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決して自分が嫌いではないという前提に立った上で、
「自分以外の存在になりたい」
ですね。
なぜなら新たな体験をしたいから。
別な人生を経験したいから。
欧米で行われている生まれ変わりの科学的な研究(退行催眠や臨死体験)によれば、人の魂は何度も転生を繰り返すということが報告されています。
深い催眠状態で、何十回何世紀にも遡る生まれ変わりの記憶を蘇らせた人もいるそうです。
私たちはなぜそうまでして何度も人としての生を生きることを繰り返すのでしょうか?
すべてを味わい尽くしたいからではないでしょうか。
その中には苦難の中での悲嘆、逆境の中での苦しみ、理不尽な出来事への憤り、憎しみなどといったネガティブなものも含まれている。
それらの研究報告によれば、この世に誕生する前、人はそれぞれの人生の設計図を作ると言います。
未熟な魂は、より詳しく、道を踏み外さないように様々な防護策を講じた密な設計を。
高度な魂ほど、おおざっぱな設計になり、予想外のハプニングや理不尽に感じられることも増えると言います。
しかし、親も自分で皆、選んでいるそうです。世間的に見たとき、どんなに悪い親であっても、です。たとえばDVをするような親でも、あえてそういった環境、苦難からのスタートを選ぶ魂もあるということです。
すべてを忘却し、現実を生きている私たちには、「そんな馬鹿な」と思えることもたしかにあります。
無意味な死、無意味な不幸。そう思えることもこの世にはたくさんあります。
テロや国家間の諍いで、とばっちりのように死んでいく子供。
しかし、その子の生もまた無意味であったなどとは、私は思いたくありません。
その摂理は、私たちには見えないものであっても、別に構いません。
人の限られた認識の中で、すべてを分かろうとするのもまた傲慢でしょう。
だから私は、すべての生とすべての死に意味はあると、自分で決めています。
そう思う方が、この世に生きていることの価値や意義を感じられ、それが喜びにつながるからです。
ただ、悲惨な出来事はやはり悲惨であり、悲しみはやはり悲しみなのです。
だから、それをただ抱いていけばいい。
あるがままに。
そう思います。
どのような生であっても。
生まれ変わっても自分になりたいか?
自分にまたなっても構いません。
自分のことが嫌いでないから。今自分のまわりにいる人々が好きだから。
しかし、どちらかといえば、そんな人々ともまた違った形で出会いたい。
そしてより多くのことを知り、体験し、味わいたい。
すべてになりたいから。