッフが、かすれたような声で言いました。
普通なら彼のような若者は決して言わないようなセリフです。しかし、荘厳な大自然の中に鎮座するその神社の雰囲気と、虹と白い鳥のあまりにも奇跡的なタイミングでの出現が言わせたのでしょう。
むろん私もまったく同じ思いでした。
神は存在する。
そこかしこに。
万物の中に。
岩の中に。
草木の生育の中に。
動物にも。
私たちの中にも。
そして、そのすべてから私たちにメッセージを送ってくれる。
そんなことを感じました。
むろん、これは私の思いです。
